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中宮寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳太子ゆかりの南都仏教の尼門跡寺院。法相宗系聖徳宗門跡寺院。聖徳太子建立七寺の一つで、用明天皇皇后の菩提寺。本尊は、如意輪観音。法隆寺東院に隣接するが、創建当初は東550mの地にあった。近くに中宮寺宮墓地がある。中宮寺門跡。斑鳩御所。鵤尼寺。法興尼寺。法興山。法隆寺関連旧跡。
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歴史
聖徳太子が母后穴穂部間人皇女のため、皇后の宮殿中宮を改めて寺院としたのが起源(『聖徳太子伝暦』)。創建時期は皇后の生前とも皇后の死後とも伝える。元は現在地から東約550mのところにあった。発掘調査で四天王寺式伽藍だったと判明している。「中宮」の名は葦垣宮、岡本宮、斑鳩宮の真ん中に位置したことに由来するという。平安時代には衰退。康和3年(1101)から天承元年(1131)まで金堂と塔を修理した記録があるが、寺史はほとんど分からない。鎌倉時代の文永年間に叡尊弟子の信如が復興。文永11年、法隆寺の蔵から『天寿国繡帳』を発見した。また弘長2年(1262)勤行清規を制定、弘安4年(1281)、梵網会を始めた。
室町時代に再び衰退し、延慶2年(1309)に火災。天文年間、伏見宮貞敦親王王女の尊智女王が入寺。現在地に移転したのも同じ天文年間とみられている。以後、皇室からの入寺が慣例となり門跡寺院となった。 慶長9年、徳川家康が修復。元禄年間にも修復している。江戸時代、宗派は法相律宗を称していたという。宝永4年、朱印地46石。古くから法隆寺の末寺だったが明治以後、真言宗長谷寺の末寺となり、明治16年には泉涌寺に所属した。昭和25年、法隆寺が法相宗を離脱して聖徳宗を立てると、昭和28年3月10日、その末寺に加わった。昭和43年、現在の本堂を再建した。
旧地の発掘調査が行われ、昭和38年、金堂跡と塔跡、昭和47年、寺地西端を確認した。四天王寺式伽藍配置と判明した。 (国史大辞典、日本歴史地名大系ほか)
組織
住職
- 信如(1211-?):中興。法華寺、正法寺、中宮寺の長老を歴任。最初は法華寺で得度。興福寺慈性院にいた。天寿国繡帳を再発見。没年不明。
住職
- 1尊智女王(1527-1602):門跡初代。中宮寺を現在の場所に移転。伏見宮貞敦親王王女。慈覚院宮。高祐尊智。中宮寺宮墓地。
- 2尊覚女王(-1694):伏見宮邦房親王王女。1620年、入寺、1626年得度。高秀尊覚。慈照院宮。中宮寺宮墓地。
- 3高栄女王(1661-1722)後西天皇皇女。慈雲院宮。1667年入寺、1669年得度。尊秀高栄。中宮寺宮墓地。
- 4栄恕女王(1749-1776):有栖川宮職仁親王王女。1756年、入寺。1761年得度。慈眼院宮。尊珍栄恕。中宮寺宮墓地。
- 淑宮:職仁親王王女。入寺せず。大聖寺門跡へ。
- 5英暉女王(1792-1845):有栖川宮織仁親王王女。慈心院宮。尊照栄暉(?)。1802年入寺。1806年得度。中宮寺宮墓地。
- 6成淳女王(1834-1865):最後の皇族住職。伏見宮貞敬親王王女。1845年入寺。1847年得度。尊澄成淳。慈明院宮。中宮寺宮墓地。
住職
- 亭倫心誠(1831-1891)<>:辰巳家出身。慈尊院
- 教明恵秀(1847-1923)<>:辰巳家出身。真光院。
- 近衛尊覚(1866-1959)<>:平松子爵家出身。1890年7/17得度。慈光院尊覚心雄。1959/8/16死去。
- 一条尊昭(1919-)<1944-1954>:平松子爵家出身。尊覚の姪。門跡となるが、1954年還俗し、一条家とも離縁する。
- 六条照伝(-1960)<1955-1960>:六条子爵家出身。道明寺住職が本務。1955年5/15入寺。慈尊院真龍照伝。1960/8/17死去。
- (代務)原田智明(-1963)<1960-1963>:
- (代務)石田覚淳()<1963-1964>:
- 日野西光尊(1930-)<1964->:1960年12月入寺。翌年3/24得度。1964年就任。1972年佛教大学卒。
(高田良信『中宮寺法輪寺法起寺の歴史と年表』ほか)
参考文献
『日本仏教基礎講座』