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妙源寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年3月26日 (土)

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[[ファイル:妙源寺柳堂07.jpg|thumb|500px|妙源寺太子堂(柳堂)]]
'''妙源寺'''(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町(三河国碧海郡)にある[[太子信仰]]の[[浄土真宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[親鸞]]が説法し、三河国の真宗の発祥地となった[[柳堂]]の伝承地の一つ。親鸞門下の念信房蓮慶が創建したという。[[高田門徒]]の三河での拠点で、現在も[[真宗高田派]]。柳堂の名を継ぐ境内の太子堂は1314年の棟札が残り、聖徳太子孝養像を祀る。
'''妙源寺'''(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町(三河国碧海郡)にある[[太子信仰]]の[[浄土真宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[親鸞]]が説法し、三河国の真宗の発祥地となった[[柳堂]]の伝承地の一つ。親鸞門下の念信房蓮慶が創建したという。[[高田門徒]]の三河での拠点で、現在も[[真宗高田派]]。柳堂の名を継ぐ境内の太子堂は1314年の棟札が残り、聖徳太子孝養像を祀る。
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[[徳川家]]との関係が深く譜代の安藤家など重臣らの墓がある。
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[[松平家]]・[[徳川家]]との関係が深く譜代の安藤家など重臣らの墓がある。
華基院。山号は桑子山、平田山。'''桑子妙源寺'''。[[和田門徒]]、[[河野門徒]]も参照。
華基院。山号は桑子山、平田山。'''桑子妙源寺'''。[[和田門徒]]、[[河野門徒]]も参照。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[file:妙源寺本堂.jpg|thumb|400px|本堂]]
寺伝によると蓮慶は俗名を安藤信平といい、桑子城主であった。[[明法寺]]を開き[[和田門徒]]開祖となった円善(安藤綱房)の子で、[[勝鬘寺]]を開いた信願房了海の弟という。周辺には安藤家創始とする真宗寺院が多いが、内容はまちまちである。彼らは松平広忠に仕えて戦死した安藤家重の祖先とみなされている。家重の子孫は徳川家の譜代の重臣として田辺藩主、磐城平藩主などを務めた。
寺伝によると蓮慶は俗名を安藤信平といい、桑子城主であった。[[明法寺]]を開き[[和田門徒]]開祖となった円善(安藤綱房)の子で、[[勝鬘寺]]を開いた信願房了海の弟という。周辺には安藤家創始とする真宗寺院が多いが、内容はまちまちである。彼らは松平広忠に仕えて戦死した安藤家重の祖先とみなされている。家重の子孫は徳川家の譜代の重臣として田辺藩主、磐城平藩主などを務めた。
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桑子城には安藤家が河内国から三河に下った時に伝来した聖徳太子を祀る太子堂があり、柳堂ともいった。
桑子城には安藤家が河内国から三河に下った時に伝来した聖徳太子を祀る太子堂があり、柳堂ともいった。
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嘉禎元年(1235)、信平はこの柳堂に帰洛途中の親鸞を招いて説法を聞き帰依。正嘉2年(1258)、城地を割いて境内とし、'''明眼寺'''を創建した。
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1235年(嘉禎1年)、信平はこの柳堂に帰洛途中の親鸞を招いて説法を聞き帰依。1258年(正嘉2年)、城地を割いて境内とし、'''明眼寺'''を創建した。あるいは[[真仏]]、[[顕智]]、専海らの弟子ともいう。子院12坊と30寺あまりの末寺を擁したが、1336年(延元1年/建武3年)の北畠軍の兵火で焼失したという。
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あるいは真仏、顕智、専海らの弟子ともいう。子院12坊と30寺あまりの末寺を擁したが、1336年の北畠軍の兵火で焼失したという。
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1512年頃から1582年頃まで[[専修寺]]の継承を巡って[[真智]]の支持派と応真・堯慧の支持派に分裂した時は[[満性寺]]や[[聖眼寺]]と共に真智に付いた。
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1512年(永正9年)頃から1582年(天正10年)頃まで[[専修寺]]の継承を巡って[[真智]]の支持派と応真・堯慧の支持派に分裂した時は[[満性寺]]や[[聖眼寺]]と共に真智に付いた。真智側は敗れた。
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真智側は敗れた。
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妙源寺文書に残る1336年から1578年までの土地寄進者名には後に松平家・徳川家の有力家臣となる者50人の名前があり、
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妙源寺文書に残る1336年(延元1年/建武3年)から1578年(天正6年)までの土地寄進者名には後に松平家・徳川家の有力家臣となる者50人の名前があり、松平家との密接な関係の中で寺院が支えられてきたことが分かる。
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松平家との密接な関係の中で寺院が支えられてきたことが分かる。
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1563年(永禄6年)の[[一向一揆]]の際は[[徳川家康]]軍に付き、[[三河・上宮寺]]と対峙した。
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1563年の[[一向一揆]]の際は[[徳川家康]]軍に付き、[[三河・上宮寺]]と対峙した。
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当初は黒本尊と呼ばれる[[阿弥陀如来]]像が祀られていたが、この像の加護を得た家康の所望で、[[増上寺]]に遷座。代わりに徳川家伝来の別光三尊仏を与えられると共に'''妙源寺'''と改称した。
当初は黒本尊と呼ばれる[[阿弥陀如来]]像が祀られていたが、この像の加護を得た家康の所望で、[[増上寺]]に遷座。代わりに徳川家伝来の別光三尊仏を与えられると共に'''妙源寺'''と改称した。
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1603年、朱印地30石を寄進された。1615年、徳川家康像が寄進される。1617年、[[勅願所]]。本多忠豊、本多忠高、安藤直次、平岩親吉らの墓がある。
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1603年(慶長8年)、朱印地30石を寄進された。1615年(元和1年)、徳川家康像が寄進される。1617年(元和3年)、[[勅願所]]。本多忠豊、本多忠高、安藤直次、平岩親吉らの墓がある。
(『日本歴史地名大系』ほか)
(『日本歴史地名大系』ほか)
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[[category:愛知県]]
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2022年3月26日 (土) 時点における最新版

妙源寺太子堂(柳堂)

妙源寺(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町(三河国碧海郡)にある太子信仰浄土真宗寺院。本尊は阿弥陀如来親鸞が説法し、三河国の真宗の発祥地となった柳堂の伝承地の一つ。親鸞門下の念信房蓮慶が創建したという。高田門徒の三河での拠点で、現在も真宗高田派。柳堂の名を継ぐ境内の太子堂は1314年の棟札が残り、聖徳太子孝養像を祀る。 松平家徳川家との関係が深く譜代の安藤家など重臣らの墓がある。 華基院。山号は桑子山、平田山。桑子妙源寺和田門徒河野門徒も参照。

歴史

本堂

寺伝によると蓮慶は俗名を安藤信平といい、桑子城主であった。明法寺を開き和田門徒開祖となった円善(安藤綱房)の子で、勝鬘寺を開いた信願房了海の弟という。周辺には安藤家創始とする真宗寺院が多いが、内容はまちまちである。彼らは松平広忠に仕えて戦死した安藤家重の祖先とみなされている。家重の子孫は徳川家の譜代の重臣として田辺藩主、磐城平藩主などを務めた。

桑子城には安藤家が河内国から三河に下った時に伝来した聖徳太子を祀る太子堂があり、柳堂ともいった。 1235年(嘉禎1年)、信平はこの柳堂に帰洛途中の親鸞を招いて説法を聞き帰依。1258年(正嘉2年)、城地を割いて境内とし、明眼寺を創建した。あるいは真仏顕智、専海らの弟子ともいう。子院12坊と30寺あまりの末寺を擁したが、1336年(延元1年/建武3年)の北畠軍の兵火で焼失したという。

1512年(永正9年)頃から1582年(天正10年)頃まで専修寺の継承を巡って真智の支持派と応真・堯慧の支持派に分裂した時は満性寺聖眼寺と共に真智に付いた。真智側は敗れた。

妙源寺文書に残る1336年(延元1年/建武3年)から1578年(天正6年)までの土地寄進者名には後に松平家・徳川家の有力家臣となる者50人の名前があり、松平家との密接な関係の中で寺院が支えられてきたことが分かる。 1563年(永禄6年)の一向一揆の際は徳川家康軍に付き、三河・上宮寺と対峙した。

当初は黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像が祀られていたが、この像の加護を得た家康の所望で、増上寺に遷座。代わりに徳川家伝来の別光三尊仏を与えられると共に妙源寺と改称した。 1603年(慶長8年)、朱印地30石を寄進された。1615年(元和1年)、徳川家康像が寄進される。1617年(元和3年)、勅願所。本多忠豊、本多忠高、安藤直次、平岩親吉らの墓がある。 (『日本歴史地名大系』ほか)

組織

歴代住職

(真宗年表より)

  • 1:蓮慶()<>:1275年(建治1年)6月17日死去。念信房。
  • 2:慶念()<>:1347年(正平2年/貞和3年)2月29日死去。
  • 3:慶願()<>:1369年(正平24年/応安2年)3月4日死去。
  • 4:如慶()<>:1397年(応永4年)8月28日死去。
  • 5:蓮願()<>:1412年(応永19年)6月12日死去。
  • 6:蓮智()<>:1430年(永享2年)5月5日死去。
  • 7:従蓮()<>:1441年(嘉吉1年)3月23日死去。
  • 8:禅蓮()<>:1476年(文明8年)7月23日死去。
  • 9:信蓮()<>:1485年(文明17年)4月23日死去。
  • 10:定蓮()<>:1494年(明応3年)8月12日死去。
  • 11:尊蓮()<>:1508年(永正5年)5月8日死去。
  • 12:秀蓮()<>:1533年(天文2年)9月28日死去。
  • 13:順蓮()<>:1546年(天文15年)10月26日死去。
  • 14:舜蓮()<>:1570年(元亀1年)3月27日死去。
  • 15:念蓮()<>:1615年(元和1年)12月18日死去。
  • 16:善蓮()<>:1626年(寛永3年)11月3日死去。
  • 17:真蓮()<>:1640年(寛永17年)9月9日死去。
  • 18:皎蓮()<>:1653年(承応2年)10月27日死去。
  • 19:天蓮()<>:1726年(享保11年)11月26日死去。
  • 20:堯蓮()<>:1743年(寛保3年)3月20日死去。
  • 21:円蓮()<>:1746年(延享3年)12月2日死去。
  • 22:円和()<>:1763年(宝暦13年)12月15日死去。
  • 23:円通()<>:1791年(寛政3年)1月23日死去。
  • 24:円輪()<>:1817年(文化14年)10月10日死去。
  • 25:円珠()<>:1852年(嘉永5年)12月3日死去。
  • 26:安藤円〓()<>:1872年(明治5年)12月7日死去。(〓は「示韋」)
  • 27:安藤大蓮()<>:1921年(大正10年)5月28日死去。
  • 28:安藤一蓮()<>:1941年(昭和16年)9月10日死去。
  • 29:安藤慧光()<>:1941年(昭和16年)3月30日死去。
  • 30:安藤大玄()<>:
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A6%99%E6%BA%90%E5%AF%BA」より作成

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