ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
宝国寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年1月25日 (土)
(版間での差分)
(間の2版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
- | '''宝国寺''' | + | '''宝国寺'''(ほうこくじ)は京都下京にあった[[日蓮宗]]寺院。[[洛中法華二十一寺]]の一つ。廃絶。跡地不詳。現在の[[西本願寺]]境内北部あたりか。[[六条門流]]。[[本圀寺]]持珠院が寺名を継いだともいう。 |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | [[日朗]]門下の日善(1263- | + | かつての[[本圀寺]]南門のあたりにあった(『日蓮宗事典』)とも本圀寺の北にあったともいう。山城国内の本圀寺の末寺頭だったという(『日蓮宗事典』)。 |
- | [[妙顕寺]] | + | 「日善」という僧侶が創建したとされるが諸説ある。『日蓮宗事典』によれば、日善は本圀寺5世日伝(1342-1409)の弟子で、1400年(応永7年)~1401年(応永8年)頃に創建という。しかし、日善を[[日朗]]門下の日善(1263-1332、常陸大法寺開山、碑文谷2世)とする資料のほうが多く、1322年(元亨2年)に京都に来て、兄弟弟子の[[妙顕寺]][[日像]](1269-1342)を助けて京都弘通に尽力し、信者から寄進されて宝国寺を創建したという。(『日本仏家人名辞書』など)。 |
- | [[ | + | |
1536年(天文5年)の天文法難の後には本圀寺に併合されたか。本圀寺子院の持珠院が宝国寺の名を継いでいるようだ(政教中正論)。 | 1536年(天文5年)の天文法難の後には本圀寺に併合されたか。本圀寺子院の持珠院が宝国寺の名を継いでいるようだ(政教中正論)。 | ||
+ | 持珠院は愛媛県西宇和郡伊方町三机乙に移転。 | ||
+ | |||
==組織== | ==組織== | ||
===歴代=== | ===歴代=== | ||
- | *日善(1263-1332)<> | + | *日善(1263-1332)<>:大法阿闍梨。[[平氏]]。北条義澄の孫。1263年(弘長3年)生。[[日朗]]に学び、若くして常陸大法寺を創建。のち[[碑文谷・法華寺]]2世となる。日朗の死を機に碑文谷の実成寺を建てた。1322年(元亨2年)、京都妙顕寺に赴く。関西の[[日蓮]]の旧跡を巡るが、信者が宝国寺を建てたため止むを得ず滞在。のち碑文谷に帰り1332年(元弘2年/正慶1年)死去。本圀寺勧持院の開山とも。(身延4世の大宝阿闍梨日善とは別人)。(日本仏家人名辞書) |
[[category:京都府]] | [[category:京都府]] |
2020年1月25日 (土) 時点における最新版
宝国寺(ほうこくじ)は京都下京にあった日蓮宗寺院。洛中法華二十一寺の一つ。廃絶。跡地不詳。現在の西本願寺境内北部あたりか。六条門流。本圀寺持珠院が寺名を継いだともいう。
歴史
かつての本圀寺南門のあたりにあった(『日蓮宗事典』)とも本圀寺の北にあったともいう。山城国内の本圀寺の末寺頭だったという(『日蓮宗事典』)。 「日善」という僧侶が創建したとされるが諸説ある。『日蓮宗事典』によれば、日善は本圀寺5世日伝(1342-1409)の弟子で、1400年(応永7年)~1401年(応永8年)頃に創建という。しかし、日善を日朗門下の日善(1263-1332、常陸大法寺開山、碑文谷2世)とする資料のほうが多く、1322年(元亨2年)に京都に来て、兄弟弟子の妙顕寺日像(1269-1342)を助けて京都弘通に尽力し、信者から寄進されて宝国寺を創建したという。(『日本仏家人名辞書』など)。
1536年(天文5年)の天文法難の後には本圀寺に併合されたか。本圀寺子院の持珠院が宝国寺の名を継いでいるようだ(政教中正論)。 持珠院は愛媛県西宇和郡伊方町三机乙に移転。