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崇徳天皇旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | 1156年(保元1年)、保元の乱のに敗れた崇徳上皇は、讃岐国に配流されることとなった。崇徳上皇を乗せた船は四国に向かったが、途中、直島に滞在した。一説によると、入港を拒否されたためという。直島の行在所跡に[[崇徳天皇宮]]がある。上皇は讃岐の松山の津に上陸した。正式な御所が建設されるまで、讃岐国府の役人綾高遠の自邸に滞在した。あるいは、自邸を滞在させては失礼と思った綾高遠が隣の長命寺にお移り願ったともいう。ここで上皇が詠んだ歌にちなんでどちらも[[雲井御所]]という。綾高遠邸跡には江戸時代後期に高松藩主松平頼恕が石碑を立てている。長命寺跡にも石碑がある。ここで綾高遠の娘との間に皇子と皇女をもうけたが夭折したという。その後、国府近くの鼓ケ岡の木の丸殿に遷った。 | + | http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.0004d9370811a10f304d4 |
+ | </googlemap>1156年(保元1年)、保元の乱のに敗れた崇徳上皇は、讃岐国に配流されることとなった。崇徳上皇を乗せた船は四国に向かったが、途中、直島に滞在した。一説によると、入港を拒否されたためという。直島の行在所跡に[[崇徳天皇宮]]がある。上皇は讃岐の松山の津に上陸した。正式な御所が建設されるまで、讃岐国府の役人綾高遠の自邸に滞在した。あるいは、自邸を滞在させては失礼と思った綾高遠が隣の長命寺にお移り願ったともいう。ここで上皇が詠んだ歌にちなんでどちらも[[雲井御所]]という。綾高遠邸跡には江戸時代後期に高松藩主松平頼恕が石碑を立てている。長命寺跡にも石碑がある。ここで綾高遠の娘との間に皇子と皇女をもうけたが夭折したという。その後、国府近くの鼓ケ岡の木の丸殿に遷った。 | ||
讃岐では滞在中、[[金刀比羅宮]]にしばしば参籠。現在もその跡が「古籠所」として残る。木の丸殿近くの東山にもよく通ったとされる(のちの[[崇徳天皇神社]])。 | 讃岐では滞在中、[[金刀比羅宮]]にしばしば参籠。現在もその跡が「古籠所」として残る。木の丸殿近くの東山にもよく通ったとされる(のちの[[崇徳天皇神社]])。 | ||
1164年(長寛2年)8月26日、崇徳上皇は木の丸殿で崩御した。一説によると、刺客によって暗殺されたという。柳の幹の穴に隠れたが、池に映った姿が見つかり、殺されたという。その場所を[[柳田]]という。 | 1164年(長寛2年)8月26日、崇徳上皇は木の丸殿で崩御した。一説によると、刺客によって暗殺されたという。柳の幹の穴に隠れたが、池に映った姿が見つかり、殺されたという。その場所を[[柳田]]という。 | ||
崇徳上皇の遺体は、朝廷からの指示が来るまで、腐敗しないように野沢井の水に浸された。ここがのちの[[白峰宮]]である。野沢井の水に漬けている間、毎夜毎夜、光を放ったことから、「明の宮」ともいう。遺骸は白峰山にて火葬することになり、棺を奉じて運んでいると、にわかに雷雨が降ってきたので高屋という地で留め置いたところ、棺から血が垂れてきた。これを畏れ多いとして後に神霊を祀ったのが「血の宮」の通称を持つ[[高家神社]]の由来である。白峰で荼毘に付すと、その煙がただよい、青海の地に籠り、霊玉を残して消えた。この霊玉を祭ったのが「煙の宮」こと[[青海神社]]である。遺灰は白峰に埋葬され、菩提寺として[[白峰寺]]が建てられた。陵墓は[[崇徳天皇陵|白峰陵]]と呼ばれる。白峰寺には崇徳上皇を祀る霊廟が建てられ、これを頓証寺と称した。崩御の翌年、金刀比羅宮に密かに崇徳天皇を合祀したという。 | 崇徳上皇の遺体は、朝廷からの指示が来るまで、腐敗しないように野沢井の水に浸された。ここがのちの[[白峰宮]]である。野沢井の水に漬けている間、毎夜毎夜、光を放ったことから、「明の宮」ともいう。遺骸は白峰山にて火葬することになり、棺を奉じて運んでいると、にわかに雷雨が降ってきたので高屋という地で留め置いたところ、棺から血が垂れてきた。これを畏れ多いとして後に神霊を祀ったのが「血の宮」の通称を持つ[[高家神社]]の由来である。白峰で荼毘に付すと、その煙がただよい、青海の地に籠り、霊玉を残して消えた。この霊玉を祭ったのが「煙の宮」こと[[青海神社]]である。遺灰は白峰に埋葬され、菩提寺として[[白峰寺]]が建てられた。陵墓は[[崇徳天皇陵|白峰陵]]と呼ばれる。白峰寺には崇徳上皇を祀る霊廟が建てられ、これを頓証寺と称した。崩御の翌年、金刀比羅宮に密かに崇徳天皇を合祀したという。 | ||
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一方、京都では崇徳天皇のたたりが頻発。1183年(寿永2年)、後白河上皇の叡慮により、春日河原(京都大学病院の付近)に崇徳天皇の神霊を祀る霊廟の創建が決まった。のちの[[粟田宮]]である。藤原頼長も共に祀られることとなった。神体は崇徳天皇の遺品である「八角ノ大鏡」とされることになった。1184年(元暦1年)4月15日、正遷宮の儀が執り行われた。社殿は稲荷社([[伏見稲荷大社]])にならって建てられたという。1191年(建久2年)閏12月、崇徳天皇と安徳天皇の崩御の地に堂宇を立てて、菩提を弔うべしとの議が起こった。これをきっかけに種々の議論が起こり、1192年(建久3年)11月16日、宣命によって廟は「粟田宮」と改称された<ref>1186年(文治2年)12月に改称したことを示す吉田家の文書があるが、偽作の可能性が高いという。</ref>。鴨川の氾濫によりたびたび社地を侵され、移転を繰り返したが、応仁の乱により廃絶に至ったと推定されている。 | 一方、京都では崇徳天皇のたたりが頻発。1183年(寿永2年)、後白河上皇の叡慮により、春日河原(京都大学病院の付近)に崇徳天皇の神霊を祀る霊廟の創建が決まった。のちの[[粟田宮]]である。藤原頼長も共に祀られることとなった。神体は崇徳天皇の遺品である「八角ノ大鏡」とされることになった。1184年(元暦1年)4月15日、正遷宮の儀が執り行われた。社殿は稲荷社([[伏見稲荷大社]])にならって建てられたという。1191年(建久2年)閏12月、崇徳天皇と安徳天皇の崩御の地に堂宇を立てて、菩提を弔うべしとの議が起こった。これをきっかけに種々の議論が起こり、1192年(建久3年)11月16日、宣命によって廟は「粟田宮」と改称された<ref>1186年(文治2年)12月に改称したことを示す吉田家の文書があるが、偽作の可能性が高いという。</ref>。鴨川の氾濫によりたびたび社地を侵され、移転を繰り返したが、応仁の乱により廃絶に至ったと推定されている。 | ||
2013年3月31日 (日) 時点における版
崇徳天皇旧跡 |
目次 |
概要
1156年(保元1年)、保元の乱のに敗れた崇徳上皇は、讃岐国に配流されることとなった。崇徳上皇を乗せた船は四国に向かったが、途中、直島に滞在した。一説によると、入港を拒否されたためという。直島の行在所跡に崇徳天皇宮がある。上皇は讃岐の松山の津に上陸した。正式な御所が建設されるまで、讃岐国府の役人綾高遠の自邸に滞在した。あるいは、自邸を滞在させては失礼と思った綾高遠が隣の長命寺にお移り願ったともいう。ここで上皇が詠んだ歌にちなんでどちらも雲井御所という。綾高遠邸跡には江戸時代後期に高松藩主松平頼恕が石碑を立てている。長命寺跡にも石碑がある。ここで綾高遠の娘との間に皇子と皇女をもうけたが夭折したという。その後、国府近くの鼓ケ岡の木の丸殿に遷った。 讃岐では滞在中、金刀比羅宮にしばしば参籠。現在もその跡が「古籠所」として残る。木の丸殿近くの東山にもよく通ったとされる(のちの崇徳天皇神社)。 1164年(長寛2年)8月26日、崇徳上皇は木の丸殿で崩御した。一説によると、刺客によって暗殺されたという。柳の幹の穴に隠れたが、池に映った姿が見つかり、殺されたという。その場所を柳田という。 崇徳上皇の遺体は、朝廷からの指示が来るまで、腐敗しないように野沢井の水に浸された。ここがのちの白峰宮である。野沢井の水に漬けている間、毎夜毎夜、光を放ったことから、「明の宮」ともいう。遺骸は白峰山にて火葬することになり、棺を奉じて運んでいると、にわかに雷雨が降ってきたので高屋という地で留め置いたところ、棺から血が垂れてきた。これを畏れ多いとして後に神霊を祀ったのが「血の宮」の通称を持つ高家神社の由来である。白峰で荼毘に付すと、その煙がただよい、青海の地に籠り、霊玉を残して消えた。この霊玉を祭ったのが「煙の宮」こと青海神社である。遺灰は白峰に埋葬され、菩提寺として白峰寺が建てられた。陵墓は白峰陵と呼ばれる。白峰寺には崇徳上皇を祀る霊廟が建てられ、これを頓証寺と称した。崩御の翌年、金刀比羅宮に密かに崇徳天皇を合祀したという。
一方、京都では崇徳天皇のたたりが頻発。1183年(寿永2年)、後白河上皇の叡慮により、春日河原(京都大学病院の付近)に崇徳天皇の神霊を祀る霊廟の創建が決まった。のちの粟田宮である。藤原頼長も共に祀られることとなった。神体は崇徳天皇の遺品である「八角ノ大鏡」とされることになった。1184年(元暦1年)4月15日、正遷宮の儀が執り行われた。社殿は稲荷社(伏見稲荷大社)にならって建てられたという。1191年(建久2年)閏12月、崇徳天皇と安徳天皇の崩御の地に堂宇を立てて、菩提を弔うべしとの議が起こった。これをきっかけに種々の議論が起こり、1192年(建久3年)11月16日、宣命によって廟は「粟田宮」と改称された[1]。鴨川の氾濫によりたびたび社地を侵され、移転を繰り返したが、応仁の乱により廃絶に至ったと推定されている。
また、これ以外にも崇徳天皇の寵愛を受けた烏丸局(あるいは阿波内侍)が自邸内に崇徳天皇の御影堂を建立。のち光明院という寺院の鎮守となり、六波羅蜜寺の管轄に移り、蓮華光院が移転してきた跡も六波羅蜜寺が御影堂のある蓮乗院を兼帯した。明治に蓮乗院が廃絶となり、御影堂だけが崇徳天皇廟として残った。個人により管理されていたが、のち白峰神宮の管轄となった。
また安井金比羅宮も似たような由緒を持っている[2]。崇徳天皇の崩御後、阿波内侍が崇徳天皇自筆の御影を藤寺の観音堂に祀ったのが始まりで、1177年(治承1年)、大円法師が参籠した際に、崇徳天皇が姿を現し、後白河法皇の命令で光明院観勝寺が創建された。光明院観勝寺は応仁の乱で廃絶となったが、その跡に蓮華光院が移転し、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮を分霊したという。明治維新のとき、蓮華光院が廃絶となり、安井神社(のち安井金比羅宮)となった。
幕末、孝明天皇の叡慮により、崇徳天皇を祀る神社が創建されることになった。白峯神宮である。当時、歴代天皇陵の整備が進んでおり、天皇奉斎への関心が高まっていた。1866年(慶応2年)11月25日、飛鳥井雅典邸跡を社地として地鎮祭が行われた。
1868年(明治1年)8月28日、中院通富が参向し、白峰陵にて還遷奉告の祭典が行われた。その宣命には「御鬱憤の中に崩御らせ賜へる(中略)其御積憤を和め奉り賜はむ(中略)此頃皇軍に射向ひ奉る陸奥出羽の賊徒をば速に鎮定めて天下安穏に護助給へ」とあり、「積憤」を鎮め、戊辰戦争の勝利を願うのが創建の目的だったことが記されている。そして9月6日、白峯神宮で鎮座祭が行われた。
旧跡一覧
<執筆中>