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崇徳天皇旧跡 - SHINDEN

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崇徳天皇旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年4月11日 (月)

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白峰寺頓証殿 (7).jpg

目次

概要

1156年(保元1年)、保元の乱のに敗れた崇徳上皇は、讃岐国に配流されることとなった。崇徳上皇を乗せた船は四国に向かったが、途中、直島に滞在した。一説によると、入港を拒否されたためという。直島の行在所跡に崇徳天皇宮がある。上皇は讃岐の松山の津に上陸した。正式な御所が建設されるまで、讃岐国府の役人綾高遠の自邸に滞在した。あるいは、自邸を滞在させては失礼と思った綾高遠が隣の長命寺にお移り願ったともいう。ここで上皇が詠んだ歌にちなんでどちらも雲井御所という。綾高遠邸跡には江戸時代後期に高松藩主松平頼恕が石碑を立てている。長命寺跡にも石碑がある。ここで綾高遠の娘との間に皇子と皇女をもうけたが夭折したという。その後、国府近くの鼓ケ岡の木の丸殿に遷った。 讃岐では滞在中、金刀比羅宮にしばしば参籠。現在もその跡が「古籠所」として残る。木の丸殿近くの東山にもよく通ったとされる(のちの崇徳天皇神社)。 1164年(長寛2年)8月26日、崇徳上皇は木の丸殿で崩御した。一説によると、刺客によって暗殺されたという。柳の幹の穴に隠れたが、池に映った姿が見つかり、殺されたという。その場所を柳田という。 崇徳上皇の遺体は、朝廷からの指示が来るまで、腐敗しないように野沢井の水に浸された。ここがのちの白峰宮である。野沢井の水に漬けている間、毎夜毎夜、光を放ったことから、「明の宮」ともいう。遺骸は白峰山にて火葬することになり、棺を奉じて運んでいると、にわかに雷雨が降ってきたので高屋という地で留め置いたところ、棺から血が垂れてきた。これを畏れ多いとして後に神霊を祀ったのが「血の宮」の通称を持つ高家神社の由来である。白峰で荼毘に付すと、その煙がただよい、青海の地に籠り、霊玉を残して消えた。この霊玉を祭ったのが「煙の宮」こと青海神社である。遺灰は白峰に埋葬され、菩提寺として白峰寺が建てられた。陵墓は白峰陵と呼ばれる。白峰寺には崇徳上皇を祀る霊廟が建てられ、これを頓証寺と称した。崩御の翌年、金刀比羅宮に密かに崇徳天皇を合祀したという。


一方、京都では崇徳天皇のたたりが頻発。1183年(寿永2年)、後白河上皇の叡慮により、春日河原(京都大学病院の付近)に崇徳天皇の神霊を祀る霊廟の創建が決まった。のちの粟田宮である。藤原頼長も共に祀られることとなった。神体は崇徳天皇の遺品である「八角ノ大鏡」とされることになった。1184年(元暦1年)4月15日、正遷宮の儀が執り行われた。社殿は稲荷社(伏見稲荷大社)にならって建てられたという。1191年(建久2年)閏12月、崇徳天皇と安徳天皇の崩御の地に堂宇を立てて、菩提を弔うべしとの議が起こった。これをきっかけに種々の議論が起こり、1192年(建久3年)11月16日、宣命によって廟は「粟田宮」と改称された[1]。鴨川の氾濫によりたびたび社地を侵され、移転を繰り返したが、応仁の乱により廃絶に至ったと推定されている。

また、これ以外にも崇徳天皇の寵愛を受けた烏丸局(あるいは阿波内侍)が自邸内に崇徳天皇の御影堂を建立。のち光明院という寺院の鎮守となり、六波羅蜜寺の管轄に移り、蓮華光院が移転してきた跡も六波羅蜜寺が御影堂のある蓮乗院を兼帯した。明治に蓮乗院が廃絶となり、御影堂だけが崇徳天皇廟として残った。個人により管理されていたが、のち白峰神宮の管轄となった。

また安井金比羅宮も似たような由緒を持っている[2]。崇徳天皇の崩御後、阿波内侍が崇徳天皇自筆の御影を藤寺の観音堂に祀ったのが始まりで、1177年(治承1年)、大円法師が参籠した際に、崇徳天皇が姿を現し、後白河法皇の命令で光明院観勝寺が創建された。光明院観勝寺は応仁の乱で廃絶となったが、その跡に蓮華光院が移転し、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮を分霊したという。明治維新のとき、蓮華光院が廃絶となり、安井神社(のち安井金比羅宮)となった。


幕末、孝明天皇の叡慮により、崇徳天皇を祀る神社が創建されることになった。白峯神宮である。当時、歴代天皇陵の整備が進んでおり、天皇奉斎への関心が高まっていた。1866年(慶応2年)11月25日、飛鳥井雅典邸跡を社地として地鎮祭が行われた。 1868年(明治1年)8月28日、中院通富が参向し、白峰陵にて還遷奉告の祭典が行われた。その宣命には「御鬱憤の中に崩御らせ賜へる(中略)其御積憤を和め奉り賜はむ(中略)此頃皇軍に射向ひ奉る陸奥出羽の賊徒をば速に鎮定めて天下安穏に護助給へ」とあり、「積憤」を鎮め、戊辰戦争の勝利を願うのが創建の目的だったことが記されている。そして9月6日、白峯神宮で鎮座祭が行われた。


旧跡一覧

名称 所在地 コメント 社格
成勝寺 京都府京都市左京区岡崎 平安京郊外の白河殿に付属した崇徳天皇の御願寺六勝寺の一つ。天台宗
白峰神宮 京都府京都市上京区飛鳥井町261 崇徳天皇奉斎神社の総本社的神社。孝明天皇の叡慮により創建。白峰陵より神霊を遷座。 官幣大社
粟田宮 京都府京都市左京区聖護院川原町 崇徳天皇旧跡に鎮座する神社。廃絶。朝廷によって建てられた。
崇徳天皇廟 京都府京都市東山区祇園町南側 崇徳天皇奉斎神社。寵妃が自邸に祀った御影堂に由来するという。
安井金比羅宮 京都府京都市東山区下弁天町70 崇徳天皇奉斎神社。金刀比羅宮の分社。寵妃が自邸に祀った御影堂に由来するという。蓮華光院門跡の鎮守。 郷社?
崇徳天皇宮 香川県香川郡直島町 崇徳天皇旧跡に鎮座する神社。四国に上陸する前に直島に留まったとされ、その旧跡に鎮座する。
松山の津 香川県坂出市 崇徳天皇の旧跡。上陸の地とされる。
雲井御所 香川県坂出市林田町 崇徳天皇の行宮跡。讃岐国府の役人綾高遠の屋敷に滞在したとされる。
長命寺跡 香川県坂出市林田町 崇徳天皇の行宮跡。長命寺に滞在したと言われる。
鼓岡神社 香川県坂出市府中町本村 崇徳天皇皇宮跡に鎮座する神社。御所「木の丸殿」がこの地にあったとされる。
金刀比羅宮 香川県仲多度郡琴平町892-1 崇徳天皇旧跡。崇徳天皇奉斎神社。崇徳天皇は讃岐に流されたのち、たびたび金刀比羅宮に参籠したという。その旧跡「古籠所」が残る。崩御の翌年、崇徳天皇を合祀したという。 国幣中社
天皇神社 香川県坂出市川津町東山1 崇徳天皇旧跡に鎮座する神社。讃岐滞在中、しばしばこの地に来たという。
柳田 香川県坂出市 崇徳天皇の崩御地。暗殺された伝説が残る。
白峰宮 香川県坂出市西庄町1712 崇徳天皇奉斎神社。崩御後、朝廷の指示を待つ間、遺体を奉安した場所という。夜な夜な光を発したことから、「明の宮」と呼ばれる。四国八十八ヶ所の第79番札所讃岐・天皇寺が神宮寺として隣接する。 県社
讃岐・高家神社 香川県坂出市高屋町揚北 崇徳天皇奉斎神社。遺体を白峰に運ぶ途中、棺を置いたところ、血が垂れてきたので、「血ノ宮」ともいう。
青海神社 香川県坂出市青海町 崇徳天皇奉斎神社。火葬の際にその煙がこのあたりに漂い、霊玉を残して消えたことから、その霊玉を祀ったものという。「煙の宮」と呼ばれる。
崇徳天皇陵 香川県坂出市青海町 崇徳天皇の陵墓。 治定陵墓
白峰寺 頓証寺殿 香川県坂出市青海町2635 陵墓に付属して建てられた崇徳天皇の霊廟。明治維新後、金刀比羅宮の摂社となり遷座したが、改めて祀られたものと思われる。
白峰宮(金刀比羅宮境内) 香川県仲多度郡琴平町892-1 陵墓に付属して建てられた崇徳天皇の霊廟。明治維新後、金刀比羅宮の境外摂社?となり、のちに金刀比羅宮境内に遷座した。 摂社?

資料

  • 1921『聖跡案内』[1]
  • 1932『崇徳院と讃岐』[2]
  • 1942『崇徳天皇御記』[3]送信館限定
  • 1986『綾松山史』[4]送信館限定
  • 2005「「明治」をひらく崇徳院」[5]

脚注

  1. 1186年(文治2年)12月に改称したことを示す吉田家の文書があるが、偽作の可能性が高いという。
  2. ウェブサイトによる
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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