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廬山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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廬山寺(ろざんじ)は、京都府京都市上京区北之辺町にある皇室ゆかりの天台宗系・浄土宗系の寺院。名称は浄土教の聖地である中国廬山に由来する。中世、円密戒浄(天台真言戒律・浄土)の四宗兼学の寺院として発展。戦後まで天台宗延暦寺派に所属したが、現在は「天台円浄宗総本山」を名乗る。京都御所のすぐ東に位置し、宮中御黒戸の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。北には清浄華院、西には梨木神社がある。境内に慶光天皇らを葬る廬山寺陵墓地がある。初名は与願金剛院廬山天台講寺。山号は日本廬山。

目次

歴史

938年(天慶1年)、良源が北山に与願金剛院として創建。1245年(寛元3年)、後嵯峨天皇の勅で住心房覚瑜が船岡山南麓(出雲路とも)に再興。このとき、中国廬山の慧遠(334-416)が覚瑜の前に出現し、「廬山」の二文字を残して姿を消したため、「廬山天台講寺」と解消した。一方、これとは別に本光禅仙が開いた一条猪熊の草庵があった。この二つを明導照源が継承して併合。1369年(応安2年)、室町幕府、廬山寺を祈願所とする(大日本史料総合DB)。1397年(応永4年)焼失。1401年(応永8年)閏1月12日、足利義満が参詣。1467年(応仁1年)兵火で焼失(『応仁記』)。1476年(文明8年)10月5日、後土御門天皇の勅願寺となる(後土御門天皇実録)。以後、皇族の埋葬が増える。1494年(明応3年)焼失(『後法興院記』)。1516年(永正13年)、三条西実隆(1455-1537)が廬山寺で落飾して逍遥院尭空と名乗る。1520年(永正17年)、土一揆が廬山寺を焼く(二水記)。1569年(永禄12年)焼失したが、同年再興(『廬山寺縁起』)。 天正年間、豊臣秀吉の京都整備で現在地に移転し、57石を寄進。現在地は紫式部の邸宅跡という。1708年(宝永5年)焼失。1788年(天明8年)焼失。1794年(寛政6年)、光格天皇が仙洞御所の一部を移築して、現在の本堂と御尊牌殿を再建(ウェブサイト)。1835年(天保6年)元三大師堂を再建。1856年(安政3年)御尊牌殿修復?(廬山寺文書)。 1874年(明治7年)、金山天王寺を合併(ウェブサイト)。 1948年(昭和23年)、天台宗を離脱して円浄宗を称す(世界大百科事典)。

(国史大辞典、日本歴史地名大系ほか)

伽藍

  • 本堂:本尊は阿弥陀如来。ただし、国史大辞典や日本歴史地名大系などには本尊は聖徳太子作の薬師如来とある。大師堂の東にあり、南面する。
  • 元三大師堂:本尊は良源。山門を入って正面すぐにある。西面。大師堂。
  • 地蔵堂:本尊は地蔵菩薩。明智光秀の持仏という。現存不詳。
  • 御尊牌殿:
  • 雲井の水:東北院の井戸の遺構という。
  • 廬山寺陵墓地:本堂の北東にある。東側には御土居が残る。
  • 定朝墓:仏師定朝の墓の伝承地。

子院

  • 竹中坊:1570年(元亀1年)には存在(言継卿記、継芥記)。廃絶。
  • 金光院:1570年(元亀1年)には存在(言継卿記、継芥記)。明治維新時に廃絶(坊目誌)。
  • 宝林院:1570年(元亀1年)には存在(言継卿記、継芥記)。廃絶。
  • 十輪院:明治維新時に廃絶(坊目誌)。
  • 不動院:明治維新時に廃絶(坊目誌)。

組織

歴代住職

  • 良源(912-985):
  • 覚瑜:住心房。
  • 1本光禅仙
  • 2禅月心善
  • 3照源(1298-1368):六条有房の六男。延暦寺で遍照光院仲円に師事。最初は常住房房雲と称すが、浄土宗西山派を学び、明導房照源と改名。後醍醐天皇に講じ、御衣を賜ったという。暦応頃、廬山寺に住し、典籍を整備し、学僧が集まった。講義録を『猪熊抄』という。1368年(正平23年/応安1年)死去。仁空と共に廬山寺流の祖。
  • 4仁空実導(1309-1388)<1368->:三鈷寺10世(11世?)。藤原為信の子。天台宗、密教、戒律、浄土宗西山派を学ぶ。照源と共に仲円に師事。1368年(正平23年/応安1年)廬山寺を兼務。1388年(元中5年/嘉慶2年)12月死去。80歳。勅諡は円応。『大日経義釈捜決抄』『遮那業案立』など著作多数。照源とと共に天台宗廬山寺流の祖。現在では天台宗の僧侶とも、浄土宗西山派(本山流)の僧侶ともみなされる。
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  • 7
  • 8明空志玉(?-1406)<-1400->:1400年(応永7年)時点で在職。帰国して遣明使に同行して明に渡る途中、船中で死去。没年については諸説あり。普一志玉と混同されることがあるが別人。
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  • 12大用照珍()<>:明空志玉の侍者だった。6年間、入宋して1404年(応永11年)1月帰国。廬山寺に住す。
  • 22超空()<>:

未見:「廬山寺代々住持」(『京天台四箇寺歴代略譜』)

資料

古典籍

  • 『廬山寺縁起』:1569年(永禄12年)。『大日本仏教全書』収録[1]
  • 『廬山寺過去帳』:皇族の名前を列挙。廬山寺文書所収[2]
  • 『廬山寺住持次第』(『山城名勝志』)
  • 「廬山寺代々住持」(『京天台四箇寺歴代略譜』)
  • 卍元師蛮「京兆廬山寺沙門照源伝」『本朝高僧伝』
  • 『続天台宗全書』圓戒2
  • 「廬山寺」『古事類苑』[3]
  • 「廬山寺文書」:抜粋が新日本古典籍総合データベースにある[4]
  • 「京都五ヶ寺取調書」:不詳。新日本古典籍総合データベースにあるのは別の書籍(延享八講秘録)か[5]

文献

  • 獅子王圓信1929「台密廬山寺流の伝燈」『密教研究』33[6]
  • 岩田教圓1933「大日経義釈捜決抄の刊本と廬山寺流の教学に就て」『新山家学報』新8
  • 山口光圓1956「安居院流から廬山寺流へ」『台門學報』1
  • 山口光圓1958「宗淵僧都の天台教学―特に廬山寺流の教学について」『天台学僧宗淵の研究』
  • 藤平寛田1992「明導照源と廬山寺流義科書『廬談』について」『天台学報』35
  • 加藤繁生2008「廬山寺墓地の石造遺構―伝『雲水の井』について」『史迹と美術』78(1)
  • 大塚紀弘2009「教院興行と三鈷寺流の成立―康空から仁空・照源へ」『中世禅律仏教論』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BB%AC%E5%B1%B1%E5%AF%BA」より作成

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