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比蘇寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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比曽寺は、大和国吉野郡にあった古代寺院。吉野寺、比蘇山寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれた。大和・世尊寺が後身。
歴史
古代
聖徳太子の創建と伝える。『日本書紀』欽明14年5月条に登場する吉野寺が比曽寺のこととされる。『扶桑略記』推古3年条には「吉野比蘇寺」とあり、栴檀で観音像を作り、祀ったという。 発掘調査でも飛鳥時代の伽藍跡が見つかっている。
奈良時代には役小角が大峰山を開く前に拠点としたと伝える。天平時代には神叡や道センが入る。
平安時代には聖宝が入り、地蔵像、弥勒像を造立して祀ったという。 清和上皇行幸(三代実録)。宇多上皇行幸(扶桑略記)。 藤原道長も長保6年(1004)6月などに参拝している。
中世
金峰山寺別当の春豪が弘安2年(1279)に復興。 さらに西大寺中興の叡尊が滞在し、以後、西大寺末となる。 南北朝時代には後醍醐天皇が行幸して、文観に秘法させている。 三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。 縁起では当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。
室町時代再建の東塔は文禄3年(1594)9月、豊臣秀吉が京都伏見に移築(慶長2年とも)。さらに慶長5年(1600)、徳川家康が園城寺に移して現存する(園城寺ウェブサイト)。 江戸時代中期、曹洞宗の朴導秀拙が比曽寺を復興して大和・世尊寺と称した。 現在も古代の礎石や古瓦が残る。
(日本歴史地名大系)