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江戸・護持院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?隆光の活躍と大造営)
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*「知足院御普請御手伝日記」:明石藩
*「知足院御普請御手伝日記」:明石藩
*「知足院由緒并来歴」[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/100/1041.36/1/F-1/00622.tif]
*「知足院由緒并来歴」[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/100/1041.36/1/F-1/00622.tif]
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*「護持院護国寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540779]:明治初年の地図
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*「筑波山流記」:1590年(天正18年)4月
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*「密宗血脈集」:室町時代の住持の名がある
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*「常陸国筑波山縁起」:隆光
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*「常陸国筑波山縁起」:甚仙。雑司谷神齢居右
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*「護国寺文書」:
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*「筑波山知足院改護持院世代記」:豊山全書5
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*「筑波山縁由」:豊山伝通記
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*「護持院由緒書」:長谷寺文書
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*「護持院由緒覚」:護持院日記1765年(明和2年)9月24日条
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*「筑波山護持院代々之事」:雑司谷神齢居右
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*「筑波山護持院年中行事付臨時雑記」
*「護持院日記抄」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971130]
*「護持院日記抄」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971130]
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*「護持院護国寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540779]:明治初年の地図
*『東京市史稿』「護持院護国寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450793/525]
*『東京市史稿』「護持院護国寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450793/525]
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*林亮勝1968「護持院隆光について」『仏教史研究』3
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*林亮勝1991「菩提寺と祈祷寺」『儒仏道三教思想論攷』
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*林亮勝1998「護持院隆光:将軍政治と祈祷僧の役割」『大正大学研究論叢』6
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*林亮勝・坂本正仁1988『護国寺史』
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*坂本正仁1970「『護国寺日記』について」『豊山学報』14・15合併号
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*坂本正仁1974「将軍家祈祷寺としての護国寺について」『豊山教学大会紀要』2
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*坂本正仁1976「護持院の護国寺兼帯:享保~宝暦期真言宗新義派の一側面」『豊山教学大会紀要』4
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*坂本正仁1976「近世初期の知足院」[https://doi.org/10.4259/ibk.24.878]
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*坂本正仁1976「護持院縁起世代記の検討」『豊山学報』21
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*坂本正仁1977「金星語祈祷寺の様相:特に護持院を中心に」『仏教と儀礼』
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*坂本正仁1981「近世初期真言宗新義派と知足院光誉」『大乗仏教から密教へ』
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*坂本正仁・櫛田良道2007「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(上)」『豊山学報』50
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*坂本正仁・櫛田良道2008「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(中)」『豊山学報』51
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*坂本正仁・櫛田良道2009「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(下)」『豊山学報』52
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*玉橋隆寛1973「将軍綱吉の死去と隆光」『豊山教学大会紀要』1
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*玉橋隆寛1973「享保期における新義真言宗について:特に護持院焼亡による再編を中心に」『豊山学報』17・18合併号
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*櫛田良道2006「享保期以降の護持院における将軍家祈祷:護国寺所蔵「御祈祷標目」を素材として」『大正大学大学院研究論集』30
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*櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺の研究:護持院を中心として」(要旨)[http://id.nii.ac.jp/1139/00000174/]
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*櫛田良道2010「近世後期における将軍家祈祷寺:護持院の山内機構を中心に」[http://id.nii.ac.jp/1139/00000180/]
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*櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺:護持院と寛永寺の職掌に関する一考察」『密教学研究』42
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2021年2月5日 (金) 時点における版

護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。筑波知足院(大御堂)を移して(寺籍だけ?)江戸神田橋外に創建。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。(参考:同名寺院知足院護持院

目次

歴史

江戸知足院の成立

『知足院由緒并来歴』によると、徳川家康は筑波山は江戸の東北にあたり重視していた。1600年(慶長5年)、家康が長谷寺に祈願した時に願意を成就させた宥俊を取り立て筑波山の知足院を与え朱印地500石を寄進し、祈願所とした。1609年(慶長14年)、弟子の光誉が住職を継いだ。1610年(慶長15年)、光誉は江戸の白銀町(岩井町ともいう)に寺地を与えられ、護摩堂と坊舎を建立。江戸に常駐して江戸城の鎮護の祈願を命じられた。光誉は1614年(慶長19年)と1615年(元和1年)の大坂の陣にも供奉して祈祷した。1615年(元和1年)以降、城内の安鎮祈祷を命じられ、座敷ごとに札を収めたという。1626年(寛永3年)、徳川家光が造営(江戸名所図会)。1639年(寛永16年)4月7日、幕府は護摩堂造営の費用として1300両を与えた()。1674年(延宝2年)、徳川家綱が伽藍整備。1674年(延宝2年)から1680年(延宝8年)にかけて3回焼失し、そのたびに幕府によって再建された。1682年(天和2年)12月にも火災で焼失した。1684年(貞享1年)、徳川綱吉は知足院に天下安全の祈祷をさせることとし、周囲が市街地として発展して町家に囲まれるようになり類焼の恐れもあるため、湯島天神の後ろに移転させた。のちの根生院の地。

隆光の活躍と大造営

隆光が徳川綱吉の帰依を受け、知足院住職となる。 1686年(貞享3年)12月1日、隆光、権僧正。 1688年(元禄1年)2月15日、伽藍造営のため一旦、天樹院邸跡が寺地となるが28日、神田橋外に変更。明石藩主松平直明が造営を担当する。 9月5日、隆光の班次を「別異」とする。11月4日、造営が終わり大伽藍が完成する。東照宮も建て同日戌刻(午後7時~9時)、遷座祭を行う。7日、周辺の邸宅を収公して他所に移転させた。11月18日、知足院東照宮に将軍徳川綱吉が参詣し奉幣。同日、元禄寺の号を与えられたという(天享吾妻鑑)。 10月29日には駿河台に屋敷が与えられた(のちの成満院)。

造営完成直後の11月5日、湯島の旧地を根生院に与えた。前後して根生院は知足院の後を継承して真言宗新義派の江戸触頭となっており、知足院の下、真福寺、円福寺、弥勒寺、根生院が智積院と長谷寺の両末寺を監督するという体制ができた。

綱吉はたびたび知足院を訪れるが、1689年(元禄2年)閏1月25日には論義を聴聞し、1690年(元禄3年)2月18日には500石加増し1000石となる。 1691年(元禄4年)閏8月22日、幕府、知足院を無本寺とする。 1691年(元禄4年)6月18日、権僧正隆光、智積院・長谷寺と共に正僧正となり、2本山と同格に近い扱いとなる。 1695年(元禄8年)1月25日、綱吉が参詣し500石加増で寺領1500石となる。 9月18日、綱吉が参詣し知足院を護持院と改称し、真言新義僧録、院家とし、隆光を大僧正とする(甘露叢)。 色衣許可を管轄した。 絶頂の中、隆光は1707年(宝永4年)2月25日、護持院を退任し、弟子の快意に譲った。

隆光失脚と護国寺への合併

1709年(宝永6年)1月10日、最大の庇護者である徳川綱吉が死去。隆光は失脚し、8月6日、隠居所の成満院を快意に譲り、大和国に帰郷した。同日護持院は智積院11世の覚眼が継承する。護持院住職は智山豊山の僧が交代で就任することとされた。

1717年(享保2年)1月20日、大火で護持院焼失。 2月9日、護持院を護国寺に合併。 3月14日、護国寺をもって護持院とし、観音堂を護国寺とする。以後、護持院住職が護国寺を兼務することとする。覚眼は退任し、護国寺隆慶が就任する。以後、幕府による修復は取りやめ、両寺あわせて寺領2700石によって伽藍修復もまかなうことと定めた。これには筑波山の知足院も含まれた。また無本寺の扱いは隆慶の退任をもって終えることとされた。 同日、新義僧録停止。 1724年(享保9年)11月7日、幕府、護持院住職は智山豊山の両派ではなく豊山派から任命することと決める。

伽藍

  • 本堂:本尊は不動明王。当初は釈迦如来だったがのちに不動明王となる(江戸名所図会)。造営直後には釈迦堂とも呼ばれている。護持堂とも。
  • 護持院東照宮:
  • 千手堂:観音堂
  • 聖天堂:
  • 護摩堂:
  • 大師堂:祖師堂。美濃国大野郡実相院から奉遷した空海自刻の像を祀ったという。
  • 灌頂堂:
  • 鐘楼堂:
  • 二天門:
  • 書院:
  • 御札座敷:将軍の座所に置く御札を調進する場所だろうか。1710年(宝永7年)春に撤去。
  • 日輪院:
  • 月輪院:
  • 寿命院:
  • 成満院:駿河台にあった。隆光の隠居所。

組織

住職

  • 宥俊(?-1609)<?-1609>:中興1世。長谷寺梅心院の出身。
  • 光誉(-1624)<1609-1624>:長谷寺梅心院の出身。宥俊の弟子。慶長15年、江戸に進出。
  • 栄増():
  • 信全():
  • 賢暁():
  • 覚永():
  • 恵円():
  • 俊盛(1612-1680):長谷寺10世。
  • 尊如(1622-1684):長谷寺12世。
  • 慧賢():
  • 隆光(1649-1724):護持院と改称
  • 快意():室生寺住職
  • 覚眼(1643-1725):江戸・円福寺智積院11世を経て護持院住職。
  • 隆慶(1649-1719):江戸・弥勒寺大護院を経て宝永5年(1708)長谷寺17世に晋山。正徳5年(1715)護国寺住職。護持院が護国寺に移転してくるとその住職となり、護国寺も兼務。
  • 兼澄():
  • 恵海(1662-1745):長谷寺21世。
  • 主真():
  • 覚音():
  • 龍岳():
  • 圭賢(1669-1749):長谷寺23世。
  • 信恕(1682-1760):長谷寺24世。
  • 憲清():
  • 光星():
  • 恵山():以下末代まで護国寺兼務。
  • 有慶(1709-1775):長谷寺28世。
  • 懐玄(?-1790):長谷寺31世。
  • 観算():
  • 恵翁():
  • 儀貞(1732-1802):長谷寺33世。
  • 実自():
  • 信応():
  • 元栄(?-1802):長谷寺34世。
  • 盛尊(?-1804):長谷寺36世。
  • 高隆(1737-1808):長谷寺37世。
  • 賢慶():
  • 通弁():
  • 祐澄():
  • 令法(?-1827):長谷寺41世。
  • 秀陽():
  • 栄性(1768-1837):天保4年就任。
  • 真淳():
  • 信恵(1776-1846):長谷寺46世。
  • 法信():
  • 長盛():
  • 通済(1788-1872):長谷寺49世
  • 宥観(?-1866):長谷寺50世。「宥歓」。
  • 快照():
  • 実盈():
  • 隆盛(1801-1872):長谷寺52世。

(富田学純『新義真言宗史』[1]

資料

  • 「知足院御普請御手伝日記」:明石藩
  • 「知足院由緒并来歴」[2]
  • 「筑波山流記」:1590年(天正18年)4月
  • 「密宗血脈集」:室町時代の住持の名がある
  • 「常陸国筑波山縁起」:隆光
  • 「常陸国筑波山縁起」:甚仙。雑司谷神齢居右
  • 「護国寺文書」:
  • 「筑波山知足院改護持院世代記」:豊山全書5
  • 「筑波山縁由」:豊山伝通記
  • 「護持院由緒書」:長谷寺文書
  • 「護持院由緒覚」:護持院日記1765年(明和2年)9月24日条
  • 「筑波山護持院代々之事」:雑司谷神齢居右
  • 「筑波山護持院年中行事付臨時雑記」
  • 「護持院日記抄」[3]
  • 「護持院護国寺」[4]:明治初年の地図
  • 『東京市史稿』「護持院護国寺」[5]
  • 林亮勝1968「護持院隆光について」『仏教史研究』3
  • 林亮勝1991「菩提寺と祈祷寺」『儒仏道三教思想論攷』
  • 林亮勝1998「護持院隆光:将軍政治と祈祷僧の役割」『大正大学研究論叢』6
  • 林亮勝・坂本正仁1988『護国寺史』
  • 坂本正仁1970「『護国寺日記』について」『豊山学報』14・15合併号
  • 坂本正仁1974「将軍家祈祷寺としての護国寺について」『豊山教学大会紀要』2
  • 坂本正仁1976「護持院の護国寺兼帯:享保~宝暦期真言宗新義派の一側面」『豊山教学大会紀要』4
  • 坂本正仁1976「近世初期の知足院」[6]
  • 坂本正仁1976「護持院縁起世代記の検討」『豊山学報』21
  • 坂本正仁1977「金星語祈祷寺の様相:特に護持院を中心に」『仏教と儀礼』
  • 坂本正仁1981「近世初期真言宗新義派と知足院光誉」『大乗仏教から密教へ』
  • 坂本正仁・櫛田良道2007「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(上)」『豊山学報』50
  • 坂本正仁・櫛田良道2008「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(中)」『豊山学報』51
  • 坂本正仁・櫛田良道2009「筑波山護持院「年中行事付臨時雑記」:将軍家祈祷の実態(下)」『豊山学報』52
  • 玉橋隆寛1973「将軍綱吉の死去と隆光」『豊山教学大会紀要』1
  • 玉橋隆寛1973「享保期における新義真言宗について:特に護持院焼亡による再編を中心に」『豊山学報』17・18合併号
  • 櫛田良道2006「享保期以降の護持院における将軍家祈祷:護国寺所蔵「御祈祷標目」を素材として」『大正大学大学院研究論集』30
  • 櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺の研究:護持院を中心として」(要旨)[7]
  • 櫛田良道2010「近世後期における将軍家祈祷寺:護持院の山内機構を中心に」[8]
  • 櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺:護持院と寛永寺の職掌に関する一考察」『密教学研究』42
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%BB%E8%AD%B7%E6%8C%81%E9%99%A2」より作成

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