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浄土宗鎮西派藤田流

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年4月14日 (金)

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'''浄土宗鎮西派藤田流'''(じょうどしゅう・ちんぜいは・ふじたりゅう)は、[[良忠]]弟子の'''唱阿性心'''を開祖し、関東・東北・北陸地方に広まったが、江戸時代に消滅した[[浄土宗]]の一流派。埼玉県寄居町の[[藤田善導寺]]を発祥の地とするため、「'''藤田流'''」「'''藤田派'''」と呼ばれる。「'''土塔派'''」「'''水沼義'''」「'''秩父派'''」ともいう。
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'''浄土宗鎮西派藤田流'''(じょうどしゅう・ちんぜいは・ふじたりゅう)は、[[良忠]]弟子の'''唱阿性心'''を開祖し、関東・東北・北陸地方に広まったが、江戸時代初期に消滅した[[浄土宗]]の一流派。埼玉県寄居町の[[藤田善導寺]]を発祥の地とするため、「'''藤田流'''」「'''藤田派'''」と呼ばれる。「'''土塔派'''」「'''土塔流'''」「'''土塔義'''」「'''水沼義'''」「'''秩父派'''」ともいう。
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関東地方の[[藤田善導寺]]、猿島[[高声寺]]、猿島[[下総・無量寿寺|無量寿寺]]を中心とし、越後の[[高田善導寺]]などの北陸地方に進出し、会津[[高巌寺]]から東北地方に広まった。[[知恩院]]と[[知恩寺]]の総本山争いの中で、[[糸魚川・善導寺]]の'''岌翁'''が知恩寺住職に招聘され、京都に進出。藤田派から五代続けて、「岌」の名が付く知恩寺住職を輩出したが、[[白旗流]]や[[西山派]]のような中央集権的な本末関係を築くことができず、江戸時代初期に'''幡随意'''や'''[[呑龍]]'''が白旗流に転じたことで、多くの寺院が白旗流の末寺となり、やがて消滅した。「岌」の名が付く僧侶の多くは、藤田流だと言われている。
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関東地方の[[藤田善導寺]]、猿島[[高声寺]]、猿島[[下総・無量寿寺|無量寿寺]]を中心とし、越後の[[津川新善光寺]]・[[高田善導寺]]などの北陸地方に進出し、会津[[高巌寺]]から東北地方に広まった。中世の[[知恩院]]と[[知恩寺]]の総本山争いの中で、[[糸魚川・善導寺]]の'''岌翁'''が知恩寺住職に招聘され、京都に進出。藤田派から五代続けて知恩寺住職を輩出したが、[[白旗流]]や[[西山派]]のような中央集権的な本末関係を築くことができず、江戸時代初期に'''幡随意'''や'''[[呑龍]]'''が白旗流に転じたことで、多くの寺院が白旗流の末寺となり、やがて消滅した。東北地方では[[名越流]]との交渉があり、やはり江戸時代に名越流に吸収されたとも言われる(異説もある)。
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[[善光寺信仰]]の影響が大きいとされる。「'''岌'''」の名が付く僧侶の多くは、藤田流だと言われている。
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==主な寺院==
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「'''秩父派'''」「'''水沼義'''」の語源は地名に由来し、武蔵国秩父も領した藤田氏が治めた藤田郷は「秩父藤田」とも言われ、聖聡著『註記見聞』によると、水沼も秩父の地名とされ、開祖性心が、「'''秩父上人'''」「'''水沼上人'''」とも呼ばれたためである(『浄土宗全書』「寺誌宗史」)。「'''土塔派'''」の呼称は、性心の弟子で藤田流の教義・基盤を整えた'''良心'''が、[[下総・無量寿寺]]に経典を奉安した'''[[土塔]]'''を築いたためとされる。
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*[[高巌寺]] 福島県会津若松市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。陸奥国会津郡。会津藩主蒲生忠郷の菩提寺。
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*[[高声寺]] 茨城県坂東市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国猿島郡。当初は中根にあったが、江戸時代に現在地に移転。
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==歴史==
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===性心・良心の活動===
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'''性心'''は、'''性真'''、'''聖真'''とも表記し、'''唱阿'''、'''性阿'''ともいう。藤田郷領主の藤田利貞の子で、はじめは[[天台宗]]を学び、のち[[良忠]]に師事した。良忠の鎌倉入りに随従し、『決答授手印疑問鈔』を筆録するなど、重要な役割を果たした。良忠没後の正応元年(1288)、下総国猿島郡中根に[[高声寺]]を創建。以後、同寺は藤田流の実質的な本山となる。弟子の良心に同寺を譲り、藤田郷に帰り、[[藤田善導寺]]を建てたと言われる(藤田善導寺は良心の創建ともいう)。
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*[[下総・無量寿寺]] 茨城県猿島郡五霞町にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国葛飾郡。創建したのは良心で、経典を納めた[[土塔]]を築いたため、藤田流は「土塔派」とも呼ばれる。「小福田無量寿寺」
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性心の著作は残っておらず、教学の基礎は2代'''良心'''が整えたと言われる。良心は、'''持阿'''とも号す。性心と同じく藤田氏の出身で、藤田郷領主の藤田行重の子とされる。また『吾妻鏡』に記載がある一の谷の合戦で戦死した藤田行康が良心の祖父という。
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*[[大野・正定寺]] 茨城県古河市下大野にある浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。談義所だったという。古河藩土井家の菩提寺。江戸時代には、古河城城下町に同名寺院が建てられた。
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彼は高声寺を継承するとともに、[[下総・無量寿寺|無量寿寺]]など、猿島郡や葛飾郡各地に寺院を創建した。また『論註記見聞』『決疑鈔見聞』『伝通記授決鈔』『東宗要見聞』『授手印授決鈔』などの多くの書を著した。また無量寿寺の[[下総・土塔|土塔]]に秘伝を納めたと言われる。
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*[[古河・正定寺]] 茨城県古河市大手町の古河城下にある、古河藩土井家の菩提寺である浄土宗寺院。藤田流の拠点だった[[大野・正定寺]]の住職を招いて創建した。
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高声寺は1性心、2持阿、3持名、4唱名、5利覚、6良岌、7岌法、8岌伝、9岌光、10岌善、11岌泰、12岌念と継承された。4代'''唱名'''の弟子、'''善忠'''と'''教蔵'''が三河吉田に[[三河・悟真寺|悟真寺]]を創建し、三河地方に進出。また同弟子の'''感誓'''が貞治元年(1362)に[[越後・新善光寺]]を創建し、越後地方に進出した。
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*[[武蔵・善導寺]] 埼玉県大里郡寄居町にある浄土宗鎮西派の[[藤田流]]の発祥地となった寺院。現在は浄土宗知恩院派。武蔵国榛沢郡藤田郷。「'''藤田善導寺'''」「'''藤田道場'''」。
 
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*[[武蔵・林西寺]] 埼玉県越谷市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。呑龍旧跡。もと「大善寺」と言ったが、呑龍のときに藤田流から白旗流に転じた。
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===芦名氏の庇護と会津越後地方への弘通===
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高声寺8世'''岌伝'''は、会津黒川(会津若松の旧称)で隠棲した。これを機に会津領主の蘆名家と縁ができたものと思われ、蘆名盛高は、岌伝弟子の'''岌天'''を招き、文明6年(1474)、黒川に[[高巌寺]]を創建した。蘆名氏は、越後進出を計画しており、越後に基盤を持つ藤田流との関係を築いておきたかったとも考えられる。 当寺開山ののち、岌天は永正年間(1504-1520)末には、[[越後・新善光寺]]を再興している。高巌寺は、等月、等天、学天、岌庵、岌念と継承し、越後新善光寺とともに蘆名氏の領土とその周辺に藤田流の教線を拡大する拠点となった。
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会津高巌寺創建と同じ頃、岌天の兄弟弟子にあたる'''心誉蓮海'''(蓮開)は、文明5年(1473)に越後国頸城郡高田に[[越後高田・善導寺|善導寺]]を創建している。
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*[[館林・善導寺]] 群馬県館林市にある、浄土宗の[[檀林寺院]]。上野国邑楽郡。[[関東十八檀林]]の一つ。館林藩[[榊原家]]の菩提寺。藤田流の拠点となった「'''佐貫善導寺'''」と思われる。現在は浄土宗知恩院派。
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'''岌翁'''は出身・法系など不明ながら藤田流の京都進出の契機を作った重要な人物である。大永2年(1522)に越後国頸城郡糸魚川に[[糸魚川・善導寺|善導寺]]を創建(『西頸城郡誌』)。天文12年(1543)に勅命で京都[[知恩寺]]の住職として招聘される。
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*[[越後・新善光寺]] 新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。越後国蒲原郡。「津川新善光寺」。唱名弟子の感誓が越後松木谷に再興し、その後、岌梅が津川に移した。岌天が蘆名盛高の要請で、会津の高巌寺の開山となり、東北地方へ教線を広げた。知恩寺30世の岌州の出身寺院でもある。
 
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もとは善光寺聖の定尊が善光寺如来を祀ったのが始まりで、時宗寺院だったともいう。
 
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*[[越後高田・善導寺]] 新潟県上越市[[越後高田]]にある、浄土宗鎮西派の藤田流の寺院。越後国頸城郡。京都[[知恩寺]]第28世'''岌長'''や第33世[[幡随意]]の出身寺院。「'''高田善導寺'''」。高声寺8世岌伝の弟子の'''心誉蓮海'''(蓮開?)が文明5年(1473)に創建。あるいは岌長が創建したともいう。現在は浄土宗知恩院派。
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===知恩寺晋山と各地への進出===
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室町時代の天文12年(1543)、それまで[[一条流]][[三条流]][[木幡流]]が住職を出し、19世大誉慶竺以後は[[白旗流]]で占められてきた京都知恩寺住職に、突如[[糸魚川・善導寺]]の'''岌翁'''[[後奈良天皇]]の勅命で招かれて27世住職となった。その後、28'''岌長'''、29'''岌善'''、30'''岌州'''、31'''岌興'''、33'''[[幡随意]]'''と藤田流の僧侶が住職を務めることになる。
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*[[糸魚川・善導寺]] 新潟県糸魚川市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点となった寺院。越後国頸城郡。'''岌翁'''が当寺を創建した後、後奈良天皇の勅命で京都[[知恩寺]]第27世になったことで、藤田流は京都に進出した。現在は浄土宗知恩院派。
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突然の京都進出の背景には、知恩寺と[[知恩院]]との熾烈な総本山争いがあった。
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京都知恩寺は、浄土宗鎮西派の四本山として現在も[[浄土宗知恩院派]]の総大本山となっている。創建については諸説あるが、法然の住したとされ、'''源智'''が整えたとされる。源智は法然の臨終にも近侍した高弟であり、法然没後、知恩院も整備したとされ、その意味では両寺は共通の歴史を持っていると言える。
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大永3年(1523)閏3月、25世'''伝誉'''に宗内僧侶の香衣・上人号の出世執奏権の永宣旨が与えられ、4月には将軍'''足利義晴'''が知恩寺を浄土宗の本寺とし、知恩院は知恩寺の別院であると認めた。
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知恩院は驚愕し、[[青蓮院門跡]]の尊鎮を通じて朝廷と幕府に訴えるが認められず、面目を潰された尊鎮は[[高野山]]に逐電してしまう。サボタージュに入ったのだろう。困惑した朝廷は、知恩院が浄土宗の本寺と認め、永宣旨を破棄し、尊鎮は6月に帰洛し、一旦は落ち着いた。
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しかし、天文19年(1550)、将軍足利義晴の中陰法要で、席次をめぐって両寺は再び争い、幕府は再び知恩寺を浄土宗の本寺とし、知恩院の上座とすることを決した。岌翁の晋山はこの間のことであった。知恩寺が朝廷・幕府から重視されたのは、25世伝誉が[[後柏原天皇]]、[[後奈良天皇]]の深い帰依を受け、三条西実隆などの公家とも深いつながりをもっていたからという。
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伝誉は、知恩院が地方の有力寺院と本末関係を積極的に結び、勢力を拡張する中で、対抗意識から関東、越後、会津に教線を伸ばす藤田流を取り込もうと画策。中央に進出したい藤田流と思惑が一致し、岌翁の晋山が実現したと考えられている。
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岌翁は、晋山の翌年、紫衣の綸旨を受け、さらに同様に勅命で晋山した岌長も天文22年(1553)には永代の紫衣の永宣旨を受けている。永代紫衣は知恩院より早いものであったという。
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30世となった'''岌州'''は、京都の公家と戦国武将の間を取り持った政僧としても知られている。
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将軍足利義輝の意向による[[上杉謙信]]の上洛を取り成したほか、永禄2年には近江坂本で近衛前久と謙信の密談を仲介し、同席していることが『上杉年譜』などの史料から明らかである。その後、前久の関東下向、上杉謙信との同行に随従している。
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歴代は各地で寺院を創建し、藤田流の普及に努めた。
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===白旗流への転属と流派の消滅===
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知恩寺27世岌翁、28世岌長の二代は勅命で晋山したが、続く29岌善、30岌州、31岌興には勅命なく、知恩寺にも常住しなかったと考えられている。岌長が没した永禄6年前後は、翻って幕府が永禄3年(1560)に知恩院を浄土宗本寺と認める時期で藤田流との関係も影響を与えていたと考えられている。天正3年(1575)9月には香衣執奏権が知恩院に与えられ、知恩院の本山としての地位が不動のものとなりつつあった。
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一方で、知恩寺歴代の精力的な活動にも関わらず、藤田派は各地の有力寺院を末寺として取り込むことができなかった。事実上の本山である下総高声寺も、会津高巌寺も、津川新善光寺も知恩寺末にはならなかった。
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江戸時代、徳川家の天下が定まると、[[徳川家康]]の帰依を得た白旗流は、浄土宗の正統的地位を確固たるものとした。
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その流れの中で、藤田派の僧侶であった'''[[幡随意]]'''や'''[[呑龍]]'''(岌誉)は、自発的に白旗流に転属したと思われ、藤田流の寺院を、白旗流の末寺として転属させていった。高声寺も17世紀後半の貞享から元禄ごろに白旗流に転属。[[下総・無量寿寺]]も宝永3年(1706)に[[結城弘経寺]]末となり、藤田派は消滅していった。
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==主な寺院==
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*[[高巌寺]] 福島県会津若松市にある、浄土宗鎮西派藤田流の会津地方の拠点だった寺院。陸奥国会津郡。'''岌天'''が蘆名盛高の要請で招かれて創建。蘆名氏の菩提寺。会津藩主[[蒲生忠郷]]の菩提寺。
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*[[高声寺]] 茨城県坂東市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国猿島郡。当初は中根にあったが、江戸時代に現在地に移転。
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*[[下総・無量寿寺]] 茨城県猿島郡五霞町にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国葛飾郡。創建したのは良心で、経典を納めた[[土塔]]を築いたため、藤田流は「土塔派」とも呼ばれる。小福田無量寿寺。
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*[[大野・正定寺]] 茨城県古河市下大野にある浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。談義所だったという。古河藩土井家の菩提寺。江戸時代には、古河城城下町に同名寺院が建てられた。
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*[[古河・正定寺]] 茨城県古河市大手町の古河城下にある、古河藩土井家の菩提寺である浄土宗寺院。藤田流の拠点だった[[大野・正定寺]]の住職を招いて創建した。
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*[[武蔵・善導寺]] 埼玉県大里郡寄居町にある浄土宗鎮西派の[[藤田流]]の発祥地となった寺院。現在は浄土宗知恩院派。武蔵国榛沢郡藤田郷。藤田善導寺、藤田道場。
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*[[武蔵・林西寺]] 埼玉県越谷市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。呑龍旧跡。もと「大善寺」と言ったが、呑龍のときに藤田流から白旗流に転じた。
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*[[館林・善導寺]] 群馬県館林市にある、浄土宗の[[檀林寺院]]。上野国邑楽郡。[[関東十八檀林]]の一つ。館林藩[[榊原家]]の菩提寺。藤田流の拠点となった佐貫善導寺と思われる。現在は浄土宗知恩院派。
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*[[越後・新善光寺]] 新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。越後国蒲原郡。津川新善光寺。唱名弟子の'''感誓'''が越後松木谷に再興し、その後、岌梅が津川に移した。知恩寺30世の岌州の出身寺院でもある。もとは善光寺聖の定尊が善光寺如来を祀ったのが始まりで、[[時宗]]寺院だったともいう。
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*[[越後高田・善導寺]] 新潟県上越市[[越後高田]]にある、浄土宗鎮西派の藤田流の寺院。越後国頸城郡。京都[[知恩寺]]第28世'''岌長'''や第33世[[幡随意]]の出身寺院。高田善導寺。高声寺8世岌伝の弟子の'''心誉蓮海'''(蓮開?)が文明5年(1473)に創建。あるいは岌長が創建したともいう。現在は浄土宗知恩院派。
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*[[糸魚川・善導寺]] 新潟県糸魚川市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点となった寺院。越後国頸城郡。'''岌翁'''が当寺を創建した後、後奈良天皇の勅命で京都[[知恩寺]]第27世になったことで、藤田流は京都に進出した。現在は浄土宗知恩院派。
*[[三河・悟真寺]] 愛知県豊橋市にある、浄土宗鎮西派の藤田流だった寺院。
*[[三河・悟真寺]] 愛知県豊橋市にある、浄土宗鎮西派の藤田流だった寺院。
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*[[知恩寺]] 京都府京都市左京区にある、現在の浄土宗知恩院派大本山。室町時代、知恩院と総本山を争った。百万遍知恩寺ともいう。
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==人物==
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*性心:性真、聖真とも表記し、唱阿、性阿ともいう。藤田郷領主の藤田利貞の子で、はじめは[[天台宗]]を学び、のち[[良忠]]に師事した。
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*持阿良心:性心の弟子。藤田流の教義を整備。
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*良岌見日
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*[[呑龍]]
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*[[幡随意]]
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善忠が三河吉田(豊橋市)に悟真寺を創建。
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白旗流の大樹寺、信光明寺、大恩寺が昇進ための香衣執奏権を持つ知恩院との中継ぎをすることで、
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芦名氏が治める越後津川と会津黒川を結ぶ地域に多く建てられた
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大沼郡・河沼郡に広まる
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中世には白旗流の寺院はなく
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浜通り・中通り地方を布教する名越派と境域がはっきりと区分されていると指摘されている
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藤田派系寺院を知恩寺傘下に組み込んで、その本末圏拡大を最終目的としていたのではなかろうか」としている。
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伝誉
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*[[知恩寺]] 京都府京都市左京区にある、現在の浄土宗知恩院派大本山。室町時代、知恩院と総本山を争った。「百万遍知恩寺」ともいう。
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== 参考文献 ==
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*大島泰信『浄土宗史』
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*望月信亨編著『仏教大辞典』
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*蓮門精舎旧詞
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*藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」

2017年4月14日 (金) 時点における最新版

浄土宗鎮西派藤田流(じょうどしゅう・ちんぜいは・ふじたりゅう)は、良忠弟子の唱阿性心を開祖し、関東・東北・北陸地方に広まったが、江戸時代初期に消滅した浄土宗の一流派。埼玉県寄居町の藤田善導寺を発祥の地とするため、「藤田流」「藤田派」と呼ばれる。「土塔派」「土塔流」「土塔義」「水沼義」「秩父派」ともいう。

関東地方の藤田善導寺、猿島高声寺、猿島無量寿寺を中心とし、越後の津川新善光寺高田善導寺などの北陸地方に進出し、会津高巌寺から東北地方に広まった。中世の知恩院知恩寺の総本山争いの中で、糸魚川・善導寺岌翁が知恩寺住職に招聘され、京都に進出。藤田派から五代続けて知恩寺住職を輩出したが、白旗流西山派のような中央集権的な本末関係を築くことができず、江戸時代初期に幡随意呑龍が白旗流に転じたことで、多くの寺院が白旗流の末寺となり、やがて消滅した。東北地方では名越流との交渉があり、やはり江戸時代に名越流に吸収されたとも言われる(異説もある)。

善光寺信仰の影響が大きいとされる。「」の名が付く僧侶の多くは、藤田流だと言われている。

秩父派」「水沼義」の語源は地名に由来し、武蔵国秩父も領した藤田氏が治めた藤田郷は「秩父藤田」とも言われ、聖聡著『註記見聞』によると、水沼も秩父の地名とされ、開祖性心が、「秩父上人」「水沼上人」とも呼ばれたためである(『浄土宗全書』「寺誌宗史」)。「土塔派」の呼称は、性心の弟子で藤田流の教義・基盤を整えた良心が、下総・無量寿寺に経典を奉安した土塔を築いたためとされる。

目次

歴史

性心・良心の活動

性心は、性真聖真とも表記し、唱阿性阿ともいう。藤田郷領主の藤田利貞の子で、はじめは天台宗を学び、のち良忠に師事した。良忠の鎌倉入りに随従し、『決答授手印疑問鈔』を筆録するなど、重要な役割を果たした。良忠没後の正応元年(1288)、下総国猿島郡中根に高声寺を創建。以後、同寺は藤田流の実質的な本山となる。弟子の良心に同寺を譲り、藤田郷に帰り、藤田善導寺を建てたと言われる(藤田善導寺は良心の創建ともいう)。

性心の著作は残っておらず、教学の基礎は2代良心が整えたと言われる。良心は、持阿とも号す。性心と同じく藤田氏の出身で、藤田郷領主の藤田行重の子とされる。また『吾妻鏡』に記載がある一の谷の合戦で戦死した藤田行康が良心の祖父という。

彼は高声寺を継承するとともに、無量寿寺など、猿島郡や葛飾郡各地に寺院を創建した。また『論註記見聞』『決疑鈔見聞』『伝通記授決鈔』『東宗要見聞』『授手印授決鈔』などの多くの書を著した。また無量寿寺の土塔に秘伝を納めたと言われる。

高声寺は1性心、2持阿、3持名、4唱名、5利覚、6良岌、7岌法、8岌伝、9岌光、10岌善、11岌泰、12岌念と継承された。4代唱名の弟子、善忠教蔵が三河吉田に悟真寺を創建し、三河地方に進出。また同弟子の感誓が貞治元年(1362)に越後・新善光寺を創建し、越後地方に進出した。


芦名氏の庇護と会津越後地方への弘通

高声寺8世岌伝は、会津黒川(会津若松の旧称)で隠棲した。これを機に会津領主の蘆名家と縁ができたものと思われ、蘆名盛高は、岌伝弟子の岌天を招き、文明6年(1474)、黒川に高巌寺を創建した。蘆名氏は、越後進出を計画しており、越後に基盤を持つ藤田流との関係を築いておきたかったとも考えられる。 当寺開山ののち、岌天は永正年間(1504-1520)末には、越後・新善光寺を再興している。高巌寺は、等月、等天、学天、岌庵、岌念と継承し、越後新善光寺とともに蘆名氏の領土とその周辺に藤田流の教線を拡大する拠点となった。

会津高巌寺創建と同じ頃、岌天の兄弟弟子にあたる心誉蓮海(蓮開)は、文明5年(1473)に越後国頸城郡高田に善導寺を創建している。

岌翁は出身・法系など不明ながら藤田流の京都進出の契機を作った重要な人物である。大永2年(1522)に越後国頸城郡糸魚川に善導寺を創建(『西頸城郡誌』)。天文12年(1543)に勅命で京都知恩寺の住職として招聘される。


知恩寺晋山と各地への進出

室町時代の天文12年(1543)、それまで一条流三条流木幡流が住職を出し、19世大誉慶竺以後は白旗流で占められてきた京都知恩寺住職に、突如糸魚川・善導寺岌翁後奈良天皇の勅命で招かれて27世住職となった。その後、28岌長、29岌善、30岌州、31岌興、33幡随意と藤田流の僧侶が住職を務めることになる。

突然の京都進出の背景には、知恩寺と知恩院との熾烈な総本山争いがあった。

京都知恩寺は、浄土宗鎮西派の四本山として現在も浄土宗知恩院派の総大本山となっている。創建については諸説あるが、法然の住したとされ、源智が整えたとされる。源智は法然の臨終にも近侍した高弟であり、法然没後、知恩院も整備したとされ、その意味では両寺は共通の歴史を持っていると言える。

大永3年(1523)閏3月、25世伝誉に宗内僧侶の香衣・上人号の出世執奏権の永宣旨が与えられ、4月には将軍足利義晴が知恩寺を浄土宗の本寺とし、知恩院は知恩寺の別院であると認めた。

知恩院は驚愕し、青蓮院門跡の尊鎮を通じて朝廷と幕府に訴えるが認められず、面目を潰された尊鎮は高野山に逐電してしまう。サボタージュに入ったのだろう。困惑した朝廷は、知恩院が浄土宗の本寺と認め、永宣旨を破棄し、尊鎮は6月に帰洛し、一旦は落ち着いた。

しかし、天文19年(1550)、将軍足利義晴の中陰法要で、席次をめぐって両寺は再び争い、幕府は再び知恩寺を浄土宗の本寺とし、知恩院の上座とすることを決した。岌翁の晋山はこの間のことであった。知恩寺が朝廷・幕府から重視されたのは、25世伝誉が後柏原天皇後奈良天皇の深い帰依を受け、三条西実隆などの公家とも深いつながりをもっていたからという。

伝誉は、知恩院が地方の有力寺院と本末関係を積極的に結び、勢力を拡張する中で、対抗意識から関東、越後、会津に教線を伸ばす藤田流を取り込もうと画策。中央に進出したい藤田流と思惑が一致し、岌翁の晋山が実現したと考えられている。

岌翁は、晋山の翌年、紫衣の綸旨を受け、さらに同様に勅命で晋山した岌長も天文22年(1553)には永代の紫衣の永宣旨を受けている。永代紫衣は知恩院より早いものであったという。

30世となった岌州は、京都の公家と戦国武将の間を取り持った政僧としても知られている。 将軍足利義輝の意向による上杉謙信の上洛を取り成したほか、永禄2年には近江坂本で近衛前久と謙信の密談を仲介し、同席していることが『上杉年譜』などの史料から明らかである。その後、前久の関東下向、上杉謙信との同行に随従している。

歴代は各地で寺院を創建し、藤田流の普及に努めた。

白旗流への転属と流派の消滅

知恩寺27世岌翁、28世岌長の二代は勅命で晋山したが、続く29岌善、30岌州、31岌興には勅命なく、知恩寺にも常住しなかったと考えられている。岌長が没した永禄6年前後は、翻って幕府が永禄3年(1560)に知恩院を浄土宗本寺と認める時期で藤田流との関係も影響を与えていたと考えられている。天正3年(1575)9月には香衣執奏権が知恩院に与えられ、知恩院の本山としての地位が不動のものとなりつつあった。

一方で、知恩寺歴代の精力的な活動にも関わらず、藤田派は各地の有力寺院を末寺として取り込むことができなかった。事実上の本山である下総高声寺も、会津高巌寺も、津川新善光寺も知恩寺末にはならなかった。

江戸時代、徳川家の天下が定まると、徳川家康の帰依を得た白旗流は、浄土宗の正統的地位を確固たるものとした。

その流れの中で、藤田派の僧侶であった幡随意呑龍(岌誉)は、自発的に白旗流に転属したと思われ、藤田流の寺院を、白旗流の末寺として転属させていった。高声寺も17世紀後半の貞享から元禄ごろに白旗流に転属。下総・無量寿寺も宝永3年(1706)に結城弘経寺末となり、藤田派は消滅していった。

主な寺院

  • 高巌寺 福島県会津若松市にある、浄土宗鎮西派藤田流の会津地方の拠点だった寺院。陸奥国会津郡。岌天が蘆名盛高の要請で招かれて創建。蘆名氏の菩提寺。会津藩主蒲生忠郷の菩提寺。
  • 高声寺 茨城県坂東市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国猿島郡。当初は中根にあったが、江戸時代に現在地に移転。
  • 下総・無量寿寺 茨城県猿島郡五霞町にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。下総国葛飾郡。創建したのは良心で、経典を納めた土塔を築いたため、藤田流は「土塔派」とも呼ばれる。小福田無量寿寺。
  • 大野・正定寺 茨城県古河市下大野にある浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。談義所だったという。古河藩土井家の菩提寺。江戸時代には、古河城城下町に同名寺院が建てられた。
  • 古河・正定寺 茨城県古河市大手町の古河城下にある、古河藩土井家の菩提寺である浄土宗寺院。藤田流の拠点だった大野・正定寺の住職を招いて創建した。
  • 武蔵・善導寺 埼玉県大里郡寄居町にある浄土宗鎮西派の藤田流の発祥地となった寺院。現在は浄土宗知恩院派。武蔵国榛沢郡藤田郷。藤田善導寺、藤田道場。
  • 武蔵・林西寺 埼玉県越谷市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。呑龍旧跡。もと「大善寺」と言ったが、呑龍のときに藤田流から白旗流に転じた。
  • 館林・善導寺 群馬県館林市にある、浄土宗の檀林寺院。上野国邑楽郡。関東十八檀林の一つ。館林藩榊原家の菩提寺。藤田流の拠点となった佐貫善導寺と思われる。現在は浄土宗知恩院派。
  • 越後・新善光寺 新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点だった寺院。越後国蒲原郡。津川新善光寺。唱名弟子の感誓が越後松木谷に再興し、その後、岌梅が津川に移した。知恩寺30世の岌州の出身寺院でもある。もとは善光寺聖の定尊が善光寺如来を祀ったのが始まりで、時宗寺院だったともいう。
  • 越後高田・善導寺 新潟県上越市越後高田にある、浄土宗鎮西派の藤田流の寺院。越後国頸城郡。京都知恩寺第28世岌長や第33世幡随意の出身寺院。高田善導寺。高声寺8世岌伝の弟子の心誉蓮海(蓮開?)が文明5年(1473)に創建。あるいは岌長が創建したともいう。現在は浄土宗知恩院派。
  • 糸魚川・善導寺 新潟県糸魚川市にある、浄土宗鎮西派の藤田流の拠点となった寺院。越後国頸城郡。岌翁が当寺を創建した後、後奈良天皇の勅命で京都知恩寺第27世になったことで、藤田流は京都に進出した。現在は浄土宗知恩院派。
  • 三河・悟真寺 愛知県豊橋市にある、浄土宗鎮西派の藤田流だった寺院。
  • 知恩寺 京都府京都市左京区にある、現在の浄土宗知恩院派大本山。室町時代、知恩院と総本山を争った。百万遍知恩寺ともいう。


人物

  • 性心:性真、聖真とも表記し、唱阿、性阿ともいう。藤田郷領主の藤田利貞の子で、はじめは天台宗を学び、のち良忠に師事した。
  • 持阿良心:性心の弟子。藤田流の教義を整備。
  • 良岌見日
  • 呑龍
  • 幡随意


参考文献

  • 大島泰信『浄土宗史』
  • 望月信亨編著『仏教大辞典』
  • 蓮門精舎旧詞
  • 藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%B4%BE%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%B5%81」より作成

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