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玄奘旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | *622年:具足戒を受戒 | ||
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+ | *645年1月:帰国。 | ||
+ | *645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。 | ||
+ | *646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。 | ||
+ | *648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。 | ||
+ | *649年:太宗が崩御。高宗が即位。 | ||
*653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。 | *653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。 | ||
*653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。 | *653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。 | ||
+ | *657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。 | ||
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+ | *663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。 | ||
*664年2月5日:玉華寺で死去。 | *664年2月5日:玉華寺で死去。 | ||
===死後=== | ===死後=== | ||
- | * | + | *664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。 |
- | * | + | *669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。 |
- | * | + | *672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。 |
- | * | + | *688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。 |
+ | *821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。 | ||
+ | *831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。 | ||
+ | *839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。 | ||
*875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明? | *875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明? | ||
- | * | + | *1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。 |
+ | *12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。 | ||
*1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。 | *1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。 | ||
+ | *明末:『西遊記』成立。 | ||
*1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。 | *1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。 | ||
===死後(日本)=== | ===死後(日本)=== | ||
*764年:薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。 | *764年:薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。 | ||
*813年:興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。 | *813年:興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。 | ||
+ | *12世紀末:玄奘への関心が高まる。 | ||
*1251年:西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 | *1251年:西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 | ||
*14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。 | *14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。 | ||
*1461年:興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 | *1461年:興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 | ||
+ | *1492年:大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。 | ||
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2020年7月15日 (水) 時点における版
玄奘(げんじょう)(602-664)は、唐代の渡印僧・訳経僧。陳氏。現在の河南省出身。三蔵法師。法相宗の開祖ともされる(弟子の基を開祖とすることが多い)
629年、出発。645年帰国。忌日法要を、三蔵会、玄奘会、玄奘三蔵会という。
目次 |
一覧
修行時代
渡印
帰国後
墓所など
年譜
生涯
- 622年:具足戒を受戒
- 629年:インドに旅立つ。
- 645年1月:帰国。
- 645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。
- 646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。
- 648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。
- 649年:太宗が崩御。高宗が即位。
- 653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。
- 653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。
- 657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。
- 663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。
- 664年2月5日:玉華寺で死去。
死後
- 664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。
- 669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。
- 672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。
- 688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。
- 821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。
- 831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。
- 839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。
- 875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明?
- 1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。
- 12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。
- 1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。
- 明末:『西遊記』成立。
- 1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。
死後(日本)
- 764年:薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。
- 813年:興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。
- 12世紀末:玄奘への関心が高まる。
- 1251年:西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
- 14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。
- 1461年:興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
- 1492年:大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。