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玄奘旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月15日 (水)

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'''玄奘'''(げんじょう)は、唐代の渡印僧・訳経僧。三蔵法師。
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'''玄奘'''(げんじょう)(602-664)は、唐代の渡印僧・訳経僧。陳氏。現在の河南省出身。三蔵法師。[[法相宗]]の開祖ともされる(弟子の[[基]]を開祖とすることが多い)
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629年、出発。645年帰国。忌日法要を、三蔵会、玄奘会、玄奘三蔵会という。
== 一覧 ==
== 一覧 ==
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===修行時代===
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*[[洛陽・玄奘寺]]:玄奘の生誕地にある寺院。洛陽市偃師市〓氏鎮。
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*[[洛陽・浄土寺]]:玄奘が出家した寺院。
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*[[大荘厳寺]]:長安
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*[[空慧寺]]:蜀の寺院
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*[[荊州・天皇寺]]
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*[[長安・大覚寺]]:
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===渡印===
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*[[ナーランダー寺院]]:戒賢(シーラバドラ)に学ぶ。
*[[アクベシム寺院]]
*[[アクベシム寺院]]
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*クマーラ王の王宮
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*戒日王の王宮
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===帰国後===
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*[[長安・弘福寺]]:最初の訳経所
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*[[長安・弘法院]]
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*[[長安・西明寺]]:玄奘が創建。
*[[大慈恩寺]]
*[[大慈恩寺]]
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*[[玉華寺]]
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==墓所など==
==墓所など==
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*白鹿原
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*[[長安・興教寺]]
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*[[建初寺]]:中国南京。長安から頂骨が改葬された。
*[[武蔵・慈恩寺]]
*[[武蔵・慈恩寺]]
*[[薬師寺]]
*[[薬師寺]]
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*[[玄奘寺]]
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*[[台南・玄奘寺]]
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==門下==
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*神昉(生没年不詳):上足四人の一人。
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*嘉尚(生没年不詳):上足四人の一人。
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*普光(生没年不詳):上足四人の一人。
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*円測(613-696):新羅の僧。新羅の王族。窺基とは異なる流れを作ったという。
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*慧立(615-?):
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*懐素(624-697):
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*道昭(629-700):日本の入唐僧。法相宗の初伝。
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*窺基(632-682):上足四人の一人。基。慈恩大師。
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*慧昭(650-714):玄奘、窺基に学ぶ。法相宗第二祖。
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*義寂(生没年不詳):新羅の僧。
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*智達(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
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*智通(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
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*弁機(生没年不詳):
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*彦悰():
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*(孫悟空):
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*(沙悟浄):
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==年譜==
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===生涯===
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*607年:誕生。誕生年は異説あり。
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*614年:出家。
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*618年:洛陽から長安に移り、荘厳寺に滞在。
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*619年:成都に移住。
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*622年:成都で具足戒を受戒。
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*623年:長安に戻り、大覚寺に滞在。
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*629年:インドに旅立つ。
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*633年:マガダ国に到着。ナーランダ寺院で戒賢に師事。
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*642年:西インドを巡った後、ナーランダ寺院に戻る。
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*645年1月:帰国。
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*645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。
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*646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。
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*648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。
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*649年:太宗が崩御。高宗が即位。
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*653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。
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*653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。
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*657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。
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*663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。
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*664年2月5日:玉華寺で死去。
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===死後===
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*664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。
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*669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。
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*672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。
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*688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。
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*821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。
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*831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。
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*839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。
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*875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明?
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*1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。
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*12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。
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*1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。
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*明末:『西遊記』成立。
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*1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。
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===死後(日本)===
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*764年(天平宝字8年):薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。
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*813年(弘仁4年):興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。
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*12世紀末:玄奘への関心が高まる。
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*1251年(建長3年):西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
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*14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。
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*1461年(寛正2年):興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
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*1492年(明応1年):大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。
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2020年7月15日 (水) 時点における最新版

玄奘(げんじょう)(602-664)は、唐代の渡印僧・訳経僧。陳氏。現在の河南省出身。三蔵法師。法相宗の開祖ともされる(弟子のを開祖とすることが多い)

629年、出発。645年帰国。忌日法要を、三蔵会、玄奘会、玄奘三蔵会という。

目次

一覧

修行時代

渡印

帰国後

墓所など

門下

  • 神昉(生没年不詳):上足四人の一人。
  • 嘉尚(生没年不詳):上足四人の一人。
  • 普光(生没年不詳):上足四人の一人。
  • 円測(613-696):新羅の僧。新羅の王族。窺基とは異なる流れを作ったという。
  • 慧立(615-?):
  • 懐素(624-697):
  • 道昭(629-700):日本の入唐僧。法相宗の初伝。
  • 窺基(632-682):上足四人の一人。基。慈恩大師。
  • 慧昭(650-714):玄奘、窺基に学ぶ。法相宗第二祖。
  • 義寂(生没年不詳):新羅の僧。
  • 智達(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
  • 智通(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
  • 弁機(生没年不詳):
  • 彦悰():
  • (孫悟空):
  • (沙悟浄):
  • (猪八戒):

年譜

生涯

  • 607年:誕生。誕生年は異説あり。
  • 614年:出家。
  • 618年:洛陽から長安に移り、荘厳寺に滞在。
  • 619年:成都に移住。
  • 622年:成都で具足戒を受戒。
  • 623年:長安に戻り、大覚寺に滞在。
  • 629年:インドに旅立つ。
  • 633年:マガダ国に到着。ナーランダ寺院で戒賢に師事。
  • 642年:西インドを巡った後、ナーランダ寺院に戻る。
  • 645年1月:帰国。
  • 645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。
  • 646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。
  • 648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。
  • 649年:太宗が崩御。高宗が即位。
  • 653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。
  • 653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。
  • 657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。
  • 663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。
  • 664年2月5日:玉華寺で死去。

死後

  • 664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。
  • 669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。
  • 672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。
  • 688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。
  • 821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。
  • 831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。
  • 839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。
  • 875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明?
  • 1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。
  • 12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。
  • 1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。
  • 明末:『西遊記』成立。
  • 1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。

死後(日本)

  • 764年(天平宝字8年):薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。
  • 813年(弘仁4年):興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。
  • 12世紀末:玄奘への関心が高まる。
  • 1251年(建長3年):西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
  • 14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。
  • 1461年(寛正2年):興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
  • 1492年(明応1年):大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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