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真宗大谷派城端別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''真宗大谷派城端別院'''(しんしゅうおおたには・じょうはな・べついん)は、富山県南砺市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。[[蓮如旧跡]]。'''善徳寺'''。 | '''真宗大谷派城端別院'''(しんしゅうおおたには・じょうはな・べついん)は、富山県南砺市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。[[蓮如旧跡]]。'''善徳寺'''。 | ||
- | [[西本願寺|本願寺]]5代綽如の三男の周覚(玄真)の一族は北陸地方に教線を伸ばし、「北国一家衆」と呼ばれた。その一人で周覚の孫の'''蓮真'''(玄永)の下にその伝手を頼って[[蓮如]]が訪れた。これを機に文明8年(1476)加賀越中国境に創設された'''[[砂子坂道場]]''' | + | == 一覧 == |
- | + | [[西本願寺|本願寺]]5代綽如の三男の周覚(玄真)の一族は北陸地方に教線を伸ばし、「北国一家衆」と呼ばれた。その一人で周覚の孫の'''蓮真'''(玄永)の下にその伝手を頼って[[蓮如]]が訪れた。これを機に文明8年(1476)加賀越中国境に創設された'''[[砂子坂道場]]'''(跡地に石碑)が起源とされる。蓮如を開山として蓮真を2代とする。法林寺(地名。南砺市法林寺)、山本(南砺市山本)(教念寺付近にあった)、福光(南砺市福光)(南砺市福光五宝町の支院知源寺の地)を経て永禄2年(1559)に城端に寺基を定めた。 | |
+ | 6代'''空勝'''は、石山合戦で本願寺軍の'''[[教如]]'''を助けたことから、本願寺東西分立後は教如が立てた[[東本願寺]]に付いた。教如から蓮如御影を下賜された。江戸時代、越中・加賀・能登に末寺を多数持ち、[[真宗大谷派井波別院|瑞泉寺]]とともに越中頭寺となった。大谷家連枝や藩主[[前田家]]子息が入寺し、高い格式を誇った。 | ||
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2015年9月22日 (火) 時点における版
真宗大谷派城端別院(しんしゅうおおたには・じょうはな・べついん)は、富山県南砺市にある真宗大谷派の別院。蓮如旧跡。善徳寺。
一覧
本願寺5代綽如の三男の周覚(玄真)の一族は北陸地方に教線を伸ばし、「北国一家衆」と呼ばれた。その一人で周覚の孫の蓮真(玄永)の下にその伝手を頼って蓮如が訪れた。これを機に文明8年(1476)加賀越中国境に創設された砂子坂道場(跡地に石碑)が起源とされる。蓮如を開山として蓮真を2代とする。法林寺(地名。南砺市法林寺)、山本(南砺市山本)(教念寺付近にあった)、福光(南砺市福光)(南砺市福光五宝町の支院知源寺の地)を経て永禄2年(1559)に城端に寺基を定めた。 6代空勝は、石山合戦で本願寺軍の教如を助けたことから、本願寺東西分立後は教如が立てた東本願寺に付いた。教如から蓮如御影を下賜された。江戸時代、越中・加賀・能登に末寺を多数持ち、瑞泉寺とともに越中頭寺となった。大谷家連枝や藩主前田家子息が入寺し、高い格式を誇った。
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部