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真宗大谷派長浜別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月26日 (日)

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真宗大谷派長浜別院(しんしゅうおおたには・ながはま・べついん)は、滋賀県長浜市にある真宗大谷派別院。寺号は大通寺長浜御堂長浜御坊。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院大通寺長浜別院

目次

歴史

湖北は浄土真宗が根付いた地域で、長浜別院は長浜町年寄の惣会所として建てられたのが始まりとされる。惣会所は慶長元年(1596)、長浜城内に移され、慶長11年以後には城外に土地を与えられて移転した。長浜御堂長浜御坊と称された。大通寺の寺号は、12代教如が慶長7年(1602)ごろに許可したとも、東本願寺13代宣如が寛永13年(1636)に許可したともいう。

輪番で運営されたが寛永16年に宣如の息子霊瑞院宣澄を初代住職に迎えた。東本願寺住職の子息が住職につくことが通例となり、藩主井伊家の子息を迎えることもあった。

慶安2年(1649)、彦根藩主井伊直孝から現在地を与えられ本堂や大広間が整備された。寺伝では現在の本堂内陣や大広間は東本願寺創建時の御堂を承応元年(1652)に移築したと言われ、学術調査でもその可能性はあると考えられている。

組織

歴代

(真宗年表、長浜御坊三百年誌ほか)

世数 法号 法諱 院号 生没年 在職年 略歴
1 宣澄 従高 霊瑞院 1626-1682 1639-1682 東本願寺13世宣如の三男。1626年(寛永3年)生。母は九条幸家娘。従高。幼名は阿茶丸。1639年(寛永16年)8月6日、13歳で入寺。1641年(寛永18年)3月22日得度。宣流から宣澄と改名。権少僧都。1647年(正保4年)権大僧都。1653年(承応2年)法印大和尚。1680年(延宝8年)11月25日死去。54歳。霊瑞院と号す。暫酔。
2 琢澄 瑛高 霊蔵院 生没年不詳 ?-1688 宣澄の長男。母は水無瀬中納言娘。瑛高。東本願寺琢如の猶子。幼名は艮丸。1654年(承応3年)得度。1659年(万治2年)導師。1688年(元禄1年)春、故あって水谷浄願寺に隠居し、休侯軒と号す。1707年(宝永4年)12月裹頭。1709年(宝永6年)1月、前五条。1710年(宝永7年)春、再任したが、再任に反発した寺院が西本願寺末に転派した。1712年(正徳2年)7月18日、水谷浄願寺に隠居(1716年(享保1年)とも[1])。霊蔵院と号す。(1648年(慶安1年)9月3日死去[2]ともいうが合わない)
3 一源 海高 能令院、能冷院 1675-1708 1688-1708 東本願寺16世一如の長男。幼名は利与丸。諱は海高。1675年(延宝3年)生。後継者から外れたため大通寺を継ぐ。1688年(元禄1年)得度。1704年(宝永1年)法橋。1705年(宝永2年)権少僧都。1708年(宝永5年)権大僧都。1708年(宝永5年)10月6日死去。34歳。能令院、能冷院と号す。
琢澄 瑛高 生没年不詳 1710-1712 再任。
4 一応 海徳 超絶院 1684-1756 1712?-1741 船場本徳寺住職。東本願寺16世一如の五男。幼名は広凡。諱は海徳。1684年(貞享1年)生。1702年(元禄15年)得度。同年導師。1725年(享保10年)五村別院を再建。1732年(享保17年)裹頭下賜。1736年(元文1年)本堂改修を果たす。1738年(元文3年)5月、船場本徳寺住職を兼務。1741年(寛保1年)7月5日隠退して愛法閣と号す。1756年(宝暦6年)9月9日(29日とも)死去。73歳。超絶院と号す。
5 真央 性徳 横超院 1721-1791 1741-1786 船場本徳寺住職。城端善徳寺住職。一応の子。1721年(享保6年)生。性徳。幼名は広丸。東本願寺17世真如の猶子となり、真応と名乗る。東本願寺後継者として応如(早世)が得度した後、真央と改名した(応の字を忌避したか)。1731年(享保16年)得度。1735年(享保20年)導師。1740年(元文5年)、井伊直惟娘が入室。1741年(寛保1年)7月19日寺務。1762年(宝暦12年)5月11日、本徳寺住職を兼務。1766年(明和3年)在京。1771年(明和8年)褐色衣常服。1774年(安永3年)裹頭。城端善徳寺を兼務。1786年(天明6年)12月5日引退。1791年(寛政3年)9月10日死去。71歳。含山と号す。横超院と号す。
6 乗徳 遍勝 明達院 1769-1828 1787-1791? 井伊家出身。井伊直幸の子。真央の婿養子。井伊直惟娘の甥に当たる。室は美江子(真央娘)。1769年(明和6年)生。俗名は井伊直宥。幼名は又助。諱は遍勝。1787年(天明7年)入寺得度。1791年(寛政3年)巡讃となり、慈声閣と号す(隠居か)。1828年(文政11年)10月29日死去。60歳。明達院と号す。
7 達央 朗徳 最勝院、超発院 1776-1831 1791?-1822 大信寺住職。真央の孫。父は超倫院。母は松村氏。1776年(安永5年)生。諱は朗徳。幼名は武王丸。1780年(安永9年)定衆加役。同年、巡讃。1822年(文政5年)引退か[3]。この頃、喜法閣と号す。1825年(文政8年)閏8月、大信寺住職[4]。最勝院から超発院に改号。1831年(天保2年)10月14日死去[5]。含秋と号す。最勝院、超発院と号す。
8 達住 朗澄 霊心院 1817-1894 1822?-1841 東本願寺21世大谷光勝(厳如)。本徳寺住職。達如の子。1817年(文化14年)生。諱は朗澄。同年初めて入寺。1828年(文政11年)本徳寺を兼務。1841年(天保12年)宝如の死去で東本願寺に移る。この時後継者がおらず、藩主の弟、つまりのちの井伊直弼を迎える計画があったが実現しなかった。1894年(明治27年)1月15日死去。78歳。霊心院と号す。
9 達位 朗高 能満院 1836-1862 1848-1862 達如の子。1836年(天保7年)生。朗高。幼名は式君。1848年(嘉永1年)得度。同年別助音、巡讃。同年入寺。同年導師。1850年(嘉永3年)法眼。1861年(文久1年)法印権大僧都。同年参内。1862年(文久2年)8月8日死去。27歳。能満院と号す。
10 厳澄 大谷勝縁 霊心院、霊鷲院、霊寿院 1856-1924 1865-1924 本山執綱。照蓮寺住職。五村別院住職。東本願寺21世大谷光勝の次男。1856年(安政3年)(1854年(安政1年)?)生。諱は勝縁。妻は信子(井伊直弼五女)。1864年(元治1年)得度し、霊心院と号す。1865年(慶応1年)入寺して霊寿院に改める。1867年(慶応3年)照蓮寺を兼務。同年2月、山内就学。1868年(明治1年)7月、法眼少僧都。1871年(明治4年)8月、本山執当職。1877年(明治10年)8月17日、法主代理として西南戦争の戦地を慰問。襲撃を受け、多くの随員が捕縛された。1881年(明治14年)12月から翌年まで本山執綱。1899年(明治32年)6月、五村別院を兼務。1900年(明治33年)本山執綱に再任。1902年(明治35年)4月、執綱を辞し、大僧正。1904年(明治37年)裹頭。1910年(明治43年)4月11日、特殊功章と親書を賜う。1924年(大正13年)3月19日(9日とも)死去。69歳。五村別院の教如300年忌執行の直後だった。霊心院、霊鷲院、霊寿院と号す。
11 厳量 大谷勝信 慧日院 1878-1951 1924- 真宗大谷派寺務総長3代。東本願寺21世厳如の十男。東本願寺22世現如の弟。本務は本統寺。厳量。1878年(明治11年)生。1924年(大正13年)4月、大通寺を兼務。1939年(昭和14年)、暢順を迎える。1951年(昭和26年)死去。慧日院と号す。
12 経如 大谷暢順 霊源院 1929- 本願寺文化興隆財団理事長。大谷光暢の次男。1929年(昭和4年)生。1939年(昭和14年)入寺。のち真宗大谷派を離脱し東山浄苑を創設。霊源院と号す。(略歴は鳥羽・本願寺#組織を参照)

資料

  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
  • 1920『無礙智山大通寺栞』1920年(大正9年)。[6]
  • 1962『長浜御坊三百年誌』[7]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E9%95%B7%E6%B5%9C%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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