ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

神道大成教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?歴代管長)
2行: 2行:
==歴史==
==歴史==
幕末に幕府の重臣として外交交渉に当たった平山省斎が明治前期に設立。キリスト教の国内進出への危機意識を背景に[[禊教]]、[[淘宮術]]、[[俳諧]]などの諸教会を集結し組織した。
幕末に幕府の重臣として外交交渉に当たった平山省斎が明治前期に設立。キリスト教の国内進出への危機意識を背景に[[禊教]]、[[淘宮術]]、[[俳諧]]などの諸教会を集結し組織した。
-
省斎の死後は、先細りした。明治中期には蓮門教事件で打撃を受ける。禊教の門人らが運営を支え、華族、神道学者が管長を歴任するも教勢は回復せず、第二次大戦で本部焼失した。
+
省斎の死後は、先細りした。明治中期には蓮門教事件で打撃を受ける。禊教の門人らが運営を支え、華族、神道学者が管長を歴任するも教勢は回復せず、第二次大戦で本部焼失した。現在は湯河原に天照山神社を創建した天善教会の門人が運営を支えているようだ。
==一覧==
==一覧==

2017年6月13日 (火) 時点における版

大成教(たいせいきょう)は、元幕臣平山省斎(1815-1890)が設立した、東京都渋谷区に本部を置く神道系教団教派神道の一つ。

目次

歴史

幕末に幕府の重臣として外交交渉に当たった平山省斎が明治前期に設立。キリスト教の国内進出への危機意識を背景に禊教淘宮術俳諧などの諸教会を集結し組織した。 省斎の死後は、先細りした。明治中期には蓮門教事件で打撃を受ける。禊教の門人らが運営を支え、華族、神道学者が管長を歴任するも教勢は回復せず、第二次大戦で本部焼失した。現在は湯河原に天照山神社を創建した天善教会の門人が運営を支えているようだ。

一覧

組織

執行部

管長、総監、教務局長、礼典局長、会計局長が置かれ、管長が法人の代表役員、他の4人が責任役員を務めている(平成14年現在)。他に監査委員2人を設置。

歴代管長

神道大成教の歴代管長
歴代 名前 生没年 在職年 略歴
1 平山省斎 1815-1890 1882-1890 幕臣出身の神職・神道家。外国奉行。名は敬忠。日枝神社宮司、氷川神社大宮司を歴任。御嶽教初代管長を兼任。文化12年2月19日生。陸奥国三春藩出身。藩士黒岡活円斎の子。江戸に出て、桑原北林、安積艮斎に師事。1850年(嘉永3年)小普請の平山源太郎の養子となる。1855年(安政2年)岩瀬忠震に同行して長崎へ。外交に奔走し、江戸と京都を往復すること14回。維新の時には徳川慶喜の側近として随従。1868年(明治1年)1月、若年寄を仰せ付けられるが辞職する。1872年(明治5年)、稲葉正邦の勧めで神官教導職となり官社の宮司として氷川神社の改築や日枝神社の昇格に尽力した。1872年(明治5年)9月25日権少教正。翌年2月22日権中教正。3月4日、氷川神社大宮司。11月4日中教正。翌年4月4日、依願免官し教導職に専任。8月19日、権大教正。1875年(明治8年)3月22日、日枝神社祠官。1876年(明治9年)4月22日、氷川神社大宮司に再任し、5月10日に日枝神社祠官を兼任。1877年(明治10年)3月、神道事務局から禊教総管に任じられ、禊教社(坂田派(「禊教」)と東宮派(「大成教禊教」))を管轄する。同年12月8日に制度改正で免官となり12日に氷川神社宮司となる。1879年(明治12年)5月10日、大教正。9月、大成教会を設立。本荘宗秀、小笠原長行、板倉勝静(松叟)、大給恒らと懇意で、特に板倉は親しく大成教の創立員となっている。神官教導職分離を受け、1882年(明治15年)1月23日、依願免官。5月、大成教特立許可を得て管長となる。1884年(明治17年)8月9日、改めて神道総裁から大成教管長に任命される。各地で巡教し、鍛冶橋監獄(東京監獄、市ケ谷刑務所)や宇都宮監獄での説教(教誨)も行った。1875年(明治8年)、外務省から幕末外交史の執筆依頼を受けるが、果たさず。1890年(明治23年)5月22日死去。神宮祭主久邇宮朝彦親王から「素山彦弘道命」の神号を下賜された(波多越与一、1933年(昭和8年)『大日本神社志附録編』大日本敬神会本部)。妻は桑原北林の次女・千代子。養子には、日本赤十字社の設立に尽力した男爵平山成信(1854-1929、叔父竹村久成の子)や静岡新聞編集長などを務めた自由民権家の平山陳平(1839-1889)がおり、弟子には桑原芳樹(伊勢神宮少宮司)がいる。桑原家は、省斎が千代子のと結婚する時に家督相続を断った関係で、家の再興を約していた。省斎は廉甫(高橋六郎)という人物に継がせ、さらに弟子の桑原芳樹を婿入りさせた。日記は外交史料「敬忠日記」(東京大学史料編纂所蔵1[1]~6[2])として知られる。著書として『本教真訣』[3][4][5][6][7](『同略解』[8])、『修道真法』[9][10]、『俳教真訣』[11][12](『同略解』[13][14])、『省斎遺稿』[15]、『神皇系統』[16]などがある。「平山省斎印譜」[17]。関連文献として『省斎年譜草案』[18][19]、「平山敬忠贈位内申書」[20][21]、『教派神道の形成』、『平山省斎と明治の神道』。墓所谷中霊園にある。
2 磯部最信 1821-1898 1890-1894 田安家家臣出身の神道家。歌人。相川県権参事。度津神社宮司。明治初年、佐渡の相川県に赴任し、参事(知事に当たる)の鈴木重嶺を補佐。度津神社宮司を務め、相川県中教院の開設に尽力した。東京に戻り、平山省斎の大成教会設立に協力。副管長となった。1890年(明治23年)6月13日、管長に就任した(『平山省斎と明治の神道』)。1894年(明治27年)、『万朝報』が大成教傘下の蓮門教会を批難する記事を連載し、対応に追われる。一度、蓮門教祖島村みつを解任したが、騒動が落ち着いた頃、復職を認めた結果、その責任を問われ、文部省より11月16日、管長を解職される(『蓮門教衰亡史』)。著書は、『神道唱歌』[22]、『佐渡名所歌集』[23]、『安心立命訣』、『祝詞集』、『含翠庭雑録』など。墓所不明。
(事務取扱) (東宮千別) 1833-1897 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。下野の亀岡八幡宮(栃木県芳賀郡益子町)神職。常陸国宍戸藩士の孫として宍戸町で生まれる。日光山で学び、1854年(安政1年)、亀岡八幡宮社家の東宮家の養子となる。1856年(安政3年)、井上正鉄の法流を受け継ぐ但唱が住職をしていた江戸木下川の浄光寺で村越守一(1813-1880)に出会い、禊教に入門。禁教下で極秘裏に布教を始める。1858年(安政5年)養父が亡くなり、神主を継ぐ。1862年(文久2年)に門下が大きな弾圧を受けたため、門人たちを故郷に匿う。1869年(明治2年)2月、東京で布教開始。1872年(明治5年)4月に教導職の制度ができると、5月3日、門下の代表者として公認を政府に出願。同月11日から教部省が府内の各神社で説教会を開くと、門人らも神田神社で説教した。8月22日、吐菩加美講の許可を受け、禊教として初の政府公認の教団組織を設立。教導職訓導となった。しかし、門下全体を完全にまとめることができず、坂田派(現在の「禊教」と「神道禊教」)が分立する結果となった。1878年(明治11年)から翌年にかけて、三宅島井上正鉄の墓を東京に改葬したが、門人の間でまとまらず、東宮派は谷中霊園に巨大な墓碑を建立する一方、坂田派は上野に井上神社を創建し分裂が決定的になった。その他の禊教は1879年(明治12年)11月、大成教会に所属した。1881年(明治14年)、亀岡八幡宮の本殿を再建。東宮本院を開くと共に、大成教に所属した禊教の重鎮として門下の統合に尽力するが、困難を極めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では12月18日からとする)。1896年(明治29年)8月には自派の教会の独立を試みるが果たせず、1897年(明治30年)7月2日死去。(『神道大成教 禊教会本院百五十年小史』)
(事務取扱) (村越鉄善) 1825-1908 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。井上正鉄の直弟子の村越正久の次男。村越守一と坂田正安兄弟の甥。村越守一に師事。1858年(安政5年)、産霊の伝を受ける。兄の鉄久の養子となり、村越本家を継ぐ。維新後は木下川村の白鬚神社や氷川神社の神職を務めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では12月18日からとする)。1908年(明治41年)12月9日死去。子は彫金家で文展審査員の村越道守(1901-1943)。
3 中山信徴 1846-1917 1895-? 2万5000石を領した水戸藩附家老・中山家14代当主。松岡(手綱)藩主。日光東照宮9代宮司。氷川神社大宮司。丹治氏。弘化3年4月10日生まれ。兄信宝の養子。1861年(文久1年)松岡城主となり、1868年(明治1年)1月24日に領地が藩に格上げされ、大名となる。1873年(明治6年)隠居。1874年(明治7年)4月、氷川神社大宮司兼権少教正。1895年(明治28年)11月25日、管長に就任するが(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では11月15日からとする)、同年12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。1896年(明治29年)12月26日、日光東照宮宮司に就任。大正6年1月29日死去。子に嗣子の男爵中山信実、子爵青木信光(1869-1949)など。墓所は、松岡城近くにある。
4 永井直哉 1850-1912 1897-1912 大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代。子爵。井上正滝の五男。嘉永3年9月4日生まれ。明治2年6月、櫛羅藩知事。明治17年7月、子爵。明治30年2月24日、管長就任(『官報』)。明治45年、在職中に死去(『平山省斎と明治の神道』には明治45年1月11日辞任とある)。大日本普通学講習会という団体の会長となり『小学校教員講習全書』に「国民道徳要義」、『国民必読高等学習自修全書』に「修身講義」を口述で寄せている。
(事務取扱) (笹田黙介) 1846-1925 (1912-1916) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日管長就任(『平山省斎と明治の神道』)。
(事務取扱) (井上信鉄) ?-1933 (1912-1916) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。
5 笹田黙介 1846-1925 1916-1924 初代埼玉県警部長。山口藩士。1846年(弘化3年)7月20日生まれ。埼玉県の設置当初、白根多助県令を補佐して県政の基礎を確立。明治4年、埼玉県に奉職。明治6年改正局長。翌年、埼玉県師範学校総長。その後、庶務兼勧業課長、勧業博物館館長、警察本署署長を歴任。1882年(明治15年)、県警部長に就任。少書記官。1884年(明治17年)、秩父事件の対応に手腕を発揮した。明治19年、書記官、第一部長。明治23年、熊本県書記官に転任。1908年(明治41年)頃には大成教に関係していたが、埼玉県奉職中に氷川神社大宮司を務めていた平山省斎と懇意になったようだ。1912年(大正1年)1月24日、井上信鉄と共に管長事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日管長となる(『平山省斎と明治の神道』。1922年(大正11年)、管長に就任とも?)。1924年(大正13年)10月23日辞任。1925年(大正14年)6月8日死去。著書に『神霊発顕』[24]、『青藜詩集』。墓所は、谷中霊園。
6 井上信鉄 ?-1933 1924-1933 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。大正13年10月24日、管長に就任認可(『官報』による。『平山省斎と明治の神道』では28日就任とある)。在職中の昭和8年2月3日、死去(『官報』)。
7 杉本鉄幸 1933-1934 亀卜家らしい。昭和8年3月18日管長就任認可(『官報』による。『平山省斎と明治の神道』では同年3月とのみある)。1934年(昭和9年)3月7日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。著書に『杉本亀卜宅相秘鈔 皇国古伝』[25]、『皇国古伝杉本亀卜神秘鈔』。
8 佐伯有義 1867-1945 1934-1935 近代を代表する神道学者。慶応3年10月24日生まれ。雄山神社神職の佐伯有久の子。明治20年、皇典講究所卒。気多神社宮司。掌典。六国史校訂材料取調掛。大喪使事務官、大礼使事務官を歴任。国学院大学講師、教授。1934年(昭和9年)3月20日、大成教管長就任認可(官報)。翌年8月12日、管長辞職(官報)(『平山省斎と明治の神道』には1936年(昭和11年)9月辞任とある)。昭和20年8月25日、疎開中に死去。著書は『大日本神祇史』など多数。(『神道辞典』『神道史大辞典』)
9 佐野常羽 1871-1956 1935-1946 1935年(昭和10年)8月12日、管長に就任(官報)(『平山省斎と明治の神道』には1936年(昭和11年)10月3日就任とある)。1946年(昭和21年)12月28日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。伯爵。佐野常民の子。海軍少将。ボーイスカウトの設立者。宗教制度調査会委員。
10 前橋庄三郎 ?-1948 1946-1948 禊教門人。禊神道教会(旧禊第六教院、現・唯一神道禊教)教長。著書に『禊の真理』。1946年(昭和21年)12月28日に管長に就任し、1948年(昭和23年)9月7日に死去(『平山省斎と明治の神道』)。弟子に唯一神道禊教教長で梅田神明宮宮司の関口鉄三郎(-2002)。墓所は、多磨墓地。(井上正鉄研究会会報)
11 赤塚新 1886-? 1948-1960 寿老教会(東京都台東区)の創設者。明治19年8月2日生まれ(1953『現代宗教界名簿』)。1948年(昭和23年)9月12日管長就任し、1960年(昭和35年)10月12日辞任(『平山省斎と明治の神道』。昭和13年とあるが、昭和23年の誤記とみなした)。
(事務取扱) (笹木福太郎) ?-1958 (1957-1958) 1957年(昭和32年)5月1日就任、1958年(昭和33年)4月27日死去(『平山省斎と明治の神道』)。
(事務取扱) (栃谷吉太郎) ?-1982 (1958-1960) (次項参照)
12 栃谷吉太郎 ?-1982 1960-1964 1958年(昭和33年)5月22日、事務取扱に就任、1960年(昭和35年)10月12日、管長に就任。1964年(昭和39年)2月25日退任。1966年(昭和41年)9月25日再任し、1982年(昭和57年)4月5日死去。(『平山省斎と明治の神道』)。
13 久保安太郎 ?-1966 1964-1966 1964年(昭和39年)6月12日就任、1966年(昭和41年)8月17日死去(『平山省斎と明治の神道』)。
14 栃谷吉太郎 再任 1966-1982 再任(前述の項目を参照)。
15 飯田金吾 ?-1998 1982-1998 神道天善教善団講社長の飯田源五郎の子。1930年(昭和5年)11月、父から百日布教と社殿建設地探索を命じられる。湯河原に適地を見つけ、天照山神社として1932年(昭和7年)に創建。1936年(昭和11年)3月10日に父が死去したため、2代教会長となる。1946年(昭和21年)5月、1982年(昭和57年)4月21日就任。1998年(平成10年)4月4日死去。著書に1981『天照山のお社』。(『平山省斎と明治の神道』)
16 飯田典親 1998- 1998年(平成10年)4月4日、飯田金吾死去により、管長代務に就任。10月25日、管長に就任。著書に2000『神道大成教 奥宮天照山神社 鎮座七〇年奉祝記念』。(『平山省斎と明治の神道』)

(鎌田東二 2002『平山省斎と明治の神道』)


http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E5%A4%A7%E6%88%90%E6%95%99」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール