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関東神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月17日 (水)

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[[ファイル:関東神宮・2神門1.jpg|thumb|500px|関東神宮神門]]
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'''関東神宮'''(かんとう・じんぐう)は、植民地関東州旅順市新市街町にあった神社。祭神は[[天照大神]][[明治天皇]][[大連]]近郊の旅順にあった。廃絶。植民地関東州の総鎮守。[[満洲国・関東州の神社]][[神宮号宣下神社]]
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|植民地関東州の総鎮守。
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|天照大神、明治天皇<br>(土岐昌訓論文)
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|(関東州旅順市新市街町)
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==概要==
 
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'''関東神宮'''(かんとう・じんぐう)は、植民地関東州[[大連]]近郊の旅順にあった、[[天照大神]]と[[明治天皇]]を祀る神社。廃絶。植民地関東州の総鎮守。
 
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==奉斎==
==奉斎==
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==由緒==
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*天照大神
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*明治天皇
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天照大神と明治天皇の組み合わせは[[朝鮮神宮]]と共通する。
==歴史==
==歴史==
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===前史===
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*1919年(大正8年)3月31日:鈴木三郎以下13人、関東都督府に「旅順神社」創立案を出願。祭神を「天照大神、[[大国主神]]、明治天皇」とする。鎮座地を大正公園とし、御旅所を旧市街地とする。当初は1915年頃から大正御大典記念事業として計画された。
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*同年:関東庁、官幣大社満洲神社の創立を計画。祭神を「天照皇大神、素鳴尊、大国主尊」とし、大正公園とする。
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*1926年(昭和1年):関東庁、官幣大社満洲神宮の創立を計画。施政20年記念事業として。祭神を「明治天皇」とし、鎮座地を大正公園とする。大蔵省に却下される。
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*1932年(昭和7年):市民有志(満洲神社奉建会)、満洲神社創立を計画。本宮、別宮、摂社を計画。祭神は本宮を「天照皇大神、八幡大神、明治天皇」とし、別宮を「大己貴命、少彦名命」とし、摂社を「白玉祠、乃木社」とする。鎮座地を大正公園とし、旧市街地に渡御所。「一応の計画」とあり、正式に提出されなかったか。
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*1938年(昭和13年)2月:米岡槻雄以下21人(満洲野宮奉建会)、「満洲野宮」創立を出願。本宮、摂社、別宮、分社とする。祭神は本宮が「天照皇大神、明治天皇」、摂社は「白玉社」、別宮は「八幡大神」、分社を「大己貴命、少彦名命」とする。
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===創立===
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[[file:関東神宮・0全景.jpg|thumb|500px|関東神宮全景]]
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*1936年(昭和11年)12月17日:在満大使から内閣。最初の計画案「関東神社創立計画要項」を提出。
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*1937年(昭和12年)5月11日:対満事務局から内務省に照会。計画案について。趣意書、官幣大社、関東神社、敷地29万坪、祭神は天照大神と明治天皇、本殿、幣殿、拝殿、宝物殿など、創立費は80万円で関東局特別会計と奉賛会からの予算による、昭和13年度から4カ年を事業年度とする、昭和12年度は調査と設計を行った、創立後の運営予算規模は年間4~5万円と想定。
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*1937年(昭和12年)12月10日:在満大使から内閣へ。計画案変更の通知。社名を関東神宮、敷地を17万坪、創立費を100万円、事業年度は13年度から5カ年とする。
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*1937年(昭和12年)12月28日:対満事務局から内務省へ。同様の計画案変更について。
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*1938年(昭和13年)2月3日:内務省から対満事務局に対し、祭神、社名、社格の照会について「適当と認め候」と回答。
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*1938年(昭和13年)4月20日:対満事務局から内閣。在満大使の請願を内務省の賛同を得たことを付言して送付。
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*1938年(昭和13年)5月11日:対満事務局から内閣。告示を6月1日とすることを請願。
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*1938年(昭和13年)5月24日:[[昭和天皇]]、裁可。
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*1938年(昭和13年)6月1日:'''関東神宮、創立。'''内閣告示第3号で旅順に関東神宮を創立し、社格を官幣大社に列し、祭神を天照大神と明治天皇とすることを昭和天皇が仰出したことを示す。これを受け、関東神宮造営事務局および造営委員会を設置。同日、内閣から宮内省に創立仰出を通知。
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*1938年(昭和13年)6月3日:内閣から宮内省。宮内省掌典部(ママ)の要請により5月24日の上奏書を参考のため回付。
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*1938年(昭和13年)6月18日:在満大使から内閣。地鎮祭を7月3日とすることを報告。
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*1938年(昭和13年)7月3日:午前10時半から'''地鎮祭'''。要職者参列。報告に式次第と参列者役職名の一覧あり。
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*1938年(昭和13年)7月6日:在満大使から内閣。地鎮祭の実施を報告。
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*1938年(昭和13年)10月29日:「関東神宮造営事務局及関東神宮造営委員会規程」を公布(関東局令第87号)(1940年9月17日改正)。同日、事務局技師に栗田秀次郎を任命(公文雑纂)。
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*1938年(昭和13年)11月8日:神宮造営のため関東局技手に鈴鹿正穂を任命(公文雑纂)。
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*1938年(昭和13年)11月9日:造営事務局の所在地は関東州庁とする(関東局告示第61号)。
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*1938年(昭和13年)11月3日:関東神宮奉賛会が設立された。
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*1940年(昭和15年)5月4日:本殿立柱上棟式
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*1941年(昭和16年)6月26日:外苑地鎮祭
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*1944年(昭和19年)4月12日:大東亜省から内閣へ。関東神宮職員について宮司1人、権宮司1人、禰宜1人、主典7人との案を示す。「朝鮮神宮職員令」(1935年増員)に沿ったもの。しかし関東州と朝鮮の人口比を考えると待遇が重過ぎ、事実上、関東神宮を朝鮮神宮の上位に置くことになってしまうとして却下。
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*1944年(昭和19年)4月15日:鎮座日が同年10月1日、例祭日が6月1日と決定(大東亜省告示第25号)。
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*1944年(昭和19年)4月18日:関東神宮の職員について閣議決定。法制局の意見も得た上で宮司1人、禰宜1人、主典6人と定められた。創立時の朝鮮神宮を模範としつつも、権宮司設置の熱烈な要望を受け、禰宜を原則判任官だが、奏任官にもなりうるとした。また朝鮮神宮では当初は主典5人だったが、6人とした。
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*1944年(昭和19年)8月31日:「関東神宮職員令」公布(勅令第539号)。在満洲大使の管轄で、宮司1人、禰宜1人、主典6人と定められた。
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*1944年(昭和19年)9月14日:関東神宮初代宮司に佐藤重三郎を任命。
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*1944年(昭和19年)10月1日:'''鎮座祭'''。
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===敗戦===
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*1945年(昭和20年)10月30日:外務省から内閣へ。関東神宮と[[南洋神社]]の廃止の上奏書を提出。
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*1945年(昭和20年)11月17日:昭和天皇、関東神宮と南洋神社の廃止を聴許。外務省告示第11号(22日付)で発表した([[樺太神社]]や[[朝鮮の神社]]や[[台湾の神社]]についても同17日廃止。22日付内務省告示第264号[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962164/1])。
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==境内==
==境内==
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廻廊が複雑に重なる構成は独特のものといえる。
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==組織==
==組織==
===宮司===
===宮司===
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*佐藤重三郎(1883-<>:群馬県出身。国学院大学卒。神宮禰宜。[[塩竈神社]]宮司。[[鹿児島神宮]]宮司。関東神宮宮司。
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*佐藤重三郎(1883-1952)<1944->:群馬県嬬恋村出身。1883年(明治16年)生。1906年(明治39年)、[[国学院大学]]卒。[[皇典講究所]]に奉職。1908年(明治41年)、群馬県の熊野神社などの社掌。[[神宮神部署]]長野支署長。1916年(大正5年)5月1日、神宮神部署主事。1922年(大正11年)3月30日、神宮神部署神部(任免裁可書[https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000003051701]。1928年(昭和3年)7月28日、[[伊勢神宮]]禰宜。[[鹿児島神宮]]宮司。[[志波彦神社]][[塩竈神社]]宮司。1930年(昭和5年)、[[志波彦神社塩竃神社神職養成所]]を創設し初代所長。塩竈在職中に[[宮城県護国神社]]社司を兼務か。1944年(昭和19年)9月14日、関東神宮初代宮司(任免裁可書[https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000003148691])。1948年(昭和23年)、国学院大学理事。1952年(昭和27年)死去。(『神道人名辞典』、「叙位裁可書」[https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000353370]ほか。未見「佐藤重三郎宮司の片鱗」)
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==資料==
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==古典籍==
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[[満洲国・関東州の神社#資料]]も参照
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===史料===
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==参考文献==
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*『公文類聚』「関東神宮ヲ創立セラル」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1728749][https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001767085]
-
*土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
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*「関東神宮創立の件」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1623706]。関東州の神社一覧も
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*「関東神宮ニ設置スル職員ニ関スル件」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1657387]
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*「関東神宮職員令」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1657442][https://www.digital.archives.go.jp/img/138045]
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*「官幣大社関東神宮及官幣大社南洋神社ヲ廃止ス」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1710941]
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*「関東神宮地鎮祭ニ関スル件」[https://www.digital.archives.go.jp/img/2452768]
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==脚注==
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*石川佐中1987『関東神宮-悲劇の三百二十二日』:石川佐中は関東神宮主典。
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<references/>
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*石川佐中「私の戦前・戦中・戦後」[https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/01/H_01_110_1.pdf]
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*1938「関東神宮の御創立」『満蒙』19-7[https://dl.ndl.go.jp/pid/3564768/1/6]
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*1944『関東神宮』関東神宮奉賛会
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===文献===
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*増田芳雄2004「旅順―軍港と学校の歴史」[http://id.nii.ac.jp/1538/00000496]
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[[category:中華人民共和国遼寧省]]

2023年5月17日 (水) 時点における最新版

関東神宮神門

関東神宮(かんとう・じんぐう)は、植民地関東州旅順市新市街町にあった神社。祭神は天照大神明治天皇大連近郊の旅順にあった。廃絶。植民地関東州の総鎮守。満洲国・関東州の神社神宮号宣下神社

目次

奉斎

  • 天照大神
  • 明治天皇

天照大神と明治天皇の組み合わせは朝鮮神宮と共通する。

歴史

前史

  • 1919年(大正8年)3月31日:鈴木三郎以下13人、関東都督府に「旅順神社」創立案を出願。祭神を「天照大神、大国主神、明治天皇」とする。鎮座地を大正公園とし、御旅所を旧市街地とする。当初は1915年頃から大正御大典記念事業として計画された。
  • 同年:関東庁、官幣大社満洲神社の創立を計画。祭神を「天照皇大神、素鳴尊、大国主尊」とし、大正公園とする。
  • 1926年(昭和1年):関東庁、官幣大社満洲神宮の創立を計画。施政20年記念事業として。祭神を「明治天皇」とし、鎮座地を大正公園とする。大蔵省に却下される。
  • 1932年(昭和7年):市民有志(満洲神社奉建会)、満洲神社創立を計画。本宮、別宮、摂社を計画。祭神は本宮を「天照皇大神、八幡大神、明治天皇」とし、別宮を「大己貴命、少彦名命」とし、摂社を「白玉祠、乃木社」とする。鎮座地を大正公園とし、旧市街地に渡御所。「一応の計画」とあり、正式に提出されなかったか。
  • 1938年(昭和13年)2月:米岡槻雄以下21人(満洲野宮奉建会)、「満洲野宮」創立を出願。本宮、摂社、別宮、分社とする。祭神は本宮が「天照皇大神、明治天皇」、摂社は「白玉社」、別宮は「八幡大神」、分社を「大己貴命、少彦名命」とする。

創立

関東神宮全景
  • 1936年(昭和11年)12月17日:在満大使から内閣。最初の計画案「関東神社創立計画要項」を提出。
  • 1937年(昭和12年)5月11日:対満事務局から内務省に照会。計画案について。趣意書、官幣大社、関東神社、敷地29万坪、祭神は天照大神と明治天皇、本殿、幣殿、拝殿、宝物殿など、創立費は80万円で関東局特別会計と奉賛会からの予算による、昭和13年度から4カ年を事業年度とする、昭和12年度は調査と設計を行った、創立後の運営予算規模は年間4~5万円と想定。
  • 1937年(昭和12年)12月10日:在満大使から内閣へ。計画案変更の通知。社名を関東神宮、敷地を17万坪、創立費を100万円、事業年度は13年度から5カ年とする。
  • 1937年(昭和12年)12月28日:対満事務局から内務省へ。同様の計画案変更について。
  • 1938年(昭和13年)2月3日:内務省から対満事務局に対し、祭神、社名、社格の照会について「適当と認め候」と回答。
  • 1938年(昭和13年)4月20日:対満事務局から内閣。在満大使の請願を内務省の賛同を得たことを付言して送付。
  • 1938年(昭和13年)5月11日:対満事務局から内閣。告示を6月1日とすることを請願。
  • 1938年(昭和13年)5月24日:昭和天皇、裁可。
  • 1938年(昭和13年)6月1日:関東神宮、創立。内閣告示第3号で旅順に関東神宮を創立し、社格を官幣大社に列し、祭神を天照大神と明治天皇とすることを昭和天皇が仰出したことを示す。これを受け、関東神宮造営事務局および造営委員会を設置。同日、内閣から宮内省に創立仰出を通知。
  • 1938年(昭和13年)6月3日:内閣から宮内省。宮内省掌典部(ママ)の要請により5月24日の上奏書を参考のため回付。
  • 1938年(昭和13年)6月18日:在満大使から内閣。地鎮祭を7月3日とすることを報告。
  • 1938年(昭和13年)7月3日:午前10時半から地鎮祭。要職者参列。報告に式次第と参列者役職名の一覧あり。
  • 1938年(昭和13年)7月6日:在満大使から内閣。地鎮祭の実施を報告。
  • 1938年(昭和13年)10月29日:「関東神宮造営事務局及関東神宮造営委員会規程」を公布(関東局令第87号)(1940年9月17日改正)。同日、事務局技師に栗田秀次郎を任命(公文雑纂)。
  • 1938年(昭和13年)11月8日:神宮造営のため関東局技手に鈴鹿正穂を任命(公文雑纂)。
  • 1938年(昭和13年)11月9日:造営事務局の所在地は関東州庁とする(関東局告示第61号)。
  • 1938年(昭和13年)11月3日:関東神宮奉賛会が設立された。
  • 1940年(昭和15年)5月4日:本殿立柱上棟式
  • 1941年(昭和16年)6月26日:外苑地鎮祭
  • 1944年(昭和19年)4月12日:大東亜省から内閣へ。関東神宮職員について宮司1人、権宮司1人、禰宜1人、主典7人との案を示す。「朝鮮神宮職員令」(1935年増員)に沿ったもの。しかし関東州と朝鮮の人口比を考えると待遇が重過ぎ、事実上、関東神宮を朝鮮神宮の上位に置くことになってしまうとして却下。
  • 1944年(昭和19年)4月15日:鎮座日が同年10月1日、例祭日が6月1日と決定(大東亜省告示第25号)。
  • 1944年(昭和19年)4月18日:関東神宮の職員について閣議決定。法制局の意見も得た上で宮司1人、禰宜1人、主典6人と定められた。創立時の朝鮮神宮を模範としつつも、権宮司設置の熱烈な要望を受け、禰宜を原則判任官だが、奏任官にもなりうるとした。また朝鮮神宮では当初は主典5人だったが、6人とした。
  • 1944年(昭和19年)8月31日:「関東神宮職員令」公布(勅令第539号)。在満洲大使の管轄で、宮司1人、禰宜1人、主典6人と定められた。
  • 1944年(昭和19年)9月14日:関東神宮初代宮司に佐藤重三郎を任命。
  • 1944年(昭和19年)10月1日:鎮座祭

敗戦

  • 1945年(昭和20年)10月30日:外務省から内閣へ。関東神宮と南洋神社の廃止の上奏書を提出。
  • 1945年(昭和20年)11月17日:昭和天皇、関東神宮と南洋神社の廃止を聴許。外務省告示第11号(22日付)で発表した(樺太神社朝鮮の神社台湾の神社についても同17日廃止。22日付内務省告示第264号[1])。

境内

関東神宮平面図

廻廊が複雑に重なる構成は独特のものといえる。

組織

宮司

  • 佐藤重三郎(1883-1952)<1944->:群馬県嬬恋村出身。1883年(明治16年)生。1906年(明治39年)、国学院大学卒。皇典講究所に奉職。1908年(明治41年)、群馬県の熊野神社などの社掌。神宮神部署長野支署長。1916年(大正5年)5月1日、神宮神部署主事。1922年(大正11年)3月30日、神宮神部署神部(任免裁可書[2]。1928年(昭和3年)7月28日、伊勢神宮禰宜。鹿児島神宮宮司。志波彦神社塩竈神社宮司。1930年(昭和5年)、志波彦神社塩竃神社神職養成所を創設し初代所長。塩竈在職中に宮城県護国神社社司を兼務か。1944年(昭和19年)9月14日、関東神宮初代宮司(任免裁可書[3])。1948年(昭和23年)、国学院大学理事。1952年(昭和27年)死去。(『神道人名辞典』、「叙位裁可書」[4]ほか。未見「佐藤重三郎宮司の片鱗」)

画像

資料

満洲国・関東州の神社#資料も参照

史料

  • 『公文類聚』「関東神宮ヲ創立セラル」[5][6]
  • 「関東神宮創立の件」[7]。関東州の神社一覧も
  • 「関東神宮ニ設置スル職員ニ関スル件」[8]
  • 「関東神宮職員令」[9][10]
  • 「官幣大社関東神宮及官幣大社南洋神社ヲ廃止ス」[11]
  • 「関東神宮地鎮祭ニ関スル件」[12]
  • 石川佐中1987『関東神宮-悲劇の三百二十二日』:石川佐中は関東神宮主典。
  • 石川佐中「私の戦前・戦中・戦後」[13]
  • 1938「関東神宮の御創立」『満蒙』19-7[14]
  • 1944『関東神宮』関東神宮奉賛会

文献

  • 増田芳雄2004「旅順―軍港と学校の歴史」[15]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

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