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願泉寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年9月12日 (土)
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- | '''願泉寺'''(がんせんじ)は大阪府貝塚市にある[[浄土真宗]] | + | '''願泉寺'''(がんせんじ)は大阪府貝塚市にある[[浄土真宗]]寺院。一時期、本願寺の親鸞御影が奉安された貝塚本願寺の旧跡で、[[御坊|貝塚御坊]]と呼ばれる。現在は[[浄土真宗本願寺派]]だが、戦前まで東西本願寺に両属だった。貝塚寺内町の中心寺院。[[本願寺遷座旧跡]]。[[輪王寺宮]]の[[院室]]「真教院」でもあった。山号は金凉山。(参考:同名寺院[[願泉寺_(同名)]]) |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | + | 『貝塚寺内基立書』によると[[行基]]が建てた草庵が起源。 | |
- | + | 応仁年間には[[蓮如]]が滞在したという。 | |
- | + | 1545年(天文14年)、長年、無住だった草庵に[[根来寺]]の右京坊という僧を迎えた。この僧が卜半斎了珍である。 | |
この地域は浄土真宗の信仰の強い地域であると同時に、政治的には根来寺の影響下にあった。そのような背景から根来寺の僧が招かれたと思われる。 | この地域は浄土真宗の信仰の強い地域であると同時に、政治的には根来寺の影響下にあった。そのような背景から根来寺の僧が招かれたと思われる。 | ||
- | + | 1550年(天文19年)に堂宇を再建し、本願寺証如から阿弥陀如来絵像を下付された。 | |
僧侶と門徒の信仰集団は自治的組織と町を形成し、寺内町となった。 | 僧侶と門徒の信仰集団は自治的組織と町を形成し、寺内町となった。 | ||
- | + | 1555年(弘治1年)には[[石山本願寺]]配下の寺内町として認められた。 | |
- | + | 1577年(天正5年)、本願寺を攻める[[織田信長]]軍に焼き討ちされ寺内町もろとも焼失。1580年(天正8年)、石山合戦が終結すると離散した住民が戻り、本堂を復興。これを板屋道場と呼んだ。 | |
- | + | 1582年(天正10年)、[[豊臣秀吉]]から寺内町としての自治権を認められた。 | |
- | + | 1583年(天正11年)7月4日、本願寺顕如は[[鷺森御坊]]から親鸞御影を貝塚に奉遷(『宇野主水日記』)。 | |
以後2年余りにわたり、本願寺として機能し、諸国から門徒らが集まり、寺内町は大きく発展した。 | 以後2年余りにわたり、本願寺として機能し、諸国から門徒らが集まり、寺内町は大きく発展した。 | ||
- | + | 1585年(天正13年)8月30日、親鸞御影は[[天満本願寺]]に移転した。この時、顕如は貝塚御坊に親鸞絵像を下付し、一家に准じる格式(准連枝)を与えた。 | |
- | + | 同年11月、[[水間寺]]の梵鐘を購入。 | |
- | + | 1598年(慶長3年)、本堂再建。1607年(慶長12年)4月、[[東本願寺]][[教如]]から聖徳太子絵像と七高僧絵像を、同年12月には[[西本願寺]]准如から親鸞絵像と「願泉寺」号を与えられた。 | |
+ | 1663年(寛文3年)、本堂再建。 | ||
+ | 1678年(延宝6年)、門を建立。 | ||
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+ | 1636年(寛永13年)、4世了周は江戸[[寛永寺]]で剃髪得度。寛永寺から真教院の号を与えられた。1668年(寛文8年)、さらに「金凉山」号も与えられた。 | ||
+ | 1709年(宝永6年)3月、[[輪王寺宮]]の永代の院室となった。 | ||
+ | 1793年(寛政5年)、子院の真行寺・正福寺・要眼寺が願泉寺を飛び越して西本願寺直末になることを謀ったが失敗。翌年、3カ寺は「願泉寺家来」であることが確認された。 | ||
+ | (日本歴史地名大系) | ||
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+ | ==境内== | ||
+ | *本堂:1663年(寛文3年)再建。堂内に仏前能舞台がある。本堂前に目隠塀がある。正面27.8m。奥行27m。 | ||
+ | *経蔵: | ||
+ | *鐘楼: | ||
+ | *太鼓堂: | ||
+ | *書院:貝塚寺内町の行政を司る政庁を兼ねた。卜半役所。和歌山藩主の参勤交代の宿所としても使われた。 | ||
+ | *卜半斎初代墓: | ||
==子院== | ==子院== | ||
- | * | + | 「寺僧」「五カ寺」と呼ばれた。 |
- | * | + | *真行寺:現在は浄土真宗本願寺派。1589年(天正17年)創建。廃絶か。 |
- | * | + | *正福寺:現在は浄土真宗本願寺派。1593年(文禄2年)創建。 |
- | * | + | *要眼寺:現在は浄土真宗本願寺派。1595年(文禄4年)創建。 |
- | * | + | *泉光寺:現在は真宗大谷派。1624年(寛永1年)創建。 |
+ | *満泉寺:現在は真宗大谷派。1647年(正保4年)創建。 | ||
==寺内町== | ==寺内町== | ||
- | * | + | *尊光寺:大阪府貝塚市中。[[京都・興正寺]]末だった。現在は浄土真宗本願寺派。[[真言宗]]寺院として[[高野山]]学頭の正了が麻生郷新井村に創建。1493年(明応2年)蓮如に帰依して改宗。1524年(大永4年)実如から本尊と寺号を与えられた。1588年(天正16年)、現在地に移転。明治初年まで麻生郷の道場を支配した。本堂は1723年(享保8年)の再建。山号は二位山。 |
- | * | + | *上善寺:大阪府貝塚市南町。[[浄土宗]]。1509年(永正6年)、燈誉良然が海塚村に創建。天正年間焼失。1613年(慶長18年)、現在地に移転。1709年(宝永6年)本堂再建。宗福寺から移された[[西国三十三所観音]]を祀る観音堂、烏啼地蔵を祀る地蔵堂がある。徳本名号塔がある。[[南朝]]武将の橋本正高の墓がある。山号は金渠山。 |
- | * | + | *妙泉寺:大阪府貝塚市近木。[[日蓮宗]]。1598年(慶長3年)に移転。1806年(文化3年)、本堂再建。[[本圀寺]]末だった。山号は法涌山。 |
- | * | + | *宗福寺:大阪府貝塚市中。[[天台宗]]。感田神社別当。廃絶。 |
- | * | + | *感田神社:大阪府貝塚市中。寺内町の鎮守。祭神は[[天照大神]]・[[素盞嗚尊]]・[[菅原道真]]。寺内町の環濠の面影を伝える堀が境内北側にある。神門も特徴的。郷社。感田瓦明神、感田瓦大明神。 |
+ | *[[卜半家墓地]]:大阪府貝塚市中。2世以降の墓所。正方形の基壇の上に、阿弥陀如来の梵字を刻んだ自然石の墓碑を置く。 | ||
+ | *海塚墓地:大阪府貝塚市海塚。共同墓地。1648年(慶安1年)の絵図には描かれている。寺内町に含まないが隣接。卜半斎初代の墓があった(願泉寺境内に移転)。隣接する浄土宗龍雲寺は南三昧庵とも呼ばれた。 | ||
==関連旧跡== | ==関連旧跡== | ||
*和歌山屋敷:和歌山県和歌山市卜半町。鷺森御坊参拝の時に滞在した屋敷。 | *和歌山屋敷:和歌山県和歌山市卜半町。鷺森御坊参拝の時に滞在した屋敷。 | ||
== 組織 == | == 組織 == | ||
- | + | 中興以来、卜半斎家(卜半家)が留守居として住職を世襲。幕末まで貝塚寺内町の「地頭」を称し、大名や旗本と同じく私領を認められた領主だった。岸和田藩領に囲まれていたが、その支配を受けず、堺奉行による幕府直轄にあった。 | |
- | + | 住職継承の際には江戸に下った。 | |
+ | その政庁は「卜半役所」と呼ばれ、名字帯刀の家老以下40人が勤務していた。 | ||
+ | 住職は門徒の葬儀には直接関わらず、「寺僧」と呼ばれた子院が担当した。 | ||
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- | * | + | ===歴代住職=== |
- | * | + | *1了珍()<>:京都出身。元は[[根来寺]]の僧侶。 |
- | * | + | *2了閑()<>: |
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+ | *6了友()<>:輪王寺宮の院室となる。 | ||
+ | *7了観()<>: | ||
+ | *8了覚()<>:浅紫衣。 | ||
+ | *9了恕()<>:室は西本願寺18世文如(1744-1799)の娘の旻姫。 | ||
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+ | *11了諦()<>:権僧正。紫衣。 | ||
+ | *12了達()<>:権大僧都。室は興正寺27世華園摂信(1808-1877)娘の充姫。 | ||
+ | *13了啓()<>:権大僧都。 | ||
+ | *14了文()<>: | ||
+ | *15陸夫()<>: | ||
+ | *卜半幸三 | ||
+ | *17卜半了顕()<>:本願寺名誉侍真。 | ||
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2020年9月12日 (土) 時点における最新版
願泉寺(がんせんじ)は大阪府貝塚市にある浄土真宗寺院。一時期、本願寺の親鸞御影が奉安された貝塚本願寺の旧跡で、貝塚御坊と呼ばれる。現在は浄土真宗本願寺派だが、戦前まで東西本願寺に両属だった。貝塚寺内町の中心寺院。本願寺遷座旧跡。輪王寺宮の院室「真教院」でもあった。山号は金凉山。(参考:同名寺院願泉寺_(同名))
目次 |
歴史
『貝塚寺内基立書』によると行基が建てた草庵が起源。 応仁年間には蓮如が滞在したという。
1545年(天文14年)、長年、無住だった草庵に根来寺の右京坊という僧を迎えた。この僧が卜半斎了珍である。 この地域は浄土真宗の信仰の強い地域であると同時に、政治的には根来寺の影響下にあった。そのような背景から根来寺の僧が招かれたと思われる。 1550年(天文19年)に堂宇を再建し、本願寺証如から阿弥陀如来絵像を下付された。 僧侶と門徒の信仰集団は自治的組織と町を形成し、寺内町となった。 1555年(弘治1年)には石山本願寺配下の寺内町として認められた。 1577年(天正5年)、本願寺を攻める織田信長軍に焼き討ちされ寺内町もろとも焼失。1580年(天正8年)、石山合戦が終結すると離散した住民が戻り、本堂を復興。これを板屋道場と呼んだ。 1582年(天正10年)、豊臣秀吉から寺内町としての自治権を認められた。 1583年(天正11年)7月4日、本願寺顕如は鷺森御坊から親鸞御影を貝塚に奉遷(『宇野主水日記』)。 以後2年余りにわたり、本願寺として機能し、諸国から門徒らが集まり、寺内町は大きく発展した。 1585年(天正13年)8月30日、親鸞御影は天満本願寺に移転した。この時、顕如は貝塚御坊に親鸞絵像を下付し、一家に准じる格式(准連枝)を与えた。 同年11月、水間寺の梵鐘を購入。
1598年(慶長3年)、本堂再建。1607年(慶長12年)4月、東本願寺教如から聖徳太子絵像と七高僧絵像を、同年12月には西本願寺准如から親鸞絵像と「願泉寺」号を与えられた。 1663年(寛文3年)、本堂再建。 1678年(延宝6年)、門を建立。
1636年(寛永13年)、4世了周は江戸寛永寺で剃髪得度。寛永寺から真教院の号を与えられた。1668年(寛文8年)、さらに「金凉山」号も与えられた。 1709年(宝永6年)3月、輪王寺宮の永代の院室となった。 1793年(寛政5年)、子院の真行寺・正福寺・要眼寺が願泉寺を飛び越して西本願寺直末になることを謀ったが失敗。翌年、3カ寺は「願泉寺家来」であることが確認された。 (日本歴史地名大系)
境内
- 本堂:1663年(寛文3年)再建。堂内に仏前能舞台がある。本堂前に目隠塀がある。正面27.8m。奥行27m。
- 経蔵:
- 鐘楼:
- 太鼓堂:
- 書院:貝塚寺内町の行政を司る政庁を兼ねた。卜半役所。和歌山藩主の参勤交代の宿所としても使われた。
- 卜半斎初代墓:
子院
「寺僧」「五カ寺」と呼ばれた。
- 真行寺:現在は浄土真宗本願寺派。1589年(天正17年)創建。廃絶か。
- 正福寺:現在は浄土真宗本願寺派。1593年(文禄2年)創建。
- 要眼寺:現在は浄土真宗本願寺派。1595年(文禄4年)創建。
- 泉光寺:現在は真宗大谷派。1624年(寛永1年)創建。
- 満泉寺:現在は真宗大谷派。1647年(正保4年)創建。
寺内町
- 尊光寺:大阪府貝塚市中。京都・興正寺末だった。現在は浄土真宗本願寺派。真言宗寺院として高野山学頭の正了が麻生郷新井村に創建。1493年(明応2年)蓮如に帰依して改宗。1524年(大永4年)実如から本尊と寺号を与えられた。1588年(天正16年)、現在地に移転。明治初年まで麻生郷の道場を支配した。本堂は1723年(享保8年)の再建。山号は二位山。
- 上善寺:大阪府貝塚市南町。浄土宗。1509年(永正6年)、燈誉良然が海塚村に創建。天正年間焼失。1613年(慶長18年)、現在地に移転。1709年(宝永6年)本堂再建。宗福寺から移された西国三十三所観音を祀る観音堂、烏啼地蔵を祀る地蔵堂がある。徳本名号塔がある。南朝武将の橋本正高の墓がある。山号は金渠山。
- 妙泉寺:大阪府貝塚市近木。日蓮宗。1598年(慶長3年)に移転。1806年(文化3年)、本堂再建。本圀寺末だった。山号は法涌山。
- 宗福寺:大阪府貝塚市中。天台宗。感田神社別当。廃絶。
- 感田神社:大阪府貝塚市中。寺内町の鎮守。祭神は天照大神・素盞嗚尊・菅原道真。寺内町の環濠の面影を伝える堀が境内北側にある。神門も特徴的。郷社。感田瓦明神、感田瓦大明神。
- 卜半家墓地:大阪府貝塚市中。2世以降の墓所。正方形の基壇の上に、阿弥陀如来の梵字を刻んだ自然石の墓碑を置く。
- 海塚墓地:大阪府貝塚市海塚。共同墓地。1648年(慶安1年)の絵図には描かれている。寺内町に含まないが隣接。卜半斎初代の墓があった(願泉寺境内に移転)。隣接する浄土宗龍雲寺は南三昧庵とも呼ばれた。
関連旧跡
- 和歌山屋敷:和歌山県和歌山市卜半町。鷺森御坊参拝の時に滞在した屋敷。
組織
中興以来、卜半斎家(卜半家)が留守居として住職を世襲。幕末まで貝塚寺内町の「地頭」を称し、大名や旗本と同じく私領を認められた領主だった。岸和田藩領に囲まれていたが、その支配を受けず、堺奉行による幕府直轄にあった。 住職継承の際には江戸に下った。 その政庁は「卜半役所」と呼ばれ、名字帯刀の家老以下40人が勤務していた。 住職は門徒の葬儀には直接関わらず、「寺僧」と呼ばれた子院が担当した。
歴代住職
- 1了珍()<>:京都出身。元は根来寺の僧侶。
- 2了閑()<>:
- 3了忍()<>:
- 4了周()<>:
- 5了匂()<>:
- 6了友()<>:輪王寺宮の院室となる。
- 7了観()<>:
- 8了覚()<>:浅紫衣。
- 9了恕()<>:室は西本願寺18世文如(1744-1799)の娘の旻姫。
- 10了真()<>:
- 11了諦()<>:権僧正。紫衣。
- 12了達()<>:権大僧都。室は興正寺27世華園摂信(1808-1877)娘の充姫。
- 13了啓()<>:権大僧都。
- 14了文()<>:
- 15陸夫()<>:
- 卜半幸三
- 17卜半了顕()<>:本願寺名誉侍真。