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談山神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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==概要==
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[[藤原鎌足]]を祀る神社。大織冠大明神、談山大明神、談山権現、多武峰大明神などと呼ばれた。江戸時代までは、妙楽寺と称し、神仏習合の宮寺(神祇を祀る神社を中心として、その祭祀のために僧侶・寺院が奉仕する複合施設)だった。
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'''談山神社'''(たんざん・じんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある、藤原氏祖[[藤原鎌足]]を祀る神社。中大兄皇子と大化の改新の密談を行った場所とされ、また鎌足の墓所とされる。'''大織冠大明神'''、'''談山大明神'''、'''談山権現'''、'''多武峰大明神'''などと呼ばれた。江戸時代までは、'''妙楽寺'''と称し、神仏習合の宮寺(神祇を祀る神社を中心として、その祭祀のために僧侶・寺院が奉仕する複合施設)だった。
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藤原鎌足は没後、摂津国の[[阿威山]]に葬られたが、長男の定慧が大和国多武峰に改葬し、鎌足の神像を祭ったのが起源とされる。国家の変事があれば、神像が破裂鳴動するとされ、たびたび朝廷を恐れさせた。延長4年、談山権現の号が授けられる。
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鎌足は没後、摂津[[阿威山]]に葬られたが、長男の'''定慧'''(じょうえ)が大和国多武峰に改葬し、鎌足神像を祭ったのが起源とされる。国家の変事があれば、神像が破裂鳴動するとされ、たびたび朝廷を恐れさせた。延長4年、'''談山権現'''の号が授けられる。天暦年間に天台座主実性が多武峰座主となり、以来[[延暦寺]]末となる。そのため、延暦寺と「南都北嶺」として対立していた[[興福寺]]とはたびたび抗争を繰り広げた。
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天暦年間に天台座主実性が多武峰座主となり、以来[[延暦寺]]末となる。そのため、延暦寺と「南都北嶺」として対立していた[[興福寺]]とはたびたび抗争を繰り広げた。
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郡山を領した豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の命により、天正16年(1588)郡山に遷座。翌々年に多武峰に戻ったが、郡山にも分社が設けられた。江戸時代には3000石を領した。
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領主'''豊臣秀長'''([[豊臣秀吉]]異父弟)の命により、天正16年(1588)大和郡山に遷座。翌々年に多武峰に戻ったが、郡山にも分社が設けられた。江戸時代には3000石を領した。
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明治初年、神仏分離により妙楽寺は廃絶となり、明治7年、別格官幣社となった。神仏習合の独特の建築が破却されることなく残されて、十三重塔などが現存する。
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明治初年、神仏分離により妙楽寺は廃絶となり、明治7年、別格官幣社となった。神仏習合の独特の建築が破却されることなく残されて、'''十三重塔'''などが現存する。
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神社を中心とした施設であったことは明白である。寺院であれば、仏尊を祀ることが中心になるが、鎌足の神像を祀ることが中心となってきた。談山大明神、談山権現などと呼ばれたことも、観音や阿弥陀といった仏尊でなく、鎌足の神霊への祭祀がアイデンティティとしてあったと言える。建築様式から見ても、現在の本殿は明らかに春日造の神社建築である。確かに組織としては多武峰座主を長官とする寺院であったと言える。しかし、神社神道の神祇である鎌足神霊への祭祀をなくして多武峰としてのアイデンティティはない。同様の事例は、日光東照宮や石清水八幡宮などでも見られる。
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神社を中心とした施設であったことは明白である。寺院であれば、仏尊を祀ることが中心になるが、鎌足の神像を祀ることが中心となってきた。談山大明神、談山権現などと呼ばれたことも、観音や阿弥陀といった仏尊でなく、鎌足の神霊への祭祀がアイデンティティとしてあったと言える。建築様式から見ても、現在の本殿は明らかに春日造の神社建築である。確かに組織としては多武峰座主を長官とする寺院であったと言える。しかし、神社神道の神祇である鎌足神霊への祭祀をなくして多武峰としてのアイデンティティはない。同様の事例は、[[日光東照宮]]や[[石清水八幡宮]]などでも見られる。

2015年2月28日 (土) 時点における版

談山神社
たんざん じんじゃ
概要 藤原氏の祖である藤原鎌足の霊廟。藤原鎌足の墓所。
奉斎 藤原鎌足朝臣
(土岐昌訓論文)
所在地 奈良県桜井市多武峰319
所在地(旧国郡) 大和国十市郡
所属(現在) 神社本庁
格式など 朱印地拝領神社別格官幣社別表神社
関連記事 中臣氏旧跡藤原氏旧跡藤原鎌足旧跡

目次

概要

談山神社(たんざん・じんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある、藤原氏祖藤原鎌足を祀る神社。中大兄皇子と大化の改新の密談を行った場所とされ、また鎌足の墓所とされる。大織冠大明神談山大明神談山権現多武峰大明神などと呼ばれた。江戸時代までは、妙楽寺と称し、神仏習合の宮寺(神祇を祀る神社を中心として、その祭祀のために僧侶・寺院が奉仕する複合施設)だった。

鎌足は没後、摂津阿威山に葬られたが、長男の定慧(じょうえ)が大和国多武峰に改葬し、鎌足神像を祭ったのが起源とされる。国家の変事があれば、神像が破裂鳴動するとされ、たびたび朝廷を恐れさせた。延長4年、談山権現の号が授けられる。天暦年間に天台座主実性が多武峰座主となり、以来延暦寺末となる。そのため、延暦寺と「南都北嶺」として対立していた興福寺とはたびたび抗争を繰り広げた。

領主豊臣秀長豊臣秀吉異父弟)の命により、天正16年(1588)大和郡山に遷座。翌々年に多武峰に戻ったが、郡山にも分社が設けられた。江戸時代には3000石を領した。

明治初年、神仏分離により妙楽寺は廃絶となり、明治7年、別格官幣社となった。神仏習合の独特の建築が破却されることなく残されて、十三重塔などが現存する。


神社を中心とした施設であったことは明白である。寺院であれば、仏尊を祀ることが中心になるが、鎌足の神像を祀ることが中心となってきた。談山大明神、談山権現などと呼ばれたことも、観音や阿弥陀といった仏尊でなく、鎌足の神霊への祭祀がアイデンティティとしてあったと言える。建築様式から見ても、現在の本殿は明らかに春日造の神社建築である。確かに組織としては多武峰座主を長官とする寺院であったと言える。しかし、神社神道の神祇である鎌足神霊への祭祀をなくして多武峰としてのアイデンティティはない。同様の事例は、日光東照宮石清水八幡宮などでも見られる。


歴史

境内

画像

参考文献

  • 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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