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北畠神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2020年3月14日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
北畠神社(きたばたけ・じんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気にある、南朝忠臣北畠顕能(あきよし)などを祀る霊社。江戸時代の創建とされ、1928年(昭和3年)、国家の英雄を顕彰する別格官幣社となった。顕能が築き、中世末まで伊勢北畠家の拠点だった霧山城の麓にあった館跡にある。同族を祀る神社で3社(当社、霊山神社、阿部野神社)も別格官幣社が認められたのは、北畠家が唯一である。ちなみに顕能の墓は室生寺などに伝承地がある。 別格官幣社。別表神社。南朝英雄奉斎神社。
目次 |
歴史
北畠顕能は北畠親房の子とされるが、経歴には不詳の点が多い。 一説に1335年(建武2年)、兄顕信らと共に伊勢に下り、1338年(延元3年/暦応1年)、南朝から伊勢国司に任命されたという。 南朝の京都侵攻で楠木正儀と共に活躍。八幡合戦でも奮戦した。
顕能は1342年(興国3年/康永1年)頃、吉野と伊勢を結ぶ多芸の地に居館を移し、背後の霧山に城を築いた。 1576年(天正4年)に織田信長軍に滅ぼされるまで、約240年にわたり北畠氏9代の拠点となった。
江戸時代、1692年(元禄5年)、旧臣末裔や村人が遺徳を偲んで居館跡に神社を創建。北畠八幡宮と称した。 1643年(寛永20年)、北畠氏末裔の鈴木家次の創建ともいう。 1881年(明治14年)、北畠神社と改称。1928年(昭和3年)、村社から別格官幣社に昇格した。 末社に多芸神社がある。 別当の真善院があったが、1898年(明治31年)廃絶。本尊馬頭観音は聖光寺に移された。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
境内
組織
宮司
- 大釜菰堂(1876-1959)<>:大原野神社宮司を経て北畠神社宮司。
- 片岡常男(1899-1960)<1932-1934>:1932年(昭和7年)北畠神社宮司。1934年(昭和9年)藤島神社宮司。
- 朝倉泰一郎()<-1947>:1947年(昭和22年)5月退任。
- 小谷幸男()<1947->:都々古別神社宮司を経て1947年(昭和22年)5月、北畠神社宮司に就任。
- 宮崎有祥(1908-)<1953->:石川県出身。1908年(明治41年)生。1931年(昭和6年)神宮皇学館本科卒。1932年(昭和7年)鉄砲洲稲荷神社社掌。1936年(昭和11年)久能山東照宮主典。1939年(昭和14年)伊勢神宮宮掌。1942年(昭和17年)田村神社主典。1944年(昭和19年)田村神社禰宜。1953年(昭和28年)北畠神社宮司。教誨師。1984年(昭和59年)金崎宮特命宮司。
- 宮崎至功(1948-)<>:三重県出身。宮崎有祥の子。1948年(昭和23年)生。1971年(昭和46年)皇学館大学卒。同年住吉大社神人。1973年(昭和48年)住吉大社権禰宜。1975年(昭和50年)北畠神社禰宜。1984年(昭和59年)北畠神社宮司代務者。
- 宮崎洋史()<>: