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北畠神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''北畠神社'''(きたばたけ・じんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気にある、南朝忠臣[[北畠顕能]](あきよし)などを祀る[[霊社]]。江戸時代の創建とされ、1928年(昭和3年)、国家の英雄を顕彰する別格官幣社となった。顕能が築き、中世末まで[[伊勢北畠家]]の拠点だった'''霧山城'''の麓にあった館跡にある。同族を祀る神社で3社(当社、[[霊山神社]]、[[阿部野神社]])も別格官幣社が認められたのは、北畠家が唯一である。ちなみに顕能の墓は[[室生寺]]などに伝承地がある。
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'''北畠神社'''(きたばたけ・じんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気(伊勢国一志郡)にある、南朝忠臣北畠顕能(?-1383)などを祀る[[霊社]]。江戸時代の創建とされ、1928年(昭和3年)、国家の英雄を顕彰する別格官幣社となった。顕能が築き、中世末まで伊勢[[北畠家]]の拠点だった'''霧山城'''の麓にあった館跡にある。同族を祀る神社で3社(当社、[[霊山神社]]、[[阿部野神社]])も別格官幣社が認められたのは、北畠家が唯一である。ちなみに顕能の墓は[[室生寺]]などに伝承地がある。
[[別格官幣社]]。[[別表神社]]。[[南朝英雄奉斎神社]]。
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==祭神==
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*主祭神:北畠顕能
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*配祀神:北畠親房・北畠顕家
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北畠顕能(あきよし)は北畠親房の子とされるが、経歴には不詳の点が多い。一説に1335年(建武2年)、兄顕信らと共に伊勢に下り、1338年(延元3年/暦応1年)、南朝から伊勢国司に任命されたという。南朝の京都侵攻で楠木正儀と共に活躍。八幡合戦でも奮戦した。顕能は1342年(興国3年/康永1年)頃、吉野と伊勢を結ぶ多芸の地に居館を移し、背後の霧山に城を築いた。1576年(天正4年)に[[織田信長]]軍に滅ぼされるまで、約240年にわたり北畠氏9代の拠点となった。
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1833年(天保4年)『勢陽五鈴遺響』に中央に北畠親房、南に北畠顕家、北に北畠顕能に祀るとし、俗説として八幡宮、天照大神、春日明神を挙げる。1881年(明治14年)の棟札にも北畠親房、北畠顕家、北畠顕能の名がみえる。1907年(明治40年)に周辺神社を合祀したが、1928年(昭和3年)別格官幣社昇格で主祭神1座となった。合祀神社の祭神は多芸神社として祀られたようだ。のち北畠親房・北畠顕家の2神に関しては配祀神として本社に戻されたようだ。
==歴史==
==歴史==
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北畠顕能は北畠親房の子とされるが、経歴には不詳の点が多い。
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江戸時代、1692年(元禄5年)3月、旧臣末裔や村人が遺徳を偲んで居館跡に神社を創建。'''北畠八幡宮'''と称した。同年銘の棟札が現存するという。1689年(元禄2年)2月銘の石灯籠も現存するという。1643年(寛永20年)、北畠氏末裔の鈴木家次が、北畠親房・北畠顕家・北畠顕能の3柱を祀って創建したという異説がある。同年の棟札や系図もあるが、幕末頃に作られたものとみられるという。信頼できる史料としては1765年(明和2年)の『勢陽雑記』に館跡に八幡宮があるという記述が最古。
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一説に1335年(建武2年)、兄顕信らと共に伊勢に下り、1338年(延元3年/暦応1年)、南朝から伊勢国司に任命されたという。
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南朝の京都侵攻で楠木正儀と共に活躍。八幡合戦でも奮戦した。
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顕能は1342年(興国3年/康永1年)頃、吉野と伊勢を結ぶ多芸の地に居館を移し、背後の霧山に城を築いた。
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1710年(宝永7年)秋、別当の真善院が社殿荒廃を嘆いて村民と図り社殿を再興。
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1576年(天正4年)に[[織田信長]]軍に滅ぼされるまで、約240年にわたり北畠氏9代の拠点となった。
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江戸時代、1692年(元禄5年)、旧臣末裔や村人が遺徳を偲んで居館跡に神社を創建。'''北畠八幡宮'''と称した。
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1798年(寛政10年)2月社殿再建、1825年(文政8年)2月に社殿再建。文政造営の本殿
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1643年(寛永20年)、北畠氏末裔の鈴木家次の創建ともいう。
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1833年(天保4年)6月、石垣を修復。
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1881年(明治14年)、北畠神社と改称。1928年(昭和3年)、村社から別格官幣社に昇格した。
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1854年(安政1年)11月、1871年(明治4年)12月に修復。
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1881年(明治14年)9月、屋根を葺き替え。
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1896年(明治29年)12月、修復
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1916年(大正5年)修復。拝殿、手水舎、宝庫、社務所などを造営した。
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1881年(明治14年)10月5日から11日まで臨時祭を実施。本居豊穎が祝詞を起草している(『評釈近世名家諄辞集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213837/189]。1月とあるが本文からすると10月か)。
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1881年(明治14年)11月、北畠神社と改称。
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1907年(明治40年)12月(1908年(明治41年)とも)、村社丹生神社など17社を合祀。
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1928年(昭和3年)10月、新しい社殿を造営。
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同年、村社から別格官幣社に昇格した。
末社に[[多芸神社]]がある。
末社に[[多芸神社]]がある。
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別当の真善院があったが、1898年(明治31年)廃絶。本尊馬頭観音は聖光寺に移された。
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別当の真善院は1898年(明治31年)廃絶。本尊馬頭観音は聖光寺に移された。
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伊勢国司講社は戦後の設立か。
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(国史大辞典、日本歴史地名大系)
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(『北畠顕能公』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024542/28]、『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』)
==境内==
==境内==
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*本社:1825年(文政8年)造営のものというが現在は不詳。
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*[[留魂社]]:北畠神社末社。祭神は北畠具行・北畠満雅・北畠具教と「北畠一族並に家臣、郎党、農民の戦没者」。創建年代は不明。
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*多芸神社:北畠神社末社。1907年(明治40年)(1908年(明治41年)とも)に合祀した周辺17社を1928年(昭和3年)の造営の時に本社を主祭神1座とするために別に社殿を建てて祀ったものとみられる。
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*禁中神社:多芸神社合祀の1社。祭神は後醍醐天皇・後村上天皇。元は北100mの地にあった。1764年(明和1年)の棟札に「禁中守護牛頭天王」とあるが、1847年(弘化4年)の棟札に「後醍醐天皇尊霊」とある。1833年(天保4年)『勢陽五鈴遺響』にも「後醍醐天皇・後村上天皇の御廟」とある。牛頭天王を祀る神社が幕末に両天皇を祀る神社に変化したとみられる。
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*[[真善院]]:別当。1898年(明治31年)廃絶。
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*雪姫大明神:近くにある小祠。北畠具教の娘で織田信雄(北畠具豊)の妻。北畠家が滅亡後、自害しようとしたが果たせず、白い狐に助け出されたという。のちに村民が稲荷と雪姫をあわせて祀ったという。
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==組織==
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===宮司===
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==資料==
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*「勧禄序」:1747年(延享4年)
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*「伊勢国司由来」:幕末頃の作。
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*「伊勢国司由来并神殿再造記」:幕末頃の作。
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[[category:三重県]]
[[category:三重県]]

2020年3月14日 (土) 時点における版

北畠神社

北畠神社(きたばたけ・じんじゃ)は、三重県津市美杉町上多気(伊勢国一志郡)にある、南朝忠臣北畠顕能(?-1383)などを祀る霊社。江戸時代の創建とされ、1928年(昭和3年)、国家の英雄を顕彰する別格官幣社となった。顕能が築き、中世末まで伊勢北畠家の拠点だった霧山城の麓にあった館跡にある。同族を祀る神社で3社(当社、霊山神社阿部野神社)も別格官幣社が認められたのは、北畠家が唯一である。ちなみに顕能の墓は室生寺などに伝承地がある。 別格官幣社別表神社南朝英雄奉斎神社

目次

祭神

  • 主祭神:北畠顕能
  • 配祀神:北畠親房・北畠顕家

北畠顕能(あきよし)は北畠親房の子とされるが、経歴には不詳の点が多い。一説に1335年(建武2年)、兄顕信らと共に伊勢に下り、1338年(延元3年/暦応1年)、南朝から伊勢国司に任命されたという。南朝の京都侵攻で楠木正儀と共に活躍。八幡合戦でも奮戦した。顕能は1342年(興国3年/康永1年)頃、吉野と伊勢を結ぶ多芸の地に居館を移し、背後の霧山に城を築いた。1576年(天正4年)に織田信長軍に滅ぼされるまで、約240年にわたり北畠氏9代の拠点となった。

1833年(天保4年)『勢陽五鈴遺響』に中央に北畠親房、南に北畠顕家、北に北畠顕能に祀るとし、俗説として八幡宮、天照大神、春日明神を挙げる。1881年(明治14年)の棟札にも北畠親房、北畠顕家、北畠顕能の名がみえる。1907年(明治40年)に周辺神社を合祀したが、1928年(昭和3年)別格官幣社昇格で主祭神1座となった。合祀神社の祭神は多芸神社として祀られたようだ。のち北畠親房・北畠顕家の2神に関しては配祀神として本社に戻されたようだ。

歴史

江戸時代、1692年(元禄5年)3月、旧臣末裔や村人が遺徳を偲んで居館跡に神社を創建。北畠八幡宮と称した。同年銘の棟札が現存するという。1689年(元禄2年)2月銘の石灯籠も現存するという。1643年(寛永20年)、北畠氏末裔の鈴木家次が、北畠親房・北畠顕家・北畠顕能の3柱を祀って創建したという異説がある。同年の棟札や系図もあるが、幕末頃に作られたものとみられるという。信頼できる史料としては1765年(明和2年)の『勢陽雑記』に館跡に八幡宮があるという記述が最古。

1710年(宝永7年)秋、別当の真善院が社殿荒廃を嘆いて村民と図り社殿を再興。

1798年(寛政10年)2月社殿再建、1825年(文政8年)2月に社殿再建。文政造営の本殿 1833年(天保4年)6月、石垣を修復。 1854年(安政1年)11月、1871年(明治4年)12月に修復。 1881年(明治14年)9月、屋根を葺き替え。 1896年(明治29年)12月、修復 1916年(大正5年)修復。拝殿、手水舎、宝庫、社務所などを造営した。

1881年(明治14年)10月5日から11日まで臨時祭を実施。本居豊穎が祝詞を起草している(『評釈近世名家諄辞集』[1]。1月とあるが本文からすると10月か)。

1881年(明治14年)11月、北畠神社と改称。 1907年(明治40年)12月(1908年(明治41年)とも)、村社丹生神社など17社を合祀。 1928年(昭和3年)10月、新しい社殿を造営。 同年、村社から別格官幣社に昇格した。 末社に多芸神社がある。 別当の真善院は1898年(明治31年)廃絶。本尊馬頭観音は聖光寺に移された。

伊勢国司講社は戦後の設立か。

(『北畠顕能公』[2]、『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』)

境内

  • 本社:1825年(文政8年)造営のものというが現在は不詳。
  • 留魂社:北畠神社末社。祭神は北畠具行・北畠満雅・北畠具教と「北畠一族並に家臣、郎党、農民の戦没者」。創建年代は不明。
  • 多芸神社:北畠神社末社。1907年(明治40年)(1908年(明治41年)とも)に合祀した周辺17社を1928年(昭和3年)の造営の時に本社を主祭神1座とするために別に社殿を建てて祀ったものとみられる。
  • 禁中神社:多芸神社合祀の1社。祭神は後醍醐天皇・後村上天皇。元は北100mの地にあった。1764年(明和1年)の棟札に「禁中守護牛頭天王」とあるが、1847年(弘化4年)の棟札に「後醍醐天皇尊霊」とある。1833年(天保4年)『勢陽五鈴遺響』にも「後醍醐天皇・後村上天皇の御廟」とある。牛頭天王を祀る神社が幕末に両天皇を祀る神社に変化したとみられる。
  • 真善院:別当。1898年(明治31年)廃絶。
  • 雪姫大明神:近くにある小祠。北畠具教の娘で織田信雄(北畠具豊)の妻。北畠家が滅亡後、自害しようとしたが果たせず、白い狐に助け出されたという。のちに村民が稲荷と雪姫をあわせて祀ったという。


組織

宮司

  • 大釜菰堂(1876-1959)<>:大原野神社宮司を経て北畠神社宮司。
  • 片岡常男(1899-1960)<1932-1934>:1932年(昭和7年)北畠神社宮司。1934年(昭和9年)藤島神社宮司。
  • 朝倉泰一郎()<-1947>:1947年(昭和22年)5月退任。
  • 小谷幸男()<1947->:都々古別神社宮司を経て1947年(昭和22年)5月、北畠神社宮司に就任。
  • 宮崎有祥(1908-)<1953->:石川県出身。1908年(明治41年)生。1931年(昭和6年)神宮皇学館本科卒。1932年(昭和7年)鉄砲洲稲荷神社社掌。1936年(昭和11年)久能山東照宮主典。1939年(昭和14年)伊勢神宮宮掌。1942年(昭和17年)田村神社主典。1944年(昭和19年)田村神社禰宜。1953年(昭和28年)北畠神社宮司。教誨師。1984年(昭和59年)金崎宮特命宮司。
  • 宮崎至功(1948-)<>:三重県出身。宮崎有祥の子。1948年(昭和23年)生。1971年(昭和46年)皇学館大学卒。同年住吉大社神人。1973年(昭和48年)住吉大社権禰宜。1975年(昭和50年)北畠神社禰宜。1984年(昭和59年)北畠神社宮司代務者。
  • 宮崎洋史()<>:

画像

資料

  • 「勧禄序」:1747年(延享4年)
  • 「伊勢国司由来」:幕末頃の作。
  • 「伊勢国司由来并神殿再造記」:幕末頃の作。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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