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四天王寺関連旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*光円寺:唯門山。真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。脇侍は聖徳太子。593年(推古1年)、聖徳太子が四天王寺を造営した時に建てた一宇の一つで「竹屋の道場」と称し、四天王寺の別院だった。のち真宗に転じた。1596年(慶長1年)1月中興。1756年(宝暦6年)再建。
*光円寺:唯門山。真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。脇侍は聖徳太子。593年(推古1年)、聖徳太子が四天王寺を造営した時に建てた一宇の一つで「竹屋の道場」と称し、四天王寺の別院だった。のち真宗に転じた。1596年(慶長1年)1月中興。1756年(宝暦6年)再建。
*真法院:雁生山。浄土真宗本願寺派。聖徳太子が創建。天台宗だった。1495年(明応4年)9月、蓮信が蓮如に帰依して真宗として中興。
*真法院:雁生山。浄土真宗本願寺派。聖徳太子が創建。天台宗だった。1495年(明応4年)9月、蓮信が蓮如に帰依して真宗として中興。
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*阿弥陀寺:願王山。融通念仏宗。聖徳太子の時代にあった阿弥陀堂が起源で来迎堂。
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*法山寺:真宗大谷派。荒陵山。四天王寺の末院だった。
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*唯専寺:真宗大谷派。四天王寺創建にあたり跡見赤檮が木津浦に住し、27世跡見重房の次男の資重が天台宗で出家して草庵を構えた。33世跡見光重が蓮如に帰依。1911年(明治44年)3月1日、別格由緒地。
==和宗寺院==
==和宗寺院==

2021年11月27日 (土) 時点における版

四天王寺の関連旧跡。

子院

  • 敬田院:伽藍中心部の区画
  • 悲田院:伽藍の東北に建立。ただしのちに場所が移ったのか、四天王寺の南に悲田院町の地名が残る。
  • 施薬院:伽藍の西北に建立。現在の勝鬘院という。
  • 療病院:伽藍の北に建てたという。
  • 聖霊院
  • 五智光院:本坊内にある。本尊は五智如来。灌頂堂。徳川家の位牌を祀ることから御霊舎とも。叡尊旧跡。『天王寺誌』には「大日如来」とあり、「今ハ将軍家代々位牌処也」とある。1177年(治承1年)後白河法皇が建て、灌頂を受けた。
  • 三昧院:『天王寺誌』には「南無仏ノ太子、五智如来、普賢菩薩、四天王」とある。廃絶。
  • 普門院:『天王寺誌』には「両大師像、不動明王、毘沙門天」とある。
  • 勝鬘院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。本尊は愛染明王。愛染堂と呼ばれる。聖徳太子が立てた施薬院が前身。聖徳太子が勝鬘経を説いた旧跡という。忍性が真言院として中興し真言律宗の時期もあった。真言密教勝鬘流を伝えた。多宝塔は大阪市内で現存最古の木造建造物。
  • 薬師院:大阪府大阪市天王寺区四天王寺。北西門の脇にあった。最澄の創建という。朱雀天皇御願寺。叡尊が復興して西大寺末の真言律宗となり、忍性の申請で関東祈祷所となる。叡尊弟子の観心房禅海が長老を務めていた。椎寺と呼ばれた。『天王寺誌』には「椎寺と云う」とあり、「薬師如来、日光、月光、十二神」とある。
  • 念仏三昧院:源頼朝が参拝。鳥羽天皇御願寺。金剛念仏三昧院か?


  • 本坊:庭園には一心大神(弁才天)を祀る。
  • 静心院:衆徒十二坊。
  • 明静院:衆徒十二坊。
  • 東光院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。大江神社別当。
  • 静専院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 中之院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 自性院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区大道。
  • 吉祥院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 玉照院:衆徒十二坊。
  • 千葉院:衆徒十二坊。
  • 修禅院:衆徒十二坊。
  • 一音院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 法幢院:衆徒十二坊。
  • 秋野坊:大阪府大阪市天王寺区伶人町。廃絶。妻帯。四天王寺執行職(公文所職)を世襲した。小野妹子の末裔という(慊堂日暦)。南北朝時代には存在していた。
  • 真光院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。四天王寺僧侶の菩提所。本尊は阿弥陀如来。脇侍に如意輪観音と地蔵菩薩を祀る。聖徳太子御影と釈迦牟尼如来御影も祀る。聖徳太子が用明天皇の冥福を祈りために7日間念仏三昧を行ったところ、阿弥陀如来が出現したので、自作の阿弥陀像を祀って創建したという。地蔵菩薩は六万体地蔵尊と呼ばれている。不動堂があり、不動明王、如意輪観音、地蔵菩薩を祀る。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とあり、四天王寺境内では葬儀をしてはならないと太子が定めたため寺外で行った。勝鬘院の東にある。寺号は瑞雲寺。山号は光徳山。
  • 三箇院:関東祈祷所
  • 舎那院:関東祈祷所
  • 清光院:大阪府大阪市天王寺区伶人町。新清水寺。有栖寺。在栖河寺。尼寺だった。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とある。1640年(寛永17年)、京都清水寺の延海から観音像を拝領して秋野坊が再興した。
  • 来迎寺:『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とある。清光院の北にあった。空海が西大門で日想観を行った時、武庫山から阿弥陀如来が出現したので一宇を建てて聖徳太子作の阿弥陀三尊像を安置し、来迎寺と名付けたという。
  • 清水院:
  • 万塔院:初名は小塔院。
  • 蓮華蔵院:聖徳太子伝を伝授して全国に広める拠点になっていたとみられる。
  • 地弥院:本尊が現存。芹田坊。阿弥陀如来と地蔵菩薩を祀る。太子伝を秘伝する坊だったという。
  • 施行院:大阪府大阪市天王寺区悲田院町。本尊は聖観音。593年(推古1年)創建。南北朝時代に兵火で焼失。豊臣氏が再興。1670年(寛文10年)2月、再建。
  • 仏足寺:真宗大谷派。595年(推古3年)創建。元は四天王寺別院。中興の性観が真宗に帰依。
  • 専宗寺:真宗大谷派。高台山。四天王寺別院だったが明応年間、専宗が真宗に帰依。
  • 地蔵院:大阪府大阪市天王寺区勝山。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とあり「来歴は真光院と同じ」という。西光山。本尊は聖観音。593年(推古1年)、聖徳太子が四天王寺を造営した時、創建したという。真光院と同じく四天王寺の一山僧侶と役人の葬儀はこの寺で行う。六万体の地蔵尊の中の随一の尊像を納めて、地蔵院と称した。1819年(文政2年)本堂再建。地蔵堂がある。
  • 奥之院:大阪府大阪市天王寺区堀越町。庚申堂境内。
  • 安居院:大阪府大阪市天王寺区逢坂。現在の安居神社の地にあったと伝える。安居殿もこの地にあったと考えられている。廃絶。
  • 三恵院:
  • 宝塔院:
  • 無礙院:
  • 奥の庵:山号は金龍山。本尊は阿弥陀如来。1786年(天明6年)5月、浄国寺存定が創建。現存不詳。(大阪府全志)


  • 一乗坊:
  • 杉本坊:
  • 中坊:
  • 奥坊:
  • 神坊:
  • 中少路:
  • 念仏院
  • 東二坊
  • 西一坊
  • 光坊
  • 恵日坊
  • 魚少路
  • 岡坊
  • 薬師坊
  • 山上坊
  • 竹ノ坊
  • 入江坊

一覧

  • 四天王寺大和別院:奈良県奈良市富雄元町。
  • 高安山霊園:奈良県生駒郡三郷町南畑。
  • 鎮守など
    • 今宮戎神社:大阪府大阪市浪速区恵美須西。『天王寺誌』には四天王寺の伽藍の一つとしてまた「天王寺之末社」と記載され、「蛭児像、素戔嗚尊、雨宝童子」とある。
    • 安居神社:大阪府大阪市天王寺区逢坂。別当は秋野坊だった。『天王寺誌』には四天王寺の伽藍の一つとして記載される。
    • 四天王寺願成就宮:大阪府大阪市天王寺区四天王寺。聖霊院内。物部守屋を祀る。
    • 五条宮:大阪府大阪市天王寺区真法院町。
    • 広田神社:大阪府大阪市浪速区日本橋西。『天王寺誌』には四天王寺の伽藍の一つとして記載される。
    • 一心大神:大阪府大阪市天王寺区四天王寺。本坊庭園内。弁財天を祭る。
  • 四天王寺七宮:四天王寺七宮と呼ばれるが出典は不詳。大阪府全志には天王寺七宮とある。
    • 大江神社:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。別当は東光院だった。
    • 上宮神社:大阪府大阪市天王寺区上之宮町。熊野九十九王子の一つの上野王子。大江神社に合祀。
    • 久保神社:大阪府大阪市天王寺区勝山。
    • 小儀神社:大阪府大阪市天王寺区勝山。大江神社に合祀。
    • 土塔神社:大阪府大阪市天王寺区大道。超願寺境内にあった。大江神社に合祀。青龍を鎮祭した土塔塚の前にあった。『天王寺誌』には「牛頭天王」とあり、かつて毎年4月15日に土塔会という盛大な祭礼を行っていたが今は寺領の外となったため大祭礼は絶えたと記す。
    • 河堀稲生神社:大阪府大阪市天王寺区大道。
    • 堀越神社:大阪府大阪市天王寺区茶臼山町。
  • 阿倍王子神社:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町。
  • 鵲森宮:大阪府大阪市中央区森之宮中央。589年、聖徳太子が創建。四天王寺旧地がこのあたりと伝える。祭神は用明天皇、穴穂部間人皇后、聖徳太子。森之宮神社。
  • 一心寺:大阪府大阪市天王寺区逢坂。浄土宗。1185年(文治1年)、法然が浄土教の聖地となっていた四天王寺西門前に四天王寺別当慈円の招聘で開いたと伝える。
  • 大坂・願泉寺:大阪府大阪市浪速区大国。小野妹子の子が開いたという。歴代住職は天王寺楽所の楽人。浄土真宗本願寺派
  • 大坂・超願寺:大阪府大阪市天王寺区大道。聖徳太子の創建。浄土真宗本願寺派。土塔御坊。竹本義太夫の墓がある。
  • 良運院:大阪府大阪市天王寺区下寺町。浄土宗。天王寺楽所の東儀家の墓地。
  • 飛田墓地大阪七墓の一つ。江戸時代の処刑場だった。子院歴代住職の墓地があった。現在は何の痕跡もない。
  • 藤原家隆墓:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。夕陽丘の地名の由来になったという家隆の夕陽庵があった。
  • 北畠顕家墓:大阪府大阪市阿倍野区王子町。『天王寺誌』に記載。
  • 天王寺七名水
    • 金龍:泰聖寺境内
    • 有栖:跡地不明
    • 増井:安居神社の北
    • 安井:安居神社境内
    • 玉手:一心寺西
    • 亀井:四天王寺境内
    • 逢坂:四天王寺境内
  • 百済寺:大阪府大阪市天王寺区堂ケ芝。堂ケ芝廃寺に比定。近くに百済尼寺もあった。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とあるが編纂時には既に断絶していた。百済寺は古代の時点で河内に移転したとされる。四天王寺六時礼讃堂の千手観音は百済寺旧本尊という。
  • 阿倍寺:大阪府大阪市阿倍野区松崎町。推定地碑がある。天下茶屋公園に塔礎石が移設されている。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とある。四天王寺六時礼讃堂の千手観音は阿倍寺旧本尊という。阿部寺。
  • 願成就院:東窪村にあった。寺中役人が大法会の前に晴天を祈願していたという。『天王寺誌』の時には既に断絶していた。
  • 多羅尼堂:安居神社の上にあった。『天王寺誌』の時には既に断絶していた。
  • 金龍寺:勝鬘院の北にあった。1612年(慶長17年)の検地で秋野坊の管轄下となる。
  • 円成院:大阪府大阪市天王寺区下寺町。時宗。一遍が四天王寺に参籠した時の庵の跡という。本尊は薬師如来。延享年間、遊行上人51世賦存が再建。
  • 西方寺:大阪府大阪市浪速区下寺。融通念仏宗。暁成山。本尊は阿弥陀如来。河内・六万寺の後身。730年(天平2年)河内国池島に行基が創建。天慶年間、焼失。1282年(弘安5年)再建して西方寺と改称。1347年(貞和3年)楠木正行の兵火で焼失。玉造に移転して再建。石山合戦の時、織田信長が西方寺慶阿弥に陣中の内目付を命じ、陣鐘・陣太鼓を与え、さらに摂津国・河内国の六斎念仏の取締を命じた。1615年(元和1年)焼失。1625年(寛永2年)難波村に移転。1868年(明治1年)焼失。1874年(明治7年)3月、現在地に移転。近隣から移した閻魔堂がある。
  • 観音寺:大阪市天王寺区逢坂。一心寺の東南にある。融通念仏宗。1126年(大治1年)良忍が勧進で集まった信徒が創建。1615年(元和1年)徳川家康の陣となる。1660年(万治3年)再建。
  • 邦福寺:大阪府大阪市天王寺区茶臼山町。黄檗宗。和気山。現在の統国寺。不思議山深妙院念仏寺。1709年(宝永6年)法源が入り、師の独湛を開山とした。
  • 荒陵山:茶臼山。『天王寺誌』に仁徳天皇が陵墓を築こうとしたがここは清浄の地であるとのお告げがあり、百舌鳥に変更したという。
  • 松井寺:高巌山。融通念仏宗。法明が四天王寺で融通念仏弘通の際に帰依した長忍が1345年(貞和1年)創建。春秋の彼岸には大念仏寺本尊が滞在して念仏会を行う。
  • 脈戒寺:多聞山。融通念仏宗。良忍が勅願念仏具通の時に地元の寄進で1128年(大治3年)2月に創建。筋違寺と称していたのを1701年(元禄14年)2月、大念仏寺大通の巡回の時に改称した。
  • 光円寺:唯門山。真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。脇侍は聖徳太子。593年(推古1年)、聖徳太子が四天王寺を造営した時に建てた一宇の一つで「竹屋の道場」と称し、四天王寺の別院だった。のち真宗に転じた。1596年(慶長1年)1月中興。1756年(宝暦6年)再建。
  • 真法院:雁生山。浄土真宗本願寺派。聖徳太子が創建。天台宗だった。1495年(明応4年)9月、蓮信が蓮如に帰依して真宗として中興。
  • 阿弥陀寺:願王山。融通念仏宗。聖徳太子の時代にあった阿弥陀堂が起源で来迎堂。
  • 法山寺:真宗大谷派。荒陵山。四天王寺の末院だった。
  • 唯専寺:真宗大谷派。四天王寺創建にあたり跡見赤檮が木津浦に住し、27世跡見重房の次男の資重が天台宗で出家して草庵を構えた。33世跡見光重が蓮如に帰依。1911年(明治44年)3月1日、別格由緒地。

和宗寺院

  • 国束寺:三重県度会郡度会町平生。和宗
  • 宝泉寺:大阪府大阪市中央区龍造寺町。和宗。小谷山。本尊は聖観音。600年(推古8年)、聖徳太子が創建。四天王寺の西門外にあり、引声堂・覚之坊と称した。太子自ら彫った観音を祀った。用明天皇追善のため七昼夜念仏を勤修。満夜の時、武庫山に阿弥陀が出現し、太子はこれを礼拝し、画像を描き、安置した。乳母月増姫が得度し、長蔵尼と称し、副乳母の日増姫は得度し、善信尼と称し、玉照姫が恵善尼と称し、念仏を行って。慶長の戦乱の後、覚如尼が寛永年間に復興。宝泉寺と称した。1758年(宝暦8年)11世性如尼が伽藍を修理するため、江戸飼葉町の薬師堂で出開帳したが、性如尼は江戸で没し、赤字に終わった。12世依住尼、1787年(天明7年)住職となることの許可を日光門主と本山から許可を得て復興を志す。第一の什宝の「山越の弥陀」を探すも見つからず、夢告を得て江戸本所感応寺にあると。無事に帰還して法灯復興する。1863年(文久3年)11月22日、新町焼の大火で焼失。孝建尼が1870年(明治3年)9月、仮本堂を建立。1885年(明治18年)再建。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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