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専照寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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天正10年(1582)、北庄城(福井城)下の堀小路(福井県西木田)に移転。
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承応3年(1654)8月、専照寺が専修寺跡地に如導の墓を建立した。
承応3年(1654)8月、専照寺が専修寺跡地に如導の墓を建立した。
元禄2年(1689)、開山を親鸞とするか、如導とするかで末寺が分裂。親鸞を開山と主張する末の[[専超寺]]や清水山の[[専伝寺]]が西本願寺末に転じた。
元禄2年(1689)、開山を親鸞とするか、如導とするかで末寺が分裂。親鸞を開山と主張する末の[[専超寺]]や清水山の[[専伝寺]]が西本願寺末に転じた。
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翌年、御影堂などを再建。
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天保8年(1837)の大火で伽藍焼失。翌年、御影堂などを再建。
===近現代===
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2017年10月28日 (土) 時点における版

専照寺(せんしょうじ)は、福井県福井市にある浄土真宗本山寺院大町門徒(三門徒)系統の真宗三門徒派の本山で、越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。大町・専修寺から分裂して創建され、開山は浄一。江戸時代は、院家の格式を持つ妙法院門跡の末寺だった。中野本山。 山号は中野山、鹿苑山。

目次

歴史

成立

如導が創建した大町専修寺では4世某(『日本仏教基礎講座』では名を浄光とする)の時代に有力末寺が離脱し、浄一という僧を擁立して建てたのが専照寺という。 2世以来、教義が浄土宗西山派に近づいたとされ、永享7年(1435)に本願寺から破門を宣告されたことが分立を引き起こしたと考えられている。

この時離脱した有力末寺とは帆山の誓願寺、河北(こぎた)の専光寺、社の専通寺で、同年、足羽郡蕗路里中野(福井市中野町)に移り専照寺を創建した。地名から中野門徒と呼ばれる。年代については『専照寺縁起』の応永3年(1396)説もある。浄一は帆山誓願寺道願の子という。了泉の三男ともいうが年代が合わないという(小泉説)。浄一は元は足利将軍家連枝の鞍谷御所に仕えており、分立に際して出家したため僧侶としての経歴は浅く、そのため有力末寺3寺が後見役となったという。 京都・毫摂寺の末寺となり、「真言宗田中善法寺」(石清水八幡宮善法寺のことか)の末寺になったともいう。

中世

永享9年(1437)11月、将軍足利義教の帰依を受け、寺領を得た。 戦国時代には朝倉氏に味方して、一向一揆と激しく対立した。

近世

天正10年(1582)、北庄城(福井城)下の堀小路(福井県西木田)に移転。 天正13年(1585)8月、正親町天皇の勅願所となる。以後、住職就任時に宮中参内が慣例になったという。

江戸時代には天台宗妙法院門跡院家となる。 承応3年(1654)8月、専照寺が専修寺跡地に如導の墓を建立した。 元禄2年(1689)、開山を親鸞とするか、如導とするかで末寺が分裂。親鸞を開山と主張する末の専超寺や清水山の専伝寺が西本願寺末に転じた。

享保9年(1724)、証如は境内狭隘を理由に現在地(新屋敷下町、福井市みのり)に移転。証如は伽藍を建て制度を整備した。 天保8年(1837)の大火で伽藍焼失。翌年、御影堂などを再建。

近現代

江戸時代は妙法院門跡の院家だったが、明治6年(1873)、真宗大谷派に所属(明治5年9月とも)。 明治11年(1878)12月、独立して真宗三門徒派を称した。教団名として「真宗三門徒派」を名乗るのは三門徒発祥の大町専修寺の正統に一番近いことへの誇りの現れだろうか。 昭和23年(1948)の大震災で御影堂を残して倒壊。昭和34年、阿弥陀堂を再建した。 昭和34年(1959)阿弥陀堂再建。


(日本仏教基礎講座、国史大辞典、日本歴史地名大系)

伽藍

  • 御影堂:本尊は親鸞。木像で胎内に親鸞自作の面と遺骨を収めるという。如導木像、歴代御影を祀る。天保9年の再建。大震災を免れた旧市内最古の建造物。
  • 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。木像で春日作という。「本堂」とされる。脇間には聖徳太子と法然の像を祀り、余間には六高祖の絵像を祀る。また正親町天皇と足利義教の位牌を祀る。
  • 如導墓:承応3年(1654)8月、専照寺が専修寺跡地に建立した。

組織

歴代住職

  • 1:如導(1253-1340)<>:大町門徒の祖。
  • 2:如浄(1306-1381)<>:如導の次男。1362年、浄土宗西山派の教えに「傾いた」ため、門徒から激しい非難を受けた。小泉論文は1375年死去とする。
  • 3:了泉(1317-1405)<>:如導の三男。『中野物語』にいう「良金」のことで「良金」は「良全」の誤りともいう。小泉論文は1404年死去とする。
  • 4:浄一(1364-1438)<>:了泉の子。専照寺の実質的な開山。
  • 5:源如(1412-1462)<>:
  • 6:如海(1421-1488)<>:
  • 7:空恵(1457-1515)<>:
  • 8:如空(1474-1554)<>:
  • 9:覚如(1527-1561)<>:
  • 10:善智(1504-1573)<>:
  • 11:善連(1548-1589)<>:正親町天皇から帰依を受けたという。
  • 12:善慶(1564-1612)<>:
  • 13:善住(1609-1637)<>:
  • 14:善空(1634-1667)<>:
  • 15:如善(1640-1679)<>:
  • 16:如閑(1646-1686)<>:
  • 17:証如(1678-1761)<>:
  • 18:広如(1702-1741)<>:
  • 19:(証如)()<>:再任。
  • 20:誉如(1736-1807)<>:
  • 21:賢如(1779-1819)<>:
  • 22:信如(1809-1826)<>:
  • 23:平聞如:歓喜光院(1811-1888)<>:
  • 24:平光如:無量寿院(1842-1874)<>:
  • 25:平宣如:無称光院。浄宣(1866-1897)<>:管長初代。
  • 26:円如(平光円):興教華院(1868-1934)<>:
  • 27:寿如(平光寿)(1903-)<>:
  • 28:平光顕()<>:

(望月『仏教大辞典 付録』など) 生没年は『日本仏教基礎講座』より 親鸞を1世、如導を2世とする数え方もある。

塔頭

  • 教覚寺
  • 菩提寺
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B0%82%E7%85%A7%E5%AF%BA」より作成

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