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小御門神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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2022年5月21日 (土) 時点における版

小御門神社
こみかど じんじゃ
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概要 南朝忠臣を奉斎する神社。
奉斎 藤原師賢
(土岐昌訓論文)
所在地 千葉県香取郡下総町名古屋898
所在地(旧国郡)
所属(現在) 神社本庁
格式など 別格官幣社別表神社
関連記事 南朝英雄奉斎神社


目次

概要

小御門神社(こみかど・じんじゃ)は、千葉県香取市にある元弘の乱で配流となった貴族藤原師賢(花山院師賢)を祀る霊社。別格官幣社。境内に師賢の墓がある。


歴史

  • 1332年5月:花山院師賢、下総国に配流。
  • 1332年10月:花山院師賢、死去。32歳。
  • 1333年頃:太政大臣追贈。文貞公。
  • 1722年頃:佐倉藩の磯辺昌言、『佐倉風土記』を記しこの塚を花山院師賢墓とする。
  • 1723年:稲葉家、佐倉藩から淀藩に転封になるが、墓所のある名小屋村は幕末まで稲葉領(淀藩領)のままとなる。
  • 1777年2月:淀藩主稲葉正弘、墓碑を修理。
  • 1848年1月:清宮秀堅、「下総国輿地全図」に墓を図示
  • 1854年9月:水戸藩主徳川斉昭稲葉家に墳墓の調査依頼
  • 1855年9月:清宮秀堅ら、水戸藩士藤田東湖に依頼し、徳川斉昭の揮毫を得て碑を建てようとするが、安政地震で東湖死去で頓挫。
  • 1856年9月:伊能穎則、『文貞公事蹟考』を記す[1]
  • 1861年:清宮秀堅、『文貞公墳墓考』を記す[2]
  • 1867年:淀藩主稲葉正邦、「贈太政大臣藤原文貞公墓」碑を建てる。地元の沢田総右衛門が尽力。沢田総右衛門は農民だったが窮民救済に功績があり、苗字帯刀許可を受け、国学を学ぶ。
  • 1869年:地元有志、墓所に鳥居
  • 1874年10月4日:新治県の許可を得て墓前祭典。祭主は権大教正稲葉正邦。権少教正香取保礼、権少教正鹿島則文ら100人以上が奉仕した。祝詞[3]
  • 1877年5月13日:沢田総右衛門ら、創建請願[4]
  • 1878年3月18日:大久保利通、千葉県に命じて記念碑建立。1880年8月竣工[5]
  • 1879年1月28日:創建許可。小御門神社と命名
  • 1880年1月:起工
  • 1880年6月:300円下賜
  • 1880年11月8日:大蔵卿佐野常民参拝
  • 1880年12月:稲葉正邦、祭田を献じる。祝詞[6]
  • 1881年4月:地鎮祭。5月石碑建立?
  • 1881年6月29日:明治天皇千葉県巡幸に際して勅使として侍従高辻修長が参向。幣帛
  • 1881年9月2日:立柱
  • 1882年1月4日:神璽として御剣寄附の御沙汰
  • 1882年2月:有栖川宮などから祭祀料
  • 1882年4月29日:鎮座。勅使として千葉県令船越衛参向。宮司に沢田総右衛門。
  • 1882年5月:記念碑建立[7]
  • 1882年6月:勅使として侍従堀川康隆が参向。幣帛料。
  • 1882年6月29日:別格官幣社列格。
  • 1882年10月5日:別格官幣社奉告祭。勅使として千葉県令船越衛参向。
  • 1883年1月13日:例祭日を4月29日とする
  • 1884年6月:中門と祝詞舎が竣工
  • 1885年7月:青山忠誠(旧篠山藩主家。祭神の末裔)、神田寄進
  • 1887年3月:石垣、透垣、敷石、鳥居など整備。4月幣殿竣工
  • 1900年3月31日:十二代神社を摂社とする
  • 1900年7月:仮殿建立。のち神輿殿として用いる。
  • 1900年9月16日:本殿屋根修復が完成し、仮殿より正遷座祭。
  • 1908年:拝殿など改修
  • 1911年5月22日:皇太子(大正天皇)千葉県行啓。甘露寺受長が代拝。
  • 。幣帛料供進。
  • 1915年:滑河駅から神社までの道路を整備

境内

  • 本社
  • 花山院師賢墓:公家塚
  • 十二代神社:正室を祀る。正室は花山院家貞の次女。神社の東600mの畑の中に正室の墓という比丘尼塚があり、神社を立てた。老松があった。現存不詳。
  • 居館跡

組織

宮司

  • 1沢田総右衛門(1838-)<1882-1908>:1838年(天保9年)生。墓所のある名小屋村(淀藩領)の名主。農民身分だったが、窮民救済に功績を上げ、苗字帯刀を許可される。本居宣長、平田篤胤の諸書を読む。淀藩による墓碑建立を担当した。明治初年、教導職となり、明治7年、旧藩主の権大教正稲葉正邦を招いて墓前で大祭典を斎行する。私財を投じて小御門神社の創建に奔走する。1882年(明治15年)7月25日、小御門神社宮司。1887年(明治20年)4月8日、制度改正で改めて小御門神社宮司。皇典講究所委員。千葉皇典講究分所監督。1908年(明治41年)4月9日退任。(叙位裁可書)
  • 2沢田総重(1874-1949)<1908-1934>:沢田総右衛門の孫。1874年(明治7年)生。1908年(明治41年)4月9日小御門神社宮司。1934年(昭和9年)11月7日香取神宮宮司。沢田総重郎。(略歴は香取神宮#組織を参照)
  • 篠原四郎(1898-?)<>:小御門神社宮司、生島足島神社宮司、北京神社宮司、大洗磯前神社宮司、酒列磯前神社宮司、熊野那智大社宮司を歴任。
  • 三井孝助()<1939->:御嶽教大阪教区庁講師、秩父神社禰宜を経て1939年(昭和14年)5月11日、小御門神社宮司。東京府祭務官を経て1943年(昭和18年)12月、気多神社宮司。(略歴は気多大社#組織を参照)
  • 遠北英雄(1903-2007)<1941-1943>:1941年(昭和16年)小御門神社宮司。1943年(昭和18年)井伊谷宮宮司。(略歴は井伊谷宮#組織を参照)
  • 河崎勝正()<>:穂高神社宮司。千葉県護国神社宮司。
  • 矢田部盛枝(1894-1961)<1945-1946>:(略歴は三島大社#組織を参照)

画像



資料

  • 『別格官幣社小御門神社誌』[8]
  • 沢田総右衛門1881『小御門神社御由来記』[9]
  • 1881『小御門神社献詠集』[10]
  • 1936『小御門叢書1文貞公歌集』[11]
  • 1936『小御門叢書2文貞公芳翰集』[12]
  • 1936『小御門叢書3文貞公真蹟並に詳伝』[13]

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E9%96%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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