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平城京
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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『続日本紀』養老4年(720)8月壬午条によると、平城京には48寺があったというが、実数なのかは不明。 | 『続日本紀』養老4年(720)8月壬午条によると、平城京には48寺があったというが、実数なのかは不明。 | ||
- | 官立の寺院である[[薬師寺]]と[[大安寺]]が平城京の中心部に置かれ、中臣氏、蘇我氏の私寺として始まった[[興福寺]]と[[元興寺]]は外京に置かれた。外京はこの2寺のために設置されたともいう。 | + | 官立の寺院である[[薬師寺]]と[[大安寺]]が平城京の中心部に置かれ、中臣氏、蘇我氏の私寺として始まった[[興福寺]]と[[元興寺]]は外京に置かれた。外京はこの2寺のために設置されたともいう。[[東大寺]]が外京に接するように創建され、[[西大寺]]が右京に置かれた。 |
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+ | 有力氏族の氏寺が多く、興福寺や元興寺のほか、[[土師氏]]の菅原寺([[喜光寺]])、佐伯氏の[[佐伯院]]、紀氏の[[紀寺]]、大伴氏の[[永隆寺]]などがあり、[[穂積寺]]も穂積氏の氏寺と言われる。 | ||
『続日本紀』には隅寺([[海龍王寺]])、紀寺、[[葛木寺]]、[[阿シュク寺]]が登場。『日本霊異記』には、[[殖槻寺]]、[[下毛野寺]]、[[穂積寺]]などが記載されている([[富尼寺]]、[[馬庭山寺]]は京外)。 | 『続日本紀』には隅寺([[海龍王寺]])、紀寺、[[葛木寺]]、[[阿シュク寺]]が登場。『日本霊異記』には、[[殖槻寺]]、[[下毛野寺]]、[[穂積寺]]などが記載されている([[富尼寺]]、[[馬庭山寺]]は京外)。 |
2015年1月19日 (月) 時点における版
平城京は大和国に置かれた日本の宮都。
『続日本紀』養老4年(720)8月壬午条によると、平城京には48寺があったというが、実数なのかは不明。
官立の寺院である薬師寺と大安寺が平城京の中心部に置かれ、中臣氏、蘇我氏の私寺として始まった興福寺と元興寺は外京に置かれた。外京はこの2寺のために設置されたともいう。東大寺が外京に接するように創建され、西大寺が右京に置かれた。
有力氏族の氏寺が多く、興福寺や元興寺のほか、土師氏の菅原寺(喜光寺)、佐伯氏の佐伯院、紀氏の紀寺、大伴氏の永隆寺などがあり、穂積寺も穂積氏の氏寺と言われる。
『続日本紀』には隅寺(海龍王寺)、紀寺、葛木寺、阿シュク寺が登場。『日本霊異記』には、殖槻寺、下毛野寺、穂積寺などが記載されている(富尼寺、馬庭山寺は京外)。
神社
その他、平安京と同じように宮中京中に様々な神々が祀られたと思われる。
寺院