ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
新知恩院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月4日 (木)
(版間での差分)
(間の2版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
[[ファイル:新知恩院_(1).JPG|thumb|400px|山門]] | [[ファイル:新知恩院_(1).JPG|thumb|400px|山門]] | ||
- | '''新知恩院'''(しん・ちおんいん)は、滋賀県大津市伊香立下在地町(近江国滋賀郡)にある[[浄土宗]] | + | '''新知恩院'''(しん・ちおんいん)は、滋賀県大津市伊香立下在地町(近江国滋賀郡)にある[[浄土宗]]寺院。本尊は[[法然]]。[[京都]][[知恩院]]が一時疎開して成立した寺院という。鎮守は[[伊香立・八所神社]]。寺号は華頂寺。山号は大谷山。[[知恩院関連旧跡]]、[[比叡山]]も参照。(参考:同名寺院[[知恩寺 (同名)]]) |
==歴史== | ==歴史== | ||
- | *1468年(応仁2年) | + | *1468年(応仁2年)8月:知恩院は応仁の乱の戦火で焼失。知恩院22世の周誉珠琳は、関係を結んでいた[[青蓮院]]の寺領だった近江国伊香立荘に御影像・宝物と共に避難。『新知恩院縁起』などでは焼失より先に1467年(応仁1年)に避難したとする。まず上在地の金蓮寺に入り、まもなく下在地に新たに一寺を建立した。これが新知恩院である。 |
*1477年(文明9年):周誉珠琳、戦火が収まると京都に帰り、知恩院復興の準備を始める。 | *1477年(文明9年):周誉珠琳、戦火が収まると京都に帰り、知恩院復興の準備を始める。 | ||
*1484年(文明16年)3月:御影像を修復 | *1484年(文明16年)3月:御影像を修復 | ||
*1488年(長享2年)8月:京都知恩院を復興。宝物類は新知恩院から京都に戻されたが、一部が新知恩院に残された。 | *1488年(長享2年)8月:京都知恩院を復興。宝物類は新知恩院から京都に戻されたが、一部が新知恩院に残された。 | ||
- | *1568年(永禄11年) | + | *1568年(永禄11年)9月:室町幕府と[[織田信長]]が新知恩院にそれぞれ禁制文書を発す。(織田信長の文書は東山知恩院宛の文書を新知恩院に書き換えた偽文書という説もある) |
*1569年(永禄12年)3月:織田信長、伊香立庄に朱印状。 | *1569年(永禄12年)3月:織田信長、伊香立庄に朱印状。 | ||
- | *1602年(慶長7年) | + | *1602年(慶長7年):この年の検地で[[徳川家康]]から20石寄進。 |
- | *1648年(慶安1年) | + | *1648年(慶安1年):[[徳川家光]]から朱印地50石寄進。新知恩院の法然忌に「忌料」として供えたものという。ただし10石は八所神社領。 |
*江戸時代:知恩院の直末の中本寺で、末寺11寺を擁した。湖西唯一の浄土宗の密集地域という。 | *江戸時代:知恩院の直末の中本寺で、末寺11寺を擁した。湖西唯一の浄土宗の密集地域という。 | ||
16行: | 16行: | ||
[[ファイル:新知恩院_(3).JPG|thumb|300px|本堂]] | [[ファイル:新知恩院_(3).JPG|thumb|300px|本堂]] | ||
[[ファイル:新知恩院_(2).JPG|thumb|300px|本堂の「華頂寺」額]] | [[ファイル:新知恩院_(2).JPG|thumb|300px|本堂の「華頂寺」額]] | ||
- | * | + | *本堂:本尊の法然像は14世紀前半の造立で、法然像としては数少ない古い例。法然の姿をそのまま写したとされ「鏡御影」と呼ばれる。周誉珠琳が知恩院から移したものという。かつては[[阿弥陀如来]]が本尊だった。本尊が変更された時期は不明。旧薬師堂の[[薬師如来]]を脇に祀る。また裏堂に旧普賢院の[[不動明王]]を祀る。 |
- | * | + | *薬師堂:本尊は薬師如来。薬師像は[[延暦寺根本中堂]]の薬師像と同作と伝える。廃絶。 |
- | * | + | *八所神社:滋賀県大津市伊香立下在地町。祭神は[[大己貴神]]・[[菊理姫神]]・[[菅原道真]]。伊香立の氏神であり新知恩院の鎮守でもあった。平群飛鳥真人という人物が、667年(天智6年)の[[大津宮]]遷都と共に伊香立の地を賜り、天大吉備諸進命を氏神として祀った。のち平群兼房が[[天照大神]]、[[伊邪那岐命]]、[[伊邪那美命]]、[[大山咋命]]、[[市杵島姫命]]、[[倉稲魂命]]、[[崇神天皇]]を合祀して八所大明神と称した。1571年(元亀2年)の織田信長の比叡山焼き討ちの時、[[日吉大社]]の神霊が一時避難奉遷したという。神宮寺の[[真言宗]]普賢院があった。 |
==子院== | ==子院== |
2024年1月4日 (木) 時点における最新版
新知恩院(しん・ちおんいん)は、滋賀県大津市伊香立下在地町(近江国滋賀郡)にある浄土宗寺院。本尊は法然。京都知恩院が一時疎開して成立した寺院という。鎮守は伊香立・八所神社。寺号は華頂寺。山号は大谷山。知恩院関連旧跡、比叡山も参照。(参考:同名寺院知恩寺 (同名))
目次 |
歴史
- 1468年(応仁2年)8月:知恩院は応仁の乱の戦火で焼失。知恩院22世の周誉珠琳は、関係を結んでいた青蓮院の寺領だった近江国伊香立荘に御影像・宝物と共に避難。『新知恩院縁起』などでは焼失より先に1467年(応仁1年)に避難したとする。まず上在地の金蓮寺に入り、まもなく下在地に新たに一寺を建立した。これが新知恩院である。
- 1477年(文明9年):周誉珠琳、戦火が収まると京都に帰り、知恩院復興の準備を始める。
- 1484年(文明16年)3月:御影像を修復
- 1488年(長享2年)8月:京都知恩院を復興。宝物類は新知恩院から京都に戻されたが、一部が新知恩院に残された。
- 1568年(永禄11年)9月:室町幕府と織田信長が新知恩院にそれぞれ禁制文書を発す。(織田信長の文書は東山知恩院宛の文書を新知恩院に書き換えた偽文書という説もある)
- 1569年(永禄12年)3月:織田信長、伊香立庄に朱印状。
- 1602年(慶長7年):この年の検地で徳川家康から20石寄進。
- 1648年(慶安1年):徳川家光から朱印地50石寄進。新知恩院の法然忌に「忌料」として供えたものという。ただし10石は八所神社領。
- 江戸時代:知恩院の直末の中本寺で、末寺11寺を擁した。湖西唯一の浄土宗の密集地域という。
伽藍
- 本堂:本尊の法然像は14世紀前半の造立で、法然像としては数少ない古い例。法然の姿をそのまま写したとされ「鏡御影」と呼ばれる。周誉珠琳が知恩院から移したものという。かつては阿弥陀如来が本尊だった。本尊が変更された時期は不明。旧薬師堂の薬師如来を脇に祀る。また裏堂に旧普賢院の不動明王を祀る。
- 薬師堂:本尊は薬師如来。薬師像は延暦寺根本中堂の薬師像と同作と伝える。廃絶。
- 八所神社:滋賀県大津市伊香立下在地町。祭神は大己貴神・菊理姫神・菅原道真。伊香立の氏神であり新知恩院の鎮守でもあった。平群飛鳥真人という人物が、667年(天智6年)の大津宮遷都と共に伊香立の地を賜り、天大吉備諸進命を氏神として祀った。のち平群兼房が天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、大山咋命、市杵島姫命、倉稲魂命、崇神天皇を合祀して八所大明神と称した。1571年(元亀2年)の織田信長の比叡山焼き討ちの時、日吉大社の神霊が一時避難奉遷したという。神宮寺の真言宗普賢院があった。
子院
- 養源院:
- 光雲院:
組織
住職
- 1周誉珠琳(1439-1511)<1468-1488?>:近世の木像が伝わる。
- 承誉(?-1550)<>:周蓮社。1550年(天文19年)3月29日死去。
- 賀誉(?-1560)<>:琳蓮社。1560年(永禄3年)8月5日死去。
- 仙誉(?-1556)<>:調蓮社。1556年(弘治2年)9月8日死去。
- 入誉見公(?-1598)<>:源蓮社。1598年(慶長3年)12月18日死去。
- 勝誉(?-1625)<>:広蓮社。1625年(寛永2年)4月6日死去。
- 10誓誉()<>:
- 16承誉()<>:稟蓮社。
- 新川典暁()<>:1902
- 前田信明()<>:1926
- 35片山了仙(1905-1974)<>:1938年(昭和13年)以前就任。
- 36真野孝信()<>:
資料
- 『新知恩院文書』
- 『新知恩院縁起』:知恩院50世の霊誉鸞宿著。1748年(寛延1年)。
- 『新知恩院什宝目録』:江戸時代後期。八所神社に伝来。
- 『近江輿地志略』