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普寛旧跡 - SHINDEN

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普寛旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月28日 (月)

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左:普寛の生家(現存せず)  右:普寛百年祭碑
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==概要==
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'''普寛'''(ふかん)(1731-1801)は、[[覚明]]とともに[[木曽御嶽山]]を開き、[[木曽御嶽信仰]]の開祖となった[[天台宗]][[修験]][[修験道の諸師旧跡|僧]]。木曽御嶽信仰独自の憑霊儀礼である'''御座'''(おざ)は普寛が[[不動明王]]から授けられたものとされる。武蔵秩父出身。'''普寛行者'''、'''普寛霊神'''。
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登山の前に。手頃なガイドブック
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信仰の世界へ。宗教人類学的研究
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==旧跡==
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|三峰山で日照のもとにいたころ、両神山の金剛院でも修行していたという伝承がある。金剛院ではのちの弟子の順明の祖父に師事したという。(『木曽御嶽信仰』164)
|三峰山で日照のもとにいたころ、両神山の金剛院でも修行していたという伝承がある。金剛院ではのちの弟子の順明の祖父に師事したという。(『木曽御嶽信仰』164)
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|八丁堀 法性院(廃絶)
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|八丁堀 [[法性院]](廃絶)
|(江戸八丁堀)
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|普寛が住した寺院。下記参照。
|普寛が住した寺院。下記参照。
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|1795年(寛政7年)7月2日に武尊山登頂。『武尊山開闢縁記』および『武尊山開闢記』が伝存している。(『修験と神道のあいだ』304)
|1795年(寛政7年)7月2日に武尊山登頂。『武尊山開闢縁記』および『武尊山開闢記』が伝存している。(『修験と神道のあいだ』304)
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|本庄 [[安養院]]
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|本庄 [[安養院 (埼玉県本庄市)|安養院]]
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|埼玉県本庄市中央3丁目3-6
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|埼玉県本庄市中央3-3-6
|1801年(享和1年)死去。安養院の文龍により葬儀が行われる。安養院に埋葬された。のち、普寛の墓域は普寛霊場として独立する。
|1801年(享和1年)死去。安養院の文龍により葬儀が行われる。安養院に埋葬された。のち、普寛の墓域は普寛霊場として独立する。
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|本庄 [[普寛霊場]]
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|本庄 [[本庄普寛霊場|普寛霊場]]
|埼玉県本庄市中央3-4
|埼玉県本庄市中央3-4
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|普寛の墓所四箇所の一つ。遺骨を砕いて、木像に黒漆で塗り固められた「御霊像」が、御堂にご神体として祀られている(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。「所求円満道場」の額がかかる。御堂は文久年間に計画され、1870年(明治3年)に全国の信者の寄進により、造営された(『木曽御嶽信仰』322)。阿夫利神社および若水公園に隣接する。4月10日と9月10日に大祭。大正年間に安養院門前から現在地に移転する(『普寛堂宝物拝見記』)。しかし、『御嶽教の歴史』には安養院および本庄町の支配にあったものを渡辺銀治郎管長が昭和11年に譲り受けて移築したという。さらに教会殿堂を建立して、大本庁直轄普寛大教会とした。その後、代々の管長が教会長となる。堂宇とは別に、普寛の墓塔がある。さらに泰賢、順明の墓塔や普寛百回忌塔がある。1925年(大正14年)10月に境内に稲荷社が創建されている。同じ頃に不動殿が創建されている。不動殿に関しては、普寛、泰賢、順明らの本地堂的意味合いがあったのではないかと推測されている。1853年(嘉永6年)まで建物がなく、1870年(明治3年)になって堂宇が建立されたという。(『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』、『普寛堂宝物拝見記』、『木曽御嶽信仰』)
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|普寛の墓所四箇所の一つ。遺骨を砕いて、木像に黒漆で塗り固められた「御霊像」が、御堂にご神体として祀られている。
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|花戸 [[花戸普寛堂|普寛堂]]
|花戸 [[花戸普寛堂|普寛堂]]
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|普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の生誕地。子孫の木村家が代々継承している。創建年代は不明。当初は普寛堂といった。1921年(大正10年)、東京永山教会の寄進により再建。一時期は御嶽教に関わっていたらしい。1944年(昭和19年)2月、火災により焼失。1966年(昭和41年)5月3日、普寛神社として再建。1975年(昭和50年)宗教法人となる。1988年(昭和63年)に神楽殿建設。埼玉県旧跡「普寛行者生地」に指定されている。(以上、「神楽殿建設記念碑」、墓碑より)
|普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の生誕地。子孫の木村家が代々継承している。創建年代は不明。当初は普寛堂といった。1921年(大正10年)、東京永山教会の寄進により再建。一時期は御嶽教に関わっていたらしい。1944年(昭和19年)2月、火災により焼失。1966年(昭和41年)5月3日、普寛神社として再建。1975年(昭和50年)宗教法人となる。1988年(昭和63年)に神楽殿建設。埼玉県旧跡「普寛行者生地」に指定されている。(以上、「神楽殿建設記念碑」、墓碑より)
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|八丁堀 法性院(廃絶)
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|八丁堀 [[法性院]](廃絶)
|(江戸八丁堀)
|(江戸八丁堀)
|普寛が住した寺院。本山派修験寺院。1766年(明和3年)、普寛は権大僧都となり、本明院と称して、法性院に住した。これは叔父の伯忍の跡を継いだものだという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の墓所四箇所の一つ。廃絶。御嶽山大教普寛大殿教会に遺骨が一部伝存しているという(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
|普寛が住した寺院。本山派修験寺院。1766年(明和3年)、普寛は権大僧都となり、本明院と称して、法性院に住した。これは叔父の伯忍の跡を継いだものだという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の墓所四箇所の一つ。廃絶。御嶽山大教普寛大殿教会に遺骨が一部伝存しているという(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
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|新宿 御嶽山大教普寛大殿教会
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|新宿 御嶽山大教[[普寛大殿教会]]
|東京都新宿区新宿5丁目2
|東京都新宿区新宿5丁目2
|普寛の墓所四箇所の一つ。法性院のものの一部が伝存している(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
|普寛の墓所四箇所の一つ。法性院のものの一部が伝存している(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
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|金剛院御嶽神社
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|両神山 [[金剛院御嶽神社]]
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|埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄6785
|普寛の分骨があるという。(椿真智子・城戸貴子 1991「秩父両神村における修験の展開と変質」104)
|普寛の分骨があるという。(椿真智子・城戸貴子 1991「秩父両神村における修験の展開と変質」104)
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|[[法称寺]]
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|武尊山 [[法称寺]]
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|群馬県利根郡片品村花咲
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|高崎 [[高崎普寛堂|普寛堂]]
|群馬県高崎市貝沢町322
|群馬県高崎市貝沢町322
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|高崎にある御嶽講。伝承によると、普寛の分骨を納めているという。五霊神社に接する。
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|高崎にある御嶽講の普寛堂。伝承によると、普寛の分骨を納めているという。五霊神社に接する。
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|王滝 普寛堂
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|王滝 [[王滝普寛堂|普寛堂]]
|長野県木曽郡王滝村
|長野県木曽郡王滝村
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|王滝にある普寛堂
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|王滝 講祖本社
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|長野県木曽郡王滝村
|長野県木曽郡王滝村
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|王滝にある御嶽行者を合祀した堂
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ファイル:Iharayama 02.jpg|意波羅山三社宮
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ファイル:Iharayama 03.jpg|意波羅山三社宮
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ファイル:ontake C008 講祖本社01.jpg|王滝 講祖本社 普寛の木像と銅像が祀られている
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ファイル:ontake C008 講祖本社02.jpg|王滝 講祖本社
ファイル:ontake C008 講祖本社04.jpg|王滝 講祖本社 普寛百年祭碑
ファイル:ontake C008 講祖本社04.jpg|王滝 講祖本社 普寛百年祭碑
ファイル:ontake C007 普寛堂01.jpg|王滝普寛堂
ファイル:ontake C007 普寛堂01.jpg|王滝普寛堂
ファイル:ontake C007 普寛堂02.jpg|王滝普寛堂
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ファイル:Ontake_C003_王滝御嶽神社_里宮12.jpg|王滝里宮にある普寛供養碑(最古の普寛の碑?)
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ファイル:ontake_fukan-jinja_006.jpg|普寛の生家(現存せず)
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[[category:人物旧跡]]

2018年5月28日 (月) 時点における最新版

普寛旧跡

Ontake fukan-jinja 006.jpg Ontake C008 講祖本社04.jpg
左:普寛の生家(現存せず)  右:普寛百年祭碑

概要

普寛(ふかん)(1731-1801)は、覚明とともに木曽御嶽山を開き、木曽御嶽信仰の開祖となった天台宗修験。木曽御嶽信仰独自の憑霊儀礼である御座(おざ)は普寛が不動明王から授けられたものとされる。武蔵秩父出身。普寛行者普寛霊神

登山の前に。手頃なガイドブック

信仰の世界へ。宗教人類学的研究

旧跡

名称 所在地 コメント
秩父 普寛神社 埼玉県秩父市大滝944 普寛の生誕地。生家跡。下記参照。
秩父 三峰山高雲寺観音院(三峰神社埼玉県秩父市三峰298-1 普寛が出家した寺院。江戸で酒井神楽頭家に仕えていた普寛(木村好八)は思うところがあって、1764年(明和1年)に三峰山高雲寺観音院(三峰神社)にて出家した。観音院は本山派二十七先達の一つ。普寛は日照に師事して、本山派修験者となった。
両神山 埼玉県秩父市、秩父郡小鹿野町 三峰山で日照のもとにいたころ、両神山の金剛院でも修行していたという伝承がある。金剛院ではのちの弟子の順明の祖父に師事したという。(『木曽御嶽信仰』164)
八丁堀 法性院(廃絶) (江戸八丁堀) 普寛が住した寺院。下記参照。
上野 三笠山 群馬県多野郡上野村 1790年(寛政2年)に普寛が三笠山を開いたという。(『木曽御嶽信仰』211)
秩父 意波羅山 埼玉県秩父市 1792年(寛政4年)2月、三社宮を創建。『普寛行者道中日誌』による。(『修験と神道のあいだ』263)。
木曽 御嶽山 長野県木曽郡木曽町・王滝村 1792年(寛政4年)6月8日に初登拝。6月10日に頂上に到達。翌1793年(寛政5年)6月13日に二回目の登拝。さらに翌1794年(寛政6年)6月1日に三回目の登拝。『普寛行者道中日誌』による。(『修験と神道のあいだ』24)
越後 八海山 新潟県南魚沼市 普明の『八海山開闢伝紀』によると、1794年(寛政6年)6月18日に登拝して屏風本社を祀ったとされる(鈴木昭英2004:31)。しかし、このとき普寛は木曽御嶽山に滞在していたはずなので、このまま史実だとはいえないようである。
上野 武尊山 群馬県利根郡みなかみ町、川場村、片品村 1795年(寛政7年)7月2日に武尊山登頂。『武尊山開闢縁記』および『武尊山開闢記』が伝存している。(『修験と神道のあいだ』304)
本庄 安養院 埼玉県本庄市中央3-3-6 1801年(享和1年)死去。安養院の文龍により葬儀が行われる。安養院に埋葬された。のち、普寛の墓域は普寛霊場として独立する。
本庄 普寛霊場 埼玉県本庄市中央3-4 普寛の墓所四箇所の一つ。遺骨を砕いて、木像に黒漆で塗り固められた「御霊像」が、御堂にご神体として祀られている。
花戸 普寛堂 長野県木曽郡王滝村 花戸 普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の死後、分骨が納められた。吉左衛門(麓講祖、吉神行者)が普寛堂を建立。子孫の小谷家が堂守を務めている(『御嶽の歴史』161)。50年忌の1848年(嘉永1年)6月、江戸高砂講によって、「開闢木食普寛行者」の碑が建立される(『三岳村誌 上巻』823)。広山、順明、泰賢が関わる。『御嶽の歴史』313
秩父 普寛神社 埼玉県秩父市大滝944 普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の生誕地。子孫の木村家が代々継承している。創建年代は不明。当初は普寛堂といった。1921年(大正10年)、東京永山教会の寄進により再建。一時期は御嶽教に関わっていたらしい。1944年(昭和19年)2月、火災により焼失。1966年(昭和41年)5月3日、普寛神社として再建。1975年(昭和50年)宗教法人となる。1988年(昭和63年)に神楽殿建設。埼玉県旧跡「普寛行者生地」に指定されている。(以上、「神楽殿建設記念碑」、墓碑より)
八丁堀 法性院(廃絶) (江戸八丁堀) 普寛が住した寺院。本山派修験寺院。1766年(明和3年)、普寛は権大僧都となり、本明院と称して、法性院に住した。これは叔父の伯忍の跡を継いだものだという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の墓所四箇所の一つ。廃絶。御嶽山大教普寛大殿教会に遺骨が一部伝存しているという(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
新宿 御嶽山大教普寛大殿教会 東京都新宿区新宿5丁目2 普寛の墓所四箇所の一つ。法性院のものの一部が伝存している(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
両神山 金剛院御嶽神社 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄6785 普寛の分骨があるという。(椿真智子・城戸貴子 1991「秩父両神村における修験の展開と変質」104)
武尊山 法称寺 群馬県利根郡片品村花咲 普寛分骨が伝存している。
高崎 普寛堂 群馬県高崎市貝沢町322 高崎にある御嶽講の普寛堂。伝承によると、普寛の分骨を納めているという。五霊神社に接する。
王滝 普寛堂 長野県木曽郡王滝村 王滝にある普寛堂
王滝 講祖本社 長野県木曽郡王滝村 王滝にある御嶽行者を合祀した堂
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%99%AE%E5%AF%9B%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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