名称
| 所在地
| コメント
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秩父 普寛神社
| 埼玉県秩父市大滝944
| 普寛の生誕地。生家跡。下記参照。
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秩父 三峰山高雲寺観音院(三峰神社)
| 埼玉県秩父市三峰298-1
| 普寛が出家した寺院。江戸で酒井神楽頭家に仕えていた普寛(木村好八)は思うところがあって、1764年(明和1年)に三峰山高雲寺観音院(三峰神社)にて出家した。観音院は本山派二十七先達の一つ。普寛は日照に師事して、本山派修験者となった。
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両神山
| 埼玉県秩父市、秩父郡小鹿野町
| 三峰山で日照のもとにいたころ、両神山の金剛院でも修行していたという伝承がある。金剛院ではのちの弟子の順明の祖父に師事したという。(『木曽御嶽信仰』164)
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八丁堀 法性院(廃絶)
| (江戸八丁堀)
| 普寛が住した寺院。下記参照。
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上野 三笠山
| 群馬県多野郡上野村
| 1790年(寛政2年)に普寛が三笠山を開いたという。(『木曽御嶽信仰』211)
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秩父 意波羅山
| 埼玉県秩父市
| 1792年(寛政4年)2月、三社宮を創建。『普寛行者道中日誌』による。(『修験と神道のあいだ』263)。
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木曽 御嶽山
| 長野県木曽郡木曽町・王滝村
| 1792年(寛政4年)6月8日に初登拝。6月10日に頂上に到達。翌1793年(寛政5年)6月13日に二回目の登拝。さらに翌1794年(寛政6年)6月1日に三回目の登拝。『普寛行者道中日誌』による。(『修験と神道のあいだ』24)
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越後 八海山
| 新潟県南魚沼市
| 普明の『八海山開闢伝紀』によると、1794年(寛政6年)6月18日に登拝して屏風本社を祀ったとされる(鈴木昭英2004:31)。しかし、このとき普寛は木曽御嶽山に滞在していたはずなので、このまま史実だとはいえないようである。
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上野 武尊山
| 群馬県利根郡みなかみ町、川場村、片品村
| 1795年(寛政7年)7月2日に武尊山登頂。『武尊山開闢縁記』および『武尊山開闢記』が伝存している。(『修験と神道のあいだ』304)
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本庄 安養院
| 埼玉県本庄市中央3-3-6
| 1801年(享和1年)死去。安養院の文龍により葬儀が行われる。安養院に埋葬された。のち、普寛の墓域は普寛霊場として独立する。
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本庄 普寛霊場
| 埼玉県本庄市中央3-4
| 普寛の墓所四箇所の一つ。遺骨を砕いて、木像に黒漆で塗り固められた「御霊像」が、御堂にご神体として祀られている。
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花戸 普寛堂
| 長野県木曽郡王滝村 花戸
| 普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の死後、分骨が納められた。吉左衛門(麓講祖、吉神行者)が普寛堂を建立。子孫の小谷家が堂守を務めている(『御嶽の歴史』161)。50年忌の1848年(嘉永1年)6月、江戸高砂講によって、「開闢木食普寛行者」の碑が建立される(『三岳村誌 上巻』823)。広山、順明、泰賢が関わる。『御嶽の歴史』313
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秩父 普寛神社
| 埼玉県秩父市大滝944
| 普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の生誕地。子孫の木村家が代々継承している。創建年代は不明。当初は普寛堂といった。1921年(大正10年)、東京永山教会の寄進により再建。一時期は御嶽教に関わっていたらしい。1944年(昭和19年)2月、火災により焼失。1966年(昭和41年)5月3日、普寛神社として再建。1975年(昭和50年)宗教法人となる。1988年(昭和63年)に神楽殿建設。埼玉県旧跡「普寛行者生地」に指定されている。(以上、「神楽殿建設記念碑」、墓碑より)
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八丁堀 法性院(廃絶)
| (江戸八丁堀)
| 普寛が住した寺院。本山派修験寺院。1766年(明和3年)、普寛は権大僧都となり、本明院と称して、法性院に住した。これは叔父の伯忍の跡を継いだものだという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の墓所四箇所の一つ。廃絶。御嶽山大教普寛大殿教会に遺骨が一部伝存しているという(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
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新宿 御嶽山大教普寛大殿教会
| 東京都新宿区新宿5丁目2
| 普寛の墓所四箇所の一つ。法性院のものの一部が伝存している(菅原「都市における木曽御嶽信仰」)。
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両神山 金剛院御嶽神社
| 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄6785
| 普寛の分骨があるという。(椿真智子・城戸貴子 1991「秩父両神村における修験の展開と変質」104)
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武尊山 法称寺
| 群馬県利根郡片品村花咲
| 普寛分骨が伝存している。
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高崎 普寛堂
| 群馬県高崎市貝沢町322
| 高崎にある御嶽講の普寛堂。伝承によると、普寛の分骨を納めているという。五霊神社に接する。
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王滝 普寛堂
| 長野県木曽郡王滝村
| 王滝にある普寛堂
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王滝 講祖本社
| 長野県木曽郡王滝村
| 王滝にある御嶽行者を合祀した堂
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