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東大寺二月堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2024年2月10日 (土) 時点における版
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある観音堂。本尊は2体の十一面観音像(秘仏)。毎年、3月(旧暦2月)に修二会(お水取り)が行われる。東大寺関連旧跡も参照。通称は南無観寺。
歴史
天平勝宝4年(752)に十一面悔過(修二会)のために創建されたと伝える。また修二会は最初、笠置寺で創始されたともいう。しかし、天平勝宝8年の「東大寺山堺四至図」に記載がないことから事実とは認めがたく、実忠が悔過を行なったとみられる宝亀4年(773)までの間に創建されたと考えられている。南都焼討や永禄の兵火を免れて近世に至ったが寛文7年(1667)の修二会の最中に失火で焼失した。寛文9年5月9日に再建したのが現在の堂宇である。 登廊の下に食堂、参籠所、仏ショウ屋、湯屋が並ぶ。また周囲に若狭井を収める閼伽井屋、遠敷神社、飯道神社、興成神社がある。若狭井は福井県小浜市の若狭彦神社そばの鵜の瀬を水源とする伝承がある。三重県伊賀市の観菩提寺は東大寺二月堂の別院ともいわれる。
食堂には聖僧像や訶梨帝母を祀る。参籠所は天平時代の僧坊のような構造という。 (『東大寺史へのいざない』『東大寺辞典』)
二月堂の信仰団体として円玄講があり、二月堂護持と修二会運営を担っている。
伽藍
二月堂周辺
名称 | 本尊など | 概要 |
---|---|---|
法華堂 | 不空羂索観音 | 華厳宗の根本道場。三月堂。 |
法華堂裏戸 | 執金剛神 | 本尊の裏に祀る秘仏。 |
法華堂手水屋 | 大黒天 | |
法華堂経庫 | ||
御髪塔 | 聖武天皇の髪を納めたとも、鎌倉再建のときの髪の綱を納めたともいう。 | |
龍神 | ||
二月堂 | 十一面観音 | 修二会が行われる。 |
二月堂後戸 | 小観音 | |
二月堂参籠所 | 向かって左側が参籠所 | |
二月堂食堂 | 聖僧 | |
二月堂毘沙門堂 | 毘沙門天 | |
二月堂訶梨帝母堂 | 訶梨帝母 | |
二月堂仏ショウ屋 | 御供所 | |
二月堂湯屋 | ||
閼伽井屋 | 若狭井を覆う。修二会の時に香水を汲む。鵜の瀬とつながっているという。 | |
興成神社 | ||
飯道神社 | ||
遠敷神社 | ||
良弁杉 | ||
龍王の滝 | ||
千手堂 | 千手千眼観音 | 法華堂の南にあった。本尊は千手千眼観音。塔180基、屏風仏像3体、銀盧舎那仏などがあった。銀堂とも呼ばれた。いつ頃か廃絶した。天地院千手堂、戒壇院千手堂とは別。 |
三昧堂 | 千手千眼観音 | 元の本尊は普賢菩薩騎象像だが、現在は高さ2.6mの千手千眼観音が本尊のようになっている。建立は1021年(治安1年)とも1023年(治安3年)とも、1067年(治暦3年)ともいう。普賢菩薩を本尊とする法華三昧のための堂。古材を用いて1681年(天和1年)に建て直されたと考えられている。1567年(永禄10年)の兵火で焼失した中門堂の諸仏を祀る。法華三昧堂、普賢三昧堂とも、四月堂ともいう。 |
開山堂 | 良弁 | |
不動堂 | 不動明王 | 四度加行を行う |
垢離場 | 不動明王 | |
山手観音堂 | 如意輪観音 | 遠敷神社の上にある。 |
西国霊場 | 西国観音 | 西国霊場の写し霊場。不動堂の脇から登って山手観音堂に側に降りる |
庚申塚 | 青面金剛 | |
阿弥陀院 | 廃絶。 | |
手向山八幡宮 | 平家焼き討ち以前は大仏殿の東南にあった。天平時代の遺構を残す宝庫がある。 | |
宝庫 | ||
東大寺東照宮 | 徳川家康 | 明治維新までは天皇殿が東照宮だった。 |
鑰取神社 | 瀬織津媛命 | 祭神は瀬織津媛命。手向山八幡宮境内社。参道沿いの北側に鎮座する。 |
興明神社 | 白山比売神 | 祭神は白山比売神。現在の白山神社。鐘楼の東南にある。手向山八幡宮境内社で神門の外にある。(『東大寺史へのいざない』) |