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椿大神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''椿大神社''' | + | '''椿大神社'''(つばき・おおかみ・の・やしろ)は、三重県鈴鹿市山本町(伊勢国鈴鹿郡)にある[[猿田彦信仰]]の神社。主祭神は「猿田彦大神」。相殿として[[瓊々杵尊]]、栲幡千々姫命、配祀として[[天之鈿女命]]、[[木花咲耶姫命]]、さらに前座として'''行満大明神'''が祀られている(神社ウェブサイト)(行満大明神または行満大菩薩は中世まで椿大神社の神号の一つだった)。[[都波岐奈加等神社]]とともに[[伊勢国一宮]]の論社とされる。[[県社]]。[[別表神社]]。[[鈴鹿・椿岸神社|椿岸神社]]を下椿社というのに対して、椿大神社を'''上椿社'''と呼んだ。'''椿宮大明神'''、'''行満大菩薩'''、'''行満大明神'''とも呼ばれた。 |
==歴史== | ==歴史== | ||
===由緒=== | ===由緒=== | ||
- | [[垂仁天皇]]27年8月に[[倭姫命]]の神託を受けて、[[入道ケ岳]]・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に'''行満'''というものがおり、現在の神社では、彼は[[役行者]] | + | *[[垂仁天皇]]27年8月に[[倭姫命]]の神託を受けて、[[入道ケ岳]]・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に'''行満'''というものがおり、現在の神社では、彼は[[役行者]]を導いたとされ、「修験神道」の開祖となったとして崇めている。現在の社家山本家はこの行満の子孫という。 |
- | + | ===古代・中世=== | |
- | === | + | *747年(天平19年):同年成立の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「椿社」とある([[椿岸神社]]に比定する説もある)。 |
- | 747年(天平19年) | + | *865年(貞観7年):従五位上から正五位下(三代実録)。これ以前に勲七等となっており、藤原仲麻呂の乱に際して授与されたか。 |
- | 865年(貞観7年) | + | *891年(寛平3年):正五位上から従四位下(日本紀略)。 |
- | 891年(寛平3年) | + | *927年(延長5年):『延喜式』神名帳に記載。神名帳に「大神社」とあるのは「椿大神社」と近くにある「[[小岸大神社]]」のみ。 |
- | + | *中世には伊勢国[[一宮]]となる。伊勢国一宮は[[都波岐神社]]とする説もあるが、南北朝時代奉納の大般若経に「奉施入一宮山本椿大明神」とある。また椿宮大明神や行満大菩薩などと呼ばれていた(現在では行満は猿田彦神の末裔で、社家山本家の祖とされている)。 | |
- | 927年(延長5年) | + | *獅子舞神楽が隆盛し、3年に一度、伊勢国北部を巡行していた。この流れをくむという獅子舞神楽が各地に分布する。 |
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===近世=== | ===近世=== | ||
- | *1532年(天文1年) | + | *1532年(天文1年):田丸合戦で落武者が神宮寺を焼く。 |
- | *1583年(天正11年) | + | *1583年(天正11年):[[豊臣秀吉]]軍の峰城攻めで筒井順慶が椿大神社を焼く。 |
- | *1586年(天正14年) | + | *1586年(天正14年):社殿棟上。 |
- | *1594年(文禄3年) | + | *1594年(文禄3年):社殿棟上。 |
- | *1599年(慶長4年) | + | *1599年(慶長4年):社殿上葺。 |
- | *1605年(慶長10年) | + | *1605年(慶長10年):[[吉田家]]から神道裁許状。以後:歴代神主が受ける。 |
- | *1611年(慶長16年) | + | *1611年(慶長16年):社殿棟上。 |
- | *1622年(元和8年) | + | *1622年(元和8年):板倉勝重の発願で社殿棟上。 |
- | *1647年(正保4年) | + | *1647年(正保4年):社殿修復。 |
- | *1662年(寛文2年) | + | *1662年(寛文2年):下椿岸神社の社殿棟上。 |
- | *1669年(寛文9年) | + | *1669年(寛文9年)閏10月26日:三界神集社を境内の西にある殿山に創建。隣村との争論で山本村の勝訴を記念して八百万神を祀った。 |
- | *1680年(延宝8年) | + | *1680年(延宝8年):本社拝殿と万社拝殿を造営。 |
- | *1690年(元禄3年) | + | *1690年(元禄3年):神主山本家や神職巫女36人が離檀した。 |
- | *1694年(元禄7年) | + | *1694年(元禄7年):[[稲生神社]]の祭礼で同神社から座次について訴えられ争論。勝訴。 |
- | *1697年(元禄10年) | + | *1697年(元禄10年):全国一宮巡拝を行っていた神道家・橘三喜が参詣。 |
- | *1701年(元禄14年) | + | *1701年(元禄14年):吉田兼敬筆の「一宮大明神」号を亀山藩主板倉重冬が表装を命じ完成。 |
- | *1707年(宝永4年) | + | *1707年(宝永4年):亀山藩主板倉重冬、伊勢国一宮として25石を寄進。 |
- | *1712年(正徳2年) | + | *1712年(正徳2年):亀山藩板倉家歴代を祀る[[松陰霊社]]を創建(1714年(正徳4年)とも)。 |
- | *1747年(延享4年) | + | *1747年(延享4年):亀山藩主石川総慶、本社修造。 |
- | *1757年(宝暦7年) | + | *1757年(宝暦7年):亀山藩主石川総慶、本社末社修造。以後、本社修造のたびに「産子改名札」を本殿内に収めた。 |
- | *1775年(安永4年) | + | *1775年(安永4年):亀山藩主石川総純、本社修造。 |
- | *1790年(寛政2年) | + | *1790年(寛政2年):亀山藩主石川総博、本社修造。 |
- | *1794年(寛政6年) | + | *1794年(寛政6年):神楽殿造営。 |
- | *1807年(文化4年) | + | *1807年(文化4年):亀山藩主石川総佐、本社末社修造。 |
- | *1828年(文政11年) | + | *1828年(文政11年):亀山藩主石川総安、本社修造。 |
- | *1839年(天保10年) | + | *1839年(天保10年):亀山藩主石川総紀(石川総和)、本社末社修造。 |
- | *1852年(嘉永5年) | + | *1852年(嘉永5年):亀山藩主石川総紀、本社修造。 |
- | *1857年(安政4年) | + | *1857年(安政4年):亀山藩主石川総紀、本社拝殿神輿殿修造。 |
- | *1865年(慶応1年) | + | *1865年(慶応1年):亀山藩主石川成之、本社修造。 |
===近現代=== | ===近現代=== | ||
- | + | *明治初年:神宮寺が廃絶した。 | |
- | + | *1871年(明治4年)8月15日:亀山県第八区の郷社に列格する。 | |
- | *1871年(明治4年) | + | *1873年(明治6年):郷社としての管轄区域が改定され、三重県六区2・3・4小区の郷社となる。 |
- | *1881年(明治14年) | + | *1881年(明治14年):本社末社修造。 |
- | *1906年(明治39年) | + | *1906年(明治39年)12月:神饌幣帛料供進神社に指定。 |
- | *1907年(明治40年) | + | *1907年(明治40年)11月19日:[[鈴鹿・椿岸神社|椿岸神社]]を合祀。神社合祀令を受けたもので、特に三重県内では合祀や合併が強力に推進された。 |
- | *1908年(明治41年) | + | *1908年(明治41年)4月17日:村社[[小岸大神社]]ほか57社を合祀。松陰霊社は4月19日合祀か。 |
- | *1928年(昭和3年) | + | *1928年(昭和3年)11月:[[県社]]に昇格(神道史大辞典)。 |
- | *1965年(昭和40年) | + | *1965年(昭和40年)3月:山本行隆禰宜:10年間の「みそぎ修行」を満願。 |
- | *1965年(昭和40年) | + | *1965年(昭和40年)9月17日:台風で本社に倒木被害。23日神楽殿に遷座。 |
- | *1966年(昭和41年) | + | *1966年(昭和41年)4月11日:松陰霊社跡に椿岸神社を復興し、その社殿を本社仮殿として遷座。復興は1961年(昭和36年)から構想があったが中断していたところ、台風被害があったのでその倒木を使って造営した。 |
- | *1966年(昭和41年) | + | *1966年(昭和41年)8月8日:入道ケ岳に奥宮を創建。 |
- | *1968年(昭和43年) | + | *1968年(昭和43年):現在の本社社殿を造営。 |
- | *1969年(昭和44年) | + | *1969年(昭和44年):椿講設立。 |
- | *1970年(昭和45年) | + | *1970年(昭和45年)10月13日:[[椿護国神社]]を創建。 |
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+ | ==境内・関連旧跡== | ||
*本社: | *本社: | ||
*別宮 | *別宮 | ||
- | **[[椿岸神社]] | + | **[[鈴鹿・椿岸神社|椿岸神社]]:境内。祭神は「天之鈿女命、太玉命、天之児屋根命」。椿大神社の東600mの「字本堂」の地にあったが、1907年(明治40年)11月19日に本社に合祀。旧地に石碑が立つ。官社論社。無格社。下椿社、椿岸大明神。「天之鈿女命本宮」と称す。 |
- | **[[椿大神社奥宮]] | + | **[[椿大神社奥宮]]:三重県鈴鹿市小岐須町。[[入道ケ岳]]標高906.1mにある。 |
**[[小岸大神社]]:三重県鈴鹿市小岐須町。 | **[[小岸大神社]]:三重県鈴鹿市小岐須町。 | ||
**愛宕神社:三重県四日市市水沢野田町。 | **愛宕神社:三重県四日市市水沢野田町。 | ||
**[[石大神]]:三重県鈴鹿市小岐須町。巨岩の上にあった祠は椿大神社に合祀されたが、巨岩自体は信仰の対象として存続。官社「石神社」の論社。椿大神社別宮とされている。 | **[[石大神]]:三重県鈴鹿市小岐須町。巨岩の上にあった祠は椿大神社に合祀されたが、巨岩自体は信仰の対象として存続。官社「石神社」の論社。椿大神社別宮とされている。 | ||
*摂社 | *摂社 | ||
- | **[[伊勢・県主神社]] | + | **[[伊勢・県主神社]]:官社。 |
*末社 | *末社 | ||
**椿一宮神社:三重県鈴鹿市椿一宮町。 | **椿一宮神社:三重県鈴鹿市椿一宮町。 | ||
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*その他・不明 | *その他・不明 | ||
- | **[[行満堂神霊殿]] | + | **[[入道ケ嶽]]:三重県鈴鹿市小岐須町。猿田彦神の降臨の地。奥宮や「いしぐらの磐座」、「いしがみの磐座」がある。 |
+ | **[[行満堂神霊殿]]:行満堂神霊殿は行満を主祭神に「神宮寺6カ寺ゆかりの6神」を祀る。また崇敬者物故者などを祀り、祖霊社の役割を果たしている。 | ||
**いしぐらの磐座: | **いしぐらの磐座: | ||
**いしがみの磐座:富士社 | **いしがみの磐座:富士社 | ||
106行: | 93行: | ||
**万社:江戸時代に廃絶。 | **万社:江戸時代に廃絶。 | ||
**三界神集社:本社に合祀。 | **三界神集社:本社に合祀。 | ||
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*神宮寺:廃絶。 | *神宮寺:廃絶。 | ||
**阿弥陀寺: | **阿弥陀寺: | ||
115行: | 100行: | ||
**高雲寺: | **高雲寺: | ||
**国照寺: | **国照寺: | ||
- | + | *[[伊勢・西岸寺|西岸寺]]:三重県鈴鹿市山本町。[[真宗高田派]]。[[真慧]]が創建。神祇不拝の浄土真宗でありながら江戸時代、神宮寺の仏堂を管理していたという。 | |
- | + | *[[アメリカ椿大神社]]:アメリカ合衆国ワシントン州グラナイトフォールズ。 | |
- | *[[西岸寺]] | + | |
- | *[[アメリカ椿大神社]] | + | |
==組織== | ==組織== | ||
===神主(前近代)=== | ===神主(前近代)=== | ||
- | + | 猿田彦神の神裔とされる山本家が世襲する。中世には神職の長官を「禰宜」と呼ぶことが多かったが、近世には「神主」と呼ぶようになったようだ。早くから[[吉田家]]から神道裁許状を受けた。また3人が吉田家から[[霊神]]号を受けているのが注目される。 | |
- | + | ||
*行満:山本家の祖。行満大明神。 | *行満:山本家の祖。行満大明神。 | ||
- | *山本行家()<> | + | *山本行家()<>:山本之家も同一人物か。1605年(慶長10年)[[吉田家]]から神道裁許状。 |
- | *山本行次()<> | + | *山本行次()<>:山本之次も同一人物か。1630年(寛永7年)吉田家から神道裁許状。 |
- | *山本行信()<> | + | *山本行信()<>:山本行重より改名か(之重も同一人物か)。1657年(明暦3年)吉田家から神道裁許状。1713年(正徳3年)吉田家から簾正霊神号。 |
*山本行光()<>:1686年(貞享3年)、吉田家から神道裁許状。1720年(享保5年)、吉田家から清白霊神号。 | *山本行光()<>:1686年(貞享3年)、吉田家から神道裁許状。1720年(享保5年)、吉田家から清白霊神号。 | ||
*山本行厚()<>:1717年(享保2年)、吉田家から神道裁許状。1726年(享保11年)、吉田家から令全霊神号。 | *山本行厚()<>:1717年(享保2年)、吉田家から神道裁許状。1726年(享保11年)、吉田家から令全霊神号。 | ||
133行: | 115行: | ||
*山本行英()<>:1742年(寛保2年)、吉田家から神道裁許状。 | *山本行英()<>:1742年(寛保2年)、吉田家から神道裁許状。 | ||
*山本行道()<>:1761年(宝暦11年)、従五位下に叙任。1797年(寛政9年)、吉田家から神主還補され、再任。 | *山本行道()<>:1761年(宝暦11年)、従五位下に叙任。1797年(寛政9年)、吉田家から神主還補され、再任。 | ||
- | *山本行教(-1796)<>:1785年(天明5年)、吉田家から神道裁許状。1796年(寛政8年)死去。 | + | *山本行教(?-1796)<>:1785年(天明5年)、吉田家から神道裁許状。1796年(寛政8年)死去。 |
- | *山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年(文化10年)、吉田家から神道裁許状。1883年(明治16年) | + | *山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年(文化10年)、吉田家から神道裁許状。1883年(明治16年)11月19日死去。 |
- | *山本行俊(1824-1874)<>:1841年(天保12年)吉田家から神道裁許状。1874年(明治7年) | + | *山本行俊(1824-1874)<>:1841年(天保12年)吉田家から神道裁許状。1874年(明治7年)5月16日死去。 |
===祠官・宮司(近現代)=== | ===祠官・宮司(近現代)=== | ||
- | + | 1871年(明治4年)5月、明治政府が神職の世襲を禁止したことから一時期、山本家以外のものが就任したが、やがて山本家の世襲に戻る(政府の世襲禁止の命令は全国的にも有名無実となる)。 | |
- | *山本九春()<1871-1873?> | + | *山本九春()<1871-1873?>:蘭学者。亀山藩士。社家の山本家の出身かどうかは不明。1871年(明治4年)8月、祠官。 |
- | *阿部丸一()<1873?-1877?> | + | *阿部丸一()<1873?-1877?>:国学者。蘭学者。亀山藩明倫舎教官。祠官。1873年(明治6年)5月、山本行俊から阿部丸一へ奉仕神社各神社の社殿宝物を引き継ぐ。1877年(明治10年)1月、氏子から職務怠慢で免職願い。 |
*大久保清春()<1879->:祠官。1879年(明治12年)、祠官選挙願。同年には就任。 | *大久保清春()<1879->:祠官。1879年(明治12年)、祠官選挙願。同年には就任。 | ||
- | *山本行敬(1859-1927)<1894-> | + | *山本行敬(1859-1927)<1894->:初名は首。1859年(安政6年)生。1873年(明治6年)阿良神社神明社祠掌。1884年(明治17年)椿大神社祠掌。1894年(明治27年)9月18日、社司。1927年(昭和2年)死去。 |
*95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。1971年(昭和46年)死去。 | *95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。1971年(昭和46年)死去。 | ||
*96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年(昭和46年)11月宮司就任。2002年(平成14年)8月1日死去。 | *96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年(昭和46年)11月宮司就任。2002年(平成14年)8月1日死去。 |
2022年10月15日 (土) 時点における版
椿大神社(つばき・おおかみ・の・やしろ)は、三重県鈴鹿市山本町(伊勢国鈴鹿郡)にある猿田彦信仰の神社。主祭神は「猿田彦大神」。相殿として瓊々杵尊、栲幡千々姫命、配祀として天之鈿女命、木花咲耶姫命、さらに前座として行満大明神が祀られている(神社ウェブサイト)(行満大明神または行満大菩薩は中世まで椿大神社の神号の一つだった)。都波岐奈加等神社とともに伊勢国一宮の論社とされる。県社。別表神社。椿岸神社を下椿社というのに対して、椿大神社を上椿社と呼んだ。椿宮大明神、行満大菩薩、行満大明神とも呼ばれた。
目次 |
歴史
由緒
- 垂仁天皇27年8月に倭姫命の神託を受けて、入道ケ岳・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に行満というものがおり、現在の神社では、彼は役行者を導いたとされ、「修験神道」の開祖となったとして崇めている。現在の社家山本家はこの行満の子孫という。
古代・中世
- 747年(天平19年):同年成立の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「椿社」とある(椿岸神社に比定する説もある)。
- 865年(貞観7年):従五位上から正五位下(三代実録)。これ以前に勲七等となっており、藤原仲麻呂の乱に際して授与されたか。
- 891年(寛平3年):正五位上から従四位下(日本紀略)。
- 927年(延長5年):『延喜式』神名帳に記載。神名帳に「大神社」とあるのは「椿大神社」と近くにある「小岸大神社」のみ。
- 中世には伊勢国一宮となる。伊勢国一宮は都波岐神社とする説もあるが、南北朝時代奉納の大般若経に「奉施入一宮山本椿大明神」とある。また椿宮大明神や行満大菩薩などと呼ばれていた(現在では行満は猿田彦神の末裔で、社家山本家の祖とされている)。
- 獅子舞神楽が隆盛し、3年に一度、伊勢国北部を巡行していた。この流れをくむという獅子舞神楽が各地に分布する。
近世
- 1532年(天文1年):田丸合戦で落武者が神宮寺を焼く。
- 1583年(天正11年):豊臣秀吉軍の峰城攻めで筒井順慶が椿大神社を焼く。
- 1586年(天正14年):社殿棟上。
- 1594年(文禄3年):社殿棟上。
- 1599年(慶長4年):社殿上葺。
- 1605年(慶長10年):吉田家から神道裁許状。以後:歴代神主が受ける。
- 1611年(慶長16年):社殿棟上。
- 1622年(元和8年):板倉勝重の発願で社殿棟上。
- 1647年(正保4年):社殿修復。
- 1662年(寛文2年):下椿岸神社の社殿棟上。
- 1669年(寛文9年)閏10月26日:三界神集社を境内の西にある殿山に創建。隣村との争論で山本村の勝訴を記念して八百万神を祀った。
- 1680年(延宝8年):本社拝殿と万社拝殿を造営。
- 1690年(元禄3年):神主山本家や神職巫女36人が離檀した。
- 1694年(元禄7年):稲生神社の祭礼で同神社から座次について訴えられ争論。勝訴。
- 1697年(元禄10年):全国一宮巡拝を行っていた神道家・橘三喜が参詣。
- 1701年(元禄14年):吉田兼敬筆の「一宮大明神」号を亀山藩主板倉重冬が表装を命じ完成。
- 1707年(宝永4年):亀山藩主板倉重冬、伊勢国一宮として25石を寄進。
- 1712年(正徳2年):亀山藩板倉家歴代を祀る松陰霊社を創建(1714年(正徳4年)とも)。
- 1747年(延享4年):亀山藩主石川総慶、本社修造。
- 1757年(宝暦7年):亀山藩主石川総慶、本社末社修造。以後、本社修造のたびに「産子改名札」を本殿内に収めた。
- 1775年(安永4年):亀山藩主石川総純、本社修造。
- 1790年(寛政2年):亀山藩主石川総博、本社修造。
- 1794年(寛政6年):神楽殿造営。
- 1807年(文化4年):亀山藩主石川総佐、本社末社修造。
- 1828年(文政11年):亀山藩主石川総安、本社修造。
- 1839年(天保10年):亀山藩主石川総紀(石川総和)、本社末社修造。
- 1852年(嘉永5年):亀山藩主石川総紀、本社修造。
- 1857年(安政4年):亀山藩主石川総紀、本社拝殿神輿殿修造。
- 1865年(慶応1年):亀山藩主石川成之、本社修造。
近現代
- 明治初年:神宮寺が廃絶した。
- 1871年(明治4年)8月15日:亀山県第八区の郷社に列格する。
- 1873年(明治6年):郷社としての管轄区域が改定され、三重県六区2・3・4小区の郷社となる。
- 1881年(明治14年):本社末社修造。
- 1906年(明治39年)12月:神饌幣帛料供進神社に指定。
- 1907年(明治40年)11月19日:椿岸神社を合祀。神社合祀令を受けたもので、特に三重県内では合祀や合併が強力に推進された。
- 1908年(明治41年)4月17日:村社小岸大神社ほか57社を合祀。松陰霊社は4月19日合祀か。
- 1928年(昭和3年)11月:県社に昇格(神道史大辞典)。
- 1965年(昭和40年)3月:山本行隆禰宜:10年間の「みそぎ修行」を満願。
- 1965年(昭和40年)9月17日:台風で本社に倒木被害。23日神楽殿に遷座。
- 1966年(昭和41年)4月11日:松陰霊社跡に椿岸神社を復興し、その社殿を本社仮殿として遷座。復興は1961年(昭和36年)から構想があったが中断していたところ、台風被害があったのでその倒木を使って造営した。
- 1966年(昭和41年)8月8日:入道ケ岳に奥宮を創建。
- 1968年(昭和43年):現在の本社社殿を造営。
- 1969年(昭和44年):椿講設立。
- 1970年(昭和45年)10月13日:椿護国神社を創建。
境内・関連旧跡
- 本社:
- 別宮
- 摂社
- 伊勢・県主神社:官社。
- 末社
- その他・不明
- 合祀・廃絶
- 神明社:本社に合祀。
- 松蔭霊社:本社に合祀。
- 万社:江戸時代に廃絶。
- 三界神集社:本社に合祀。
- 神宮寺:廃絶。
- 阿弥陀寺:
- 東光寺:
- 玉伝寺:
- 大日寺:境内にあった。
- 高雲寺:
- 国照寺:
- 西岸寺:三重県鈴鹿市山本町。真宗高田派。真慧が創建。神祇不拝の浄土真宗でありながら江戸時代、神宮寺の仏堂を管理していたという。
- アメリカ椿大神社:アメリカ合衆国ワシントン州グラナイトフォールズ。
組織
神主(前近代)
猿田彦神の神裔とされる山本家が世襲する。中世には神職の長官を「禰宜」と呼ぶことが多かったが、近世には「神主」と呼ぶようになったようだ。早くから吉田家から神道裁許状を受けた。また3人が吉田家から霊神号を受けているのが注目される。
- 行満:山本家の祖。行満大明神。
- 山本行家()<>:山本之家も同一人物か。1605年(慶長10年)吉田家から神道裁許状。
- 山本行次()<>:山本之次も同一人物か。1630年(寛永7年)吉田家から神道裁許状。
- 山本行信()<>:山本行重より改名か(之重も同一人物か)。1657年(明暦3年)吉田家から神道裁許状。1713年(正徳3年)吉田家から簾正霊神号。
- 山本行光()<>:1686年(貞享3年)、吉田家から神道裁許状。1720年(享保5年)、吉田家から清白霊神号。
- 山本行厚()<>:1717年(享保2年)、吉田家から神道裁許状。1726年(享保11年)、吉田家から令全霊神号。
- 山本行賀()<>:1725年(享保10年)、吉田家から神道裁許状。
- 山本行英()<>:1742年(寛保2年)、吉田家から神道裁許状。
- 山本行道()<>:1761年(宝暦11年)、従五位下に叙任。1797年(寛政9年)、吉田家から神主還補され、再任。
- 山本行教(?-1796)<>:1785年(天明5年)、吉田家から神道裁許状。1796年(寛政8年)死去。
- 山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年(文化10年)、吉田家から神道裁許状。1883年(明治16年)11月19日死去。
- 山本行俊(1824-1874)<>:1841年(天保12年)吉田家から神道裁許状。1874年(明治7年)5月16日死去。
祠官・宮司(近現代)
1871年(明治4年)5月、明治政府が神職の世襲を禁止したことから一時期、山本家以外のものが就任したが、やがて山本家の世襲に戻る(政府の世襲禁止の命令は全国的にも有名無実となる)。
- 山本九春()<1871-1873?>:蘭学者。亀山藩士。社家の山本家の出身かどうかは不明。1871年(明治4年)8月、祠官。
- 阿部丸一()<1873?-1877?>:国学者。蘭学者。亀山藩明倫舎教官。祠官。1873年(明治6年)5月、山本行俊から阿部丸一へ奉仕神社各神社の社殿宝物を引き継ぐ。1877年(明治10年)1月、氏子から職務怠慢で免職願い。
- 大久保清春()<1879->:祠官。1879年(明治12年)、祠官選挙願。同年には就任。
- 山本行敬(1859-1927)<1894->:初名は首。1859年(安政6年)生。1873年(明治6年)阿良神社神明社祠掌。1884年(明治17年)椿大神社祠掌。1894年(明治27年)9月18日、社司。1927年(昭和2年)死去。
- 95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。1971年(昭和46年)死去。
- 96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年(昭和46年)11月宮司就任。2002年(平成14年)8月1日死去。
- 97山本行恭()<2002->:2002年(平成14年)9月15日就任。
(『椿大神社近世年表』ほか)