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毘沙門堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都府京都市山科区安朱稲荷山町(山城国宇治郡)にある、毘沙門信仰の天台宗門跡寺院。本尊は毘沙門天。天台宗延暦寺派門跡寺。護法寺、尊重寺、平等寺を合併して成立したという。江戸時代に天海、公海が復興。毘沙門堂門跡。山科御殿。出雲寺。安国院。山号は護法山。
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歴史
『宇治郡名勝誌』では、703年(大宝3年)4月21日に文武天皇の勅願で京都出雲路(現在の上御霊神社から相国寺一帯)に創建されたというが、鎌倉時代初期に平氏ゆかりの3寺を統合して成立したとみられる。また出雲寺という名称の古代寺院(上御霊神社の神宮寺)が出雲路の地にあったことが知られ、現在も出雲路山の山号を称する毫摂寺(福井県越前市、真宗出雲路派本山)も出雲路の地にあった(京都・毫摂寺)。何らかの関係があったとみられるがはっきりしない。
前身寺院の起源
- 平安時代初期:葛原親王が太秦・平等寺を創建。広隆寺の西にあった。のち焼失した。(平親範置文)
- 平安時代初期:平親信、五辻に尊重寺が創建。廃絶して本尊のみが大原に移転した。(平親範置文)
- 平安時代:平範家、伏見・護法寺を創建。大日如来・釈迦如来・薬師如来の丈六仏3体があった。阿弥陀堂と毘沙門堂もあった。(平親範置文)
- 1161年(応保1年):護法寺、平治の乱で焼けたとみられ、本尊を北岩倉に移転。(平親範置文)
- 1162年(応保2年):護法寺、堂宇を建てた。(平親範置文)
- 1163年(長寛1年):護法寺は寺門派であったため、山門衆徒に焼かれた。(平親範置文)
- 1165年(永万1年):残った護法寺の多聞天像を大原来迎院近くに移し、後年、堂宇を建てて祀った。(平親範置文)
- 1195年(建久6年):護法寺、出雲路に移転した。(平親範置文)
桜の名所として
- 1214年(建保2年)頃:平親範(円智)が平等寺・尊重寺・護法寺の3寺を統合。出雲路に五間の一宇を建てて3寺の本尊を祀り、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺に擬した。(平親範置文)
- 1233年(天福1年)2月21日:『明月記』に「毘沙門堂花半開云々」とあり、桜の名所だった。謡曲『西行桜』にも「毘沙門堂の花盛り」と謳われた。
- 1339年(延元4年/暦応2年)11月6日:毘沙門堂付近が焼失(師守記)。のち廃絶したらしい。
日光門跡の出張所として再興
- 1611年(慶長16年):後陽成天皇が天海に復興を命じる。
- 1665年(寛文5年):天海の弟子の公海が輪王寺宮(日光門跡、寛永寺)の京都での拠点として現在地に復興(輪王寺宮年譜)。
- 1682年(天和2年):公弁法親王が入り、門跡寺院に加えられた。
- 1686年(貞享3年):後西天皇の旧殿を宸殿として移築。
寺領1070石。
伽藍
- 本堂
- 霊殿:阿弥陀如来を本尊。歴代門主の位牌を祀る。1563年(永禄6年)京都御所から移築。
- 宸殿:後西天皇の旧殿を1686年(貞享3年)移築。
- 庫裏
- 観音堂
- 高台弁財天
- 輪王寺宮毘沙門堂墓地
子院
- 養源院:毘沙門堂の脇門跡とされた(国史大辞典)。
- 双林院:
- 龍華院:
- 妙光院:
組織
住職
- 公尊まで『日本仏家人名辞書』。「公海」~「玄航」は『望月仏教大辞典』。
- 現在は毘沙門堂の住職を門主と称す。現在の任期は7年間。