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毫摂寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2017年10月24日 (火) 時点における版
毫摂寺(ごうしょうじ)は、福井県越前市にある浄土真宗の本山寺院。大町門徒(三門徒)系統の真宗出雲路派の本山で、越前四本山(証誠寺・毫摂寺・誠照寺・専照寺)の一つ。京都・毫摂寺の後身であるとともに、証誠寺から分裂した寺院とも言える。江戸時代は天台宗青蓮院門跡の院家だった。越前国今立郡。五分市本山。(参考:同名寺院毫摂寺_(同名))
歴史
毫摂寺の成立と変遷にははっきりしない点が多い。 天福元年(1233)に親鸞が京都出雲路に設けた庵が起源とされる。 ついで覚如に師事した乗専が中興。これが京都・毫摂寺で寺名は覚如の号に由来すると説明される。
南北朝の戦乱(応仁の乱とも)を避けて末寺の横越証誠寺を頼りに善幸が越前に移った。 暦応3年(1340、興国元)、山本荘に移った。 永正15年(1518)後柏原天皇勅願所となり、仁和寺末となる。 天正3年、一向一揆に焼かれたので再び横越に戻ったともいう。 天正17年(1589)、後陽成天皇の勅願所となる。 同時に青蓮院門跡の院家となる(元禄年間とも)。 慶長元年(1596)、多数末寺を連れて横越を離れ、五分市に移った(慶長8年頃ともいう)。証誠寺はほとんどの末寺を奪われたといい、 たびたび対立して抗争した。
歴代は花山院家や一条家の猶子となった。 寛永5年(1628)、安永3年(1774)、明治10年(1877)に火災で被災。 明治5年9月、真宗本願寺派に属すが、明治11年2月、独立して真宗出雲路派を立てた。
(国史大辞典、日本歴史地名大系、世界大百科事典)
歴代住職
- 乗専(1285-1357):和気氏。丹波国天田郡六人部出身。俗名は高橋盛永。毫摂寺の実質的な開山だが、歴代に数えられていない。覚如の弟子。丹波にも毫摂寺を創建。大和国吉野郡で檜川御坊円光寺・浄源寺・西方寺を、但馬国出石郡で乗専寺を創建。吉野郡平尾で死去。平尾徳善寺に墓。
- 1:親鸞(1173-1262):浄土真宗の宗祖。
- 2:善鸞(生没年不詳):親鸞の子。本願寺の伝承では異端を唱え、親鸞から義絶されたといわれる。
- 3:善入:覚如の末子。
- 4:善智
- 5:善幸
- 6:善岌
- 7:善教
- 8:善鎮:蓮如に帰依。現在地に移転。
- 9:善覚
- 10:善光
- 11:善秀
- 12:善照
- 13:善舜
- 14:善誉
- 15:善休
- 16:善聞
- 17:善准
- 18:善栄
- 19:善祐
- 20:善雲
- 21:藤善静:物部善静
- 22:藤善慶(光暁):智慧光院
- 23:藤善聴(光照):巍徳院
- 24:藤光曜(善解):大慈悲院
- 25:藤光永
- 26:藤光真
(望月『仏教大辞典 付録』など)
塔頭
- 教証寺
- 光闡寺
- 応信寺
- 城福寺:塔頭ではないが、末寺筆頭という。現在地移転に功があった。