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真宗大谷派高山別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月1日 (火)
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==資料== | ==資料== |
2023年8月1日 (火) 時点における最新版
真宗大谷派高山別院(しんしゅうおおたには・たかやま・べついん)は、岐阜県高山市にある真宗大谷派の別院。寺号は照蓮寺。高山御坊。別格別院だった(大谷派寺院録)。目次 |
歴史
親鸞弟子の嘉念坊善俊が創建したとされる。善俊は、後鳥羽上皇の第12皇子とも、浄興寺善性房の子で上皇の皇孫とも言われる。伊豆三島で京都に向かう親鸞に出会い、弟子となったという。 飛騨国白川郷鳩ケ谷(白川村鳩谷)に入り、照蓮寺を創建した。飛騨に真宗が伝わった最初という。まもなく飯島(白川村飯島)に移転した。善俊は弘安5年(1282)に没した。
長享2年(1488)、白川郷に拠点を置く幕府の内ヶ島為氏は、加賀一向一揆の一国支配に脅威を抱き、照蓮寺を焼き討ちした。10代住職明教は自害したという。 その遺児明心は永平寺で育てられ、15歳で大坂に蓮如を、山科に実如を訪ね、照蓮寺再興の許しを得た。実如の仲介で内ヶ島氏と和睦して帰国。永正元年(1504)、白川郷中野(高山市荘川町中野)に本堂を立てた。明心と13代了教は周辺地域に40ケ所以上の道場を開いたという。 天正13年(1585)、豊臣秀吉の命で飛騨に侵攻した金森長近は照蓮寺と協調する姿勢を取り、高山に寺地を寄進して本堂を立てた。石山合戦では教如を支持し、分立の際には東本願寺に従った。
のち金森家から従純が入り、東本願寺13代宣如六女の佐奈姫を娶った。飛騨、美濃、越中、信濃に末寺90寺を抱えた触頭となったが、金森家が転封になると庇護を失い、末寺との軋轢が表面化した。17代一乗は元禄16年(1703)、本山に献上し、高山御坊となった。
旧地の白川郷中野には掛所として心行坊が置かれていた。現存最古の浄土真宗建築という。明治になり、本寺と同じく照蓮寺と称した。戦後、御母衣ダム建設のため中野地区が水没することになり、昭和36年(1961)、高山市内に移転した。堀端・照蓮寺。善俊の墓もある。 (木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部)
伽藍・関連旧跡
- 本堂
- 鳩谷道場:岐阜県大野郡白川村鳩谷。記念碑と善俊墓(火葬塚?)が残る。庵を復元。
- 飯島道場:岐阜県大野郡白川村飯島。正蓮寺時代。戦乱で焼ける
- 明教自刃地:岐阜県大野郡白川村。卒塔婆峠。石碑が建つ。
- 心行坊:岐阜県高山市荘川町中野。中野懸所。ダム湖に沈む。ダムに善俊像が建つ。
- 堀端・照蓮寺:岐阜県高山市堀端。中野から移築。
- 善俊墓:岐阜県高山市堀端。中野から移設。
子院
- 円龍寺:
- 専念寺:
- 真蓮寺:
- 霊雲寺:
- 了泉寺:
- 不遠寺:
- 暎芳寺:
- 称讃寺:
組織
歴代住職
- 『高山別院史』「歴代住職」[1]
- 懸所になってからは輪番が置かれた。明治から昭和初期までは連枝が住職に入ったがその後は再び輪番が置かれている。
歴代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 善俊 | 1213-1282 | 後鳥羽天皇の皇子とも皇孫ともいう。1213年(建保1年)生。1282年(弘安5年)3月3日死去。堀端照蓮寺に善俊墓(治定外)がある。 | |
2 | 善隆 | ?-1313 | 1313年(正和2年)5月27日死去。 | |
3 | 善教 | ?-1317 | 1317年(文保1年)1月13日死去。 | |
4 | 了遵 | ?-1327 | 1327年(嘉暦2年)5月4日死去。 | |
5 | 善享 | ?-1357 | 1357年(正平12年/延文2年)9月14日死去。 | |
6 | 明恵 | ?-1386 | 1386年(元中3年/至徳3年)7月4日死去。 | |
7 | 明円 | ?-1395 | 1395年(応永2年)9月18日死去。 | |
8 | 明誓 | ?-1456 | 1456年(康正2年)3月24日死去。 | |
9 | 明教 | 1444-1488 | 明誓の次男。1488年(長享2年)8月28日、戦死。45歳。 | |
10 | 明心 | 1487-1531 | 明教の子。兼入。幼名は亀寿丸。蓮如の仲介で内ケ島為氏(雅氏とも)と和睦し娘婿となる。正蓮寺を再興する。1531年(享禄4年)7月19日死去。45歳。 | |
11 | 了教 | 1507-1548 | 明心の長男。1548年(天文17年)2月27日死去。42歳。英恩院と号す。 | |
12 | 善了 | 1540-1584 | 了教の長男。1584年(天正12年)3月20日死去。45歳。室は良恩(蓮如の外孫。実如の姪)。 | |
13 | 宣明 | 1565-1641 | ?-1632 | 善了の長男。明了。等安。幼名は亀寿丸。石山合戦で顕如と教如の間で巧みに立ち回る。1598年(慶長3年)飛檐席。1599年(慶長4年)院家となったという[2]。金森長近の外護を得る。1630年(寛永7年)宣如から「宣」の字を与えられ宣明と改名。1632年(寛永9年)隠居。1641年(寛永18年)9月19日死去。77歳。 |
14 | 宣了 | 1593-1647 | 1632-1644 | 宣明の長男。幼名は亀寿丸。了心。1630年(寛永7年)上京し宣如から「宣」の字を賜り宣了と改名。1632年(寛永9年)寺務。室は金森可重の娘。1632年(寛永9年)住職。1644年(正保1年)隠居。1647年(正保4年)8月15日死去。55歳。即生院と号す。 |
15 | 宣心 | ?-1675 | 1644-1675 | 従純。金森重頼の子。室は本願寺宣如の娘。1637年(寛永14年)上京して得度。宣如から宣心の名を与えられた。1644年(正保1年)寺務。1675年(延宝3年)11月12日死去。53歳。龍興院と号す。式部卿。 |
16 | 琢情 | 1718-1717 | ?-1699 | 宣心の長男。幼名は諸丸。1669年(寛文9年)琢如のもとで得度。室は金森重頼の孫娘。色欲におぼれたとされ、1699年(元禄12年)1月、本山から隠居を命じられる。1717年(享保2年)3月17日死去。荘厳院と号す。琢晴とも。 |
17 | 一乗 | 1680-1704 | 1699-1703 | 1699年(元禄12年)1月寺務。1703年(元禄16年)5月、照蓮寺を本山に献納する。1704年(宝永1年)6月1日死去。25歳。 |
18 | 大谷勝縁 | 1856-1924 | 1870-1924 | 長浜別院住職。1870年(明治3年)高山別院住職。1924年(大正13年)3月19日死去。霊寿院と号す。(略歴は真宗大谷派長浜別院#組織を参照) |
19 | 大谷瑩亮 | ?-1936 | 1924-1936 | 井波別院住職。彰如の弟。1924年(大正13年)8月24日、高山別院住職[3](1926年(昭和1年)4月26日[4][5]とも)。1936年(昭和11年)5月14日死去。浄暁院と号す。 |
20 | 大谷瑩琇 | 1887-? | 1936-1936 | 城端別院住職。彰如の弟。1936年(昭和11年)高山別院住職。同年退任。成満院と号す。(略歴は真宗大谷派城端別院#組織を参照) |