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神護寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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===高雄山寺=== | ===高雄山寺=== | ||
- | + | 前身の一つ高雄山寺は天応元年(781)、[[光仁天皇]]の勅願で愛宕山五坊の一つとして、[[大安寺]]慶俊を本願に和気清麻呂が創建。創建の事情ははっきりしない点もあるが、[[平安京]]遷都以前の創建であることは確かという。延暦18年(799)、和気清麻呂が死ぬと高雄山寺に葬られた。延暦21年(801)1月19日、清麻呂から寺院復興を託された子の弘世と真綱は[[比叡山]]の[[最澄]]を招いて法華会を執行。のち最澄が入唐し、帰国すると延暦24年、[[桓武天皇]]は弘世に勅して密教図像や曼荼羅を制作させた。同じく入唐から戻った[[空海]]も高雄山寺で弘仁3年(812)11月に金剛界灌頂、12月に胎蔵界灌頂を行なった。これには最澄も入壇している。空海は弘仁13年(822)までここを拠点とした。 | |
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- | + | 天長元年(824)、和気真綱は高雄山寺に河内の[[神願寺]]を併合。'''神護国祚真言寺'''と称した。神護寺本尊の薬師如来像と五大虚空蔵像は神願寺から移したものと考えられている。空海の弟子の真済が跡を継ぎ承和2年(835)、宝塔を建立。造営が済んだ頃には金堂、礼堂、根本真言堂、五仏堂(講堂)、五大堂、毘廬遮那宝塔、護摩堂、法華三昧堂、鐘堂、廟殿、僧堂、納涼殿、大炊屋、食堂、湯屋などがあった。その後、正暦5年(994)、久安5年(1149)の火災で伽藍衰退。 | |
- | + | ===文覚の復興=== | |
+ | 仁安3年(1168)秋、[[文覚]]が神護寺を訪れ、荒廃を嘆き、復興を発願。薬師三尊を祀る草堂を建てて住した。承安3年(1173)の[[後白河上皇]]への請願は受け入れられなかったが、寿永元年(1182)、[[源頼朝]]の支援もあり、後白河上皇に請願し、荘園を与えられ復興を果たした。元暦2年(1185)、文覚は「四十五箇条起請文」を作成。寺院運営規則とした。正治元年(1199)の源頼朝の死去で、文覚が佐渡流罪になると、[[東寺]]の管理下に置かれた。 | ||
+ | 復興事業を継いだ上覚は嘉禄元年、空海住房の納涼房で伝法会執行。導師はは[[明恵]]が務めた。嘉禄2年3月、北白河院の御願で落慶法要が行われた。 | ||
+ | 嘉禄年間、[[仁和寺]]僧の宗全が神護寺別当に任命。建長7年(1255)、仁和寺門跡の性仁法親王が神護寺に自坊翫玉院を建立。 | ||
- | + | 応仁の乱以後、衰退。天文16年(1547)閏7月、細川晴元の兵が伽藍を焼いた。 | |
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+ | [[豊臣秀吉]]から荘園を寄進。晋海が復興を志した。 | ||
+ | [[徳川家康]]は260石を寄進。[[屋島寺]]の龍厳が諸国勧進して伽藍復興を果たしたという。 | ||
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+ | [[八栗寺]]の龍暢が伽藍を整備した。 | ||
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==組織== | ==組織== | ||
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2017年9月10日 (日) 時点における版
神護寺(じんごじ)は、京都府京都市右京区高雄にある真言宗寺院。本尊は薬師如来。和気氏の氏寺。高雄山寺と神願寺が合併して成立。最澄も空海も帰国直後にここで修法を行っており、日本密教の発祥地ともいえる。和気氏の氏寺。愛宕山の麓にあたり、愛宕五坊の一つ。定額寺。現在は高野山真言宗別格本山。鎮守は平岡八幡宮。和気清麻呂墓と護王神社の元宮に当たる護王善神社がある。神護寺関連旧跡も参照。
目次 |
歴史
高雄山寺
前身の一つ高雄山寺は天応元年(781)、光仁天皇の勅願で愛宕山五坊の一つとして、大安寺慶俊を本願に和気清麻呂が創建。創建の事情ははっきりしない点もあるが、平安京遷都以前の創建であることは確かという。延暦18年(799)、和気清麻呂が死ぬと高雄山寺に葬られた。延暦21年(801)1月19日、清麻呂から寺院復興を託された子の弘世と真綱は比叡山の最澄を招いて法華会を執行。のち最澄が入唐し、帰国すると延暦24年、桓武天皇は弘世に勅して密教図像や曼荼羅を制作させた。同じく入唐から戻った空海も高雄山寺で弘仁3年(812)11月に金剛界灌頂、12月に胎蔵界灌頂を行なった。これには最澄も入壇している。空海は弘仁13年(822)までここを拠点とした。
神護寺の成立
天長元年(824)、和気真綱は高雄山寺に河内の神願寺を併合。神護国祚真言寺と称した。神護寺本尊の薬師如来像と五大虚空蔵像は神願寺から移したものと考えられている。空海の弟子の真済が跡を継ぎ承和2年(835)、宝塔を建立。造営が済んだ頃には金堂、礼堂、根本真言堂、五仏堂(講堂)、五大堂、毘廬遮那宝塔、護摩堂、法華三昧堂、鐘堂、廟殿、僧堂、納涼殿、大炊屋、食堂、湯屋などがあった。その後、正暦5年(994)、久安5年(1149)の火災で伽藍衰退。
文覚の復興
仁安3年(1168)秋、文覚が神護寺を訪れ、荒廃を嘆き、復興を発願。薬師三尊を祀る草堂を建てて住した。承安3年(1173)の後白河上皇への請願は受け入れられなかったが、寿永元年(1182)、源頼朝の支援もあり、後白河上皇に請願し、荘園を与えられ復興を果たした。元暦2年(1185)、文覚は「四十五箇条起請文」を作成。寺院運営規則とした。正治元年(1199)の源頼朝の死去で、文覚が佐渡流罪になると、東寺の管理下に置かれた。 復興事業を継いだ上覚は嘉禄元年、空海住房の納涼房で伝法会執行。導師はは明恵が務めた。嘉禄2年3月、北白河院の御願で落慶法要が行われた。 嘉禄年間、仁和寺僧の宗全が神護寺別当に任命。建長7年(1255)、仁和寺門跡の性仁法親王が神護寺に自坊翫玉院を建立。
応仁の乱以後、衰退。天文16年(1547)閏7月、細川晴元の兵が伽藍を焼いた。
近世
豊臣秀吉から荘園を寄進。晋海が復興を志した。 徳川家康は260石を寄進。屋島寺の龍厳が諸国勧進して伽藍復興を果たしたという。
近代
八栗寺の龍暢が伽藍を整備した。
組織
住職
古代には神護寺別当が置かれた。
- 延杲
- 真済(800-860)<840->:空海の弟子。神護寺別当。東寺長者。
- 盛算(932-1015):神護寺別当。東寺二長者。
- 禅助(1247-1330):東寺長者。東寺座主。神護寺別当。仁和寺別当。大伝法院学頭。
- 定助(1263-1346):仁和寺尊勝院住職。神護寺別当。東寺長者。
- 栄海(1278-1347):勧修寺慈尊院住職。神護寺別当。東寺長者。