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豊国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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豊国神社
とよくに じんじゃ
Hokoku-jinja (4).jpg伏見城の遺構と伝わる豊国神社唐門
概要 戦国の覇者、豊臣秀吉を奉斎する神社。
奉斎 豊臣秀吉朝臣
(土岐昌訓論文)
所在地 京都府京都市東山区茶屋町530
所在地(旧国郡)
所属(現在) 神社本庁
格式など 別格官幣社別表神社
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目次

概要

豊国神社(とよくに・じんじゃ)は、京都府京都市東山区にある豊臣秀吉を祀る霊社。旧地の阿弥陀ケ峰には秀吉の墓がある。

歴史

豊国神社の鎮座

秀吉は、伏見城で1598年(慶長3年)8月18日死去。9月、前田玄以が鎮座地を選定しており、阿弥陀ケ峰に決まっていたと思われる。 翌1599年(慶長4年)1月、秀吉の死が公表。4月5日になって埋葬された。4月16日から23日まで8日間にわたり遷宮式が行われた。

16日に仮殿遷宮。17日、朝廷から大納言勧修寺時豊、中納言正親町季秀が派遣され「豊国大明神」の神号を贈る後陽成天皇の宣命が奏上された。神号は「豊葦原瑞穂国」を略称したものという。18日、天皇による正遷宮の日時宣下が行われ、即日、亥の刻に遷座祭を執行し、正式に豊国神社が鎮座した。翌日には神階正一位が贈られた(位階としての正一位は大正時代に贈位)。同日、徳川家康、毛利輝元が参詣。20日、神楽奉納。21日、天道祓200座を勤修。22日、吉田家による神道護摩行事。23日、舞楽10番を奉納。万歳楽、延喜楽など。

遷宮式が終わってからも奉祝行事が続き、24日には大和四座が猿楽を奉納。26日、徳川家康、豊臣秀頼、毛利輝元、加藤清正、前田玄以、高台院、淀殿らが黄金58枚、銀190枚を献納した。

8月18日、初めての豊国祭。徳川家康が参詣した。1601年(慶長6年)7月、秀頼が豊国神社に社領1万石を寄進した。

徳川幕府による廃絶

明治の再興

1868年(明治1年)閏4月6日、明治天皇は豊臣秀吉の偉業を讃える御沙汰書を発表し、「豊太閤其人の如き英智雄略の人を得させられたく思し食しこれによって新に祠宇を造営し」と秀吉を祀る神社の創建を命じた。またそれを伝える政府の通達に「大阪城外近傍に於て相応の地を撰び社壇造営仰せ出され候」とあり、鎮座地を大阪城の近郊としていた。これは大阪行幸の時期に当たり、大阪を重視していたことに基づくと思われる。ところが同年5月10日には京都豊国山(阿弥陀ケ峰)にも廃絶した豊国廟再興の御沙汰書が発せられ、「先年、敗毀いたし候豊国山の廟、更に御再興仰せ出され候」と命じた。4月の御沙汰書では「新に祠宇を造営」とある一方、5月の御沙汰書では「更に御再興」とあることから両者はそれぞれ別の命令と解釈することができる。このことは同年8月18日の命日に墓前で行った官祭で、神祇官大掌典が奏上した御祭文に「先に浪華の城の下に社造営り斎ひ祭れと依し賜い此の墓所をも修造と大詔命せ賜ひ」とあることからも分かる。またこの時点では京都については神社ではなく「墓所の修造」と考えられていたようだ。江戸時代、豊臣秀吉墓は妙法院門跡の管轄にあったが、1868年(明治1年)10月、神祇官の所管に移された。翌年8月18日にも墓前で官祭が執行された。

ところが近代社格制度の制定後、1873年(明治6年)8月18日にまだ社殿のない「豊国神社」を別格官幣社に列格する達が出された時、その鎮座地は京都になっていた。通達には「豊国神社 山城国愛宕郡阿弥陀ケ峰鎮座 右別格官幣社更に官祭被仰出候事」とある。ここで豊臣秀吉を祭る神社の創建が京都に変更されたのであった。大阪遷都論も幻となって大阪の重要性が下がり、毎年、京都の墓前で官祭が行われてきたことから京都の墓所の存在感が増したためだと思われる。鎮座までは新日吉神社神楽殿(神饌殿とも)を仮拝殿として祭祀をしていたという。一方、大阪創建を主張する声も根強かったとみられ、1875年(明治8年)4月7日、大阪にも「別社」を建てることが決まった。

1875年(明治8年)12月25日、方広寺大仏殿跡地を鎮座地とする。 1876年(明治9年)3月2日、妙法院門跡から「豊国大明神」勅額など遺宝が豊国神社に返納される。 同年10月1日から10日間、「砂持の儀」が行われる。 1878年(明治11年)2月、社殿着工。 1879年(明治12年)4月、恭明宮の跡地と建物が与えられた。 1880年(明治13年)5月、竣工。9月15日正遷座祭。

京都の豊国神社の正式な鎮座に先立ち、前年11月28日に大阪・豊国神社が鎮座した。

阿弥陀ケ峰の整備

1881年(明治14年)7月1日、京都府は阿弥陀ケ峰の墓所を「豊国神社付属地」だと通達。

1897年(明治30年)4月、翌年の秀吉300年祭記念として豊国廟修築を起工。豊国会による。 1898年(明治31年)3月30日、墓所修築竣工。山上には高さ9.7mの巨大な五輪塔が建てられた。参道には565段の石階段が設けられた。墓域3万4000坪。従来30万坪からは10分の一に当たるが、面目を一新した。同月耳塚竣工。4月18日秀吉300年祭。

1921年(大正10年)12月、管轄下にあった大阪豊国神社が独立し、府社に列格した。

1925年(大正14年)、北政所を祀る摂社貞照神社を創建。11月18日、列格50年祭・北政所300年祭。 1935年(昭和10年)11月、大鳥居建立。

戦後

1958年(昭和33年)10月18日、350年祭。 1973年(昭和48年)3月28日、方広寺大仏殿焼失。 1980年(昭和55年)11月18日、鎮座100年祭。

境内

  • 本社
  • 貞照神社:摂社
  • 槙本稲荷神社
  • 耳塚
  • 馬塚

組織

宮司

  • 金子吉祇(1861-1924)<1915->:越後出身の神職。(略歴は、射水神社#組織を参照)
  • 香西大見(1898-1979)<1938->:(略歴は、北野天満宮#組織を参照)
  • 柴田花守(1809-1890)<>:実行教初代管長。(略歴は、実行教#組織を参照)
  • 小松行一()<>:
  • 岩崎長世()<>:
  • 日野西光善()<>:
  • 佐野久成(1840-1907)<>:水戸藩士。戊辰戦争に参戦。豊国神社、生国魂神社の神職を歴任。1907年(明治40年)3月8日死去。68歳。

画像

参考文献

  • 『生ける豊太閤』[1]
  • 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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