ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

名古屋東照宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年7月31日 (日)

移動: 案内, 検索
江戸時代の社殿(尾張名所図会)

名古屋東照宮(なごや・とうしょうぐう)は、愛知県名古屋市中区にある、尾張徳川家創建の東照宮。祭神は徳川家康と徳川義直・徳川慶勝。江戸時代は左に山王権現、右に日光権現を配祀していた。県社

目次

歴史

  • 1618年(元和4年):未鎮座のまま東照宮祭礼。
  • 1619年(元和5年):徳川義直は天海を招いて父徳川家康を祀る名古屋東照宮を三の丸に創建。家老成瀬正成・竹腰正信を奉行として造営した。同年9月17日に竣工した。1000石寄進。
  • 1620年(元和6年):御旅所を尾張・若宮八幡社の北に設置。
  • 1688年(元禄1年):徳川光友が重修。
  • 1786年(天明6年):徳川家霊廟の西霊屋3殿、東霊屋2殿のうち西霊屋2殿と東霊屋1殿を撤去。
  • 1870年(明治3年)12月:別当寺を廃止。
  • 1872年(明治5年):徳川家霊廟、撤去。
  • 1875年(明治8年):徳川義直を合祀。
  • 1876年(明治9年):名古屋鎮台の設置にともない名古屋藩・明倫堂跡の現在地に遷座した。
  • 1897年(明治30年):徳川慶勝を合祀。
  • 1945年(昭和20年):空襲で焼失。
  • 1953年(昭和28年):高原院廟旧殿を移築して復興した。高原院廟は徳川義直正室の春姫の霊廟で、1651年(慶安4年)万松寺に建てられ、大正年間、建中寺に移築されていた。

(日本歴史地名大系ほか)

境内

江戸時代の境内(尾張名所図会)
  • 本社:
  • 本地堂:本尊は薬師如来。三菩薩、十二神将、四天王も祀る。廃絶。
  • 護摩堂:本尊は不動明王。四天王、十二天画像も祀る。
  • 尊寿院:名古屋東照宮の別当寺。天台宗。
  • 御旅所:名古屋市末広町。
  • 東漸寺:名古屋市末広町。御旅所別当。本尊は薬師如来・聖天。密厳院末寺。清須にあったが慶長年間、名古屋大津に移転。1660年(万治3年)焼失。旗屋町に移転。のち新鳥頭町に移転。1757年(宝暦7年)1月、東照宮御旅所境内に復興し御旅所別当職となる。明治維新で廃絶。山号は帰命山。(『名古屋市史』[1]

宮付寺院

御城下六坊(名古屋六坊)と野田六坊と呼ばれる天台宗12寺が奉仕した。御城下六坊は五節句、毎月1日・15日、17日、28日に出仕。野田六坊は尾張・密蔵院の子院で、毎月17日に1坊ずつ出仕した。(『名古屋市史』[2]

  • 福泉寺:御城下六坊。伊倉町。西区桶屋町。
  • 東漸寺:御城下六坊。末広町。廃絶。
  • 願行寺:御城下六坊。上田町。廃絶。
  • 宝泉寺:御城下六坊。東寺町。中区新栄町。
  • 千葉寺:御城下六坊。東寺町。廃絶。
  • 円教寺:御城下六坊。東田町。
  • 常林坊:野田六坊。
  • 常泉坊:野田六坊。
  • 福泉坊:野田六坊。
  • 吉祥坊:野田六坊。
  • 善明坊:野田六坊。
  • 千蔵坊:野田六坊。

徳川将軍家霊廟

日光山寛永寺に埋葬された将軍の供養は天台宗尊寿院が奉仕。増上寺に埋葬された将軍の供養は浄土宗建中寺が奉仕した。1786年(天明6年)以降、東霊屋・西霊屋がそれぞれ1殿ずつとなる。その後は合祀となる。

  • 台徳院廟:東霊屋。建中寺が奉仕。鳥居があった。
  • 大猷院廟:東霊屋。尊寿院が奉仕。鳥居があった。
  • 厳有院廟:東霊屋。尊寿院が奉仕。
  • 常憲院廟:西霊屋。有徳院を合祀。尊寿院が奉仕。
  • 文照院廟:西霊屋。有龍院、淳信院を合祀。建中寺が奉仕。

組織

吉見家

源氏。元は菅原氏。藩内の神職の首位に置かれた。吉見文庫は名古屋市鶴舞中央図書館に現存する。

  • 1吉見幸勝(1615-1676)<?-1668>:伊勢出身。1615年(元和1年)生。初名は園崎直勝。1627年(寛永4年)16歳で徳川義直に近侍する。主君の名を避けて改名する。学を勤めて名古屋東照宮に奉仕する。1662年(寛文2年)10月13日、正五位下に叙し、宮内大輔に補任され、さらに東照宮奉仕のため菅原氏から源氏に改姓する。吉見を称す。1664年(寛文4年)12月、徳川光友に命じられて吉田家大元宮を模して柳原祭場殿を設けた。1676年(延宝4年)5月4日死去。62歳。
  • 2吉見恒幸(1641-1697)<1668-1696>:1641年(寛永18年)生。1666年(寛文6年)12月、正四位下民部大輔。1668年(寛文8年)11月、家督相続。1697年(元禄10年)6月17日死去。57歳。
  • 3吉見幸和(1673-1761)<1696-1728>:吉見恒幸次男。1673年(延宝1年)生。徳川綱誠に近侍し、三輪勝弥と称す。兄の吉見幸寛が病により廃嫡となると、1694年(元禄7年)11月、嫡嗣となる。1696年(元禄9年)7月、家督相続。1699年(元禄12年)8月、従五位下、刑部少輔。1704年(宝永1年)11月、従五位上・刑部大輔。のち正四位下・左京大夫。1698年(元禄11年)尾張風土記編纂の命を受けるが計画はストップする。京都に遊学して正親町公通に垂加神道を学ぶ。その学績優秀にして猶子の扱いを与えられた。1721年(享保6年)、藩主の命で上京して伏見稲荷大社につかえる弟の知幸の叙位を朝廷に申請。これを吉田家が妨害したので吉田家の典籍を論難し、朝廷を驚かせ、ついに許可を得たという。1745年(延享2年)、正親町実連に招聘され京都で日本書紀を講義。一条道香、近衛内前に謁見した。1746年(延享3年)江戸を経て4月16日17日に日光東照宮を参拝。塩竈神社祠官の藤塚知直に招かれ、陸奥国塩竈で講義。秋まで滞在した。垂加神道や吉田神道伊勢神道の教説に疑問を懐き、神道五部書が偽書だと論証した。1756年(宝暦6年)、名古屋藩から官費を支給され吉見文庫を備えた。1761年(宝暦11年)4月26日死去。(1934『名古屋市史』[3]
  • 4吉見幸混(1715-1763)<1728->:吉見幸和の次男。1715年(正徳5年)生。父から家学を学び、松平君山に儒学を学び、武技に通じる。1728年(享保13年)9月、東照宮の神主を継承。1763年(宝暦13年)12月9日死去。49歳。(1934『名古屋市史』)
  • 5吉見幸孝()<>:養子。越前守。
  • 6吉見幸茂()<>:養子。従四位下。相模守。1840年(天保11年)藩命で護山神社を創建。
  • 7吉見幸磐()<>:従五位下。讃岐守。
  • 8吉見幸純()<>:
  • 9吉見彦之助()<>:1921年(大正10年)吉見文庫を名古屋市立図書館に寄贈。
  • 10吉見四朗(1909-)<>:1909年(明治42年)生。1935年(昭和10年)愛知国学院本科卒。1941年(昭和16年)真清田神社主典。1942年(昭和17年)片山八幡神社社司。1946年(昭和21年)同神社宮司。著書『吉見幸和大人略伝』。
  • 11吉見英和()<>:片山八幡神社宮司。著書『吉見幸和翁の年譜と著述―吉見幸和大人命二百五十年祭記念』。

資料

  • 『尾張名所図会』[4]
  • 『東照宮神幸名古屋区祭明細図会』[5]
  • 田中善一1963「名古屋東照宮創祀考」[6][7]
  • 田中善一1968「名古屋東照宮」[8]
  • 「名古屋東照宮祭礼図」[9]:森高雅筆。1822年(文政5年)。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール