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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

垂加神道

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月17日 (水)

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垂加神道(すいか・しんとう)は江戸時代の儒学者山崎闇斎が創始した儒家神道。山崎闇斎は吉田神道を継承した吉川惟足から神道説を学び、垂加霊社の号を授けられた。垂加神道の名はこれに由来する。吉川惟足も山崎闇斎らから儒学を学び、吉川神道を開いた。両者は類似した点があり、お互いに影響しながら成立したといえる。よって便宜上、吉川神道系もこの項目で扱う。また垂加神道系の橘家神道も扱う。

会津松平家も参照。

目次

人物と旧跡

著名な人物および神号を持つ人物を対象とする。

垂加神道系

  • 山崎闇斎(1618-1682):垂加神道の開祖。儒学者。垂加霊社。
    • 山崎闇斎墓:京都市左京区黒谷町。浄土宗金戒光明寺墓地。
    • 山崎闇斎邸跡・垂加霊社跡:京都府京都市上京区元福大明神町。石碑あり。
    • 垂加霊社:京都府京都市中京区下御霊前町。下御霊神社境内。現存。生祠。
    • 闇斎神社:兵庫県宍粟市山崎町。
    • 永思堂神社:兵庫県神戸市東灘区魚崎中町。
    • 近江・垂加霊社:滋賀県彦根市高宮町。近江・高宮神社内。
    • 光海霊社:茨城県鹿嶋市宮中。鹿島神宮内。廃絶か。
    • 篤志神社:埼玉県所沢市下新井。桜木神社内。山崎闇斎を祀る。
    • 庚申社:愛媛県大洲市阿蔵甲。大洲八幡神社内。猿田彦大神。山崎闇斎、橘(薄田)以貞(振埴霊社)、玉木正英(五鰭霊社)、兵頭正秀(島根霊神)も祀る。1740年創建。(大洲八幡神社ウェブサイト)
  • 保科正之(1611-1672):会津藩主。垂加神道家。土津神社祭神。土津霊神。
    • 土津神社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。墓所。
  • 度会延佳(1615-1690):国学者。外宮権禰宜。現在の皇学館大学につながる豊宮崎文庫を創設。豊宮崎文庫内に霊社があった。出口延佳。
    • 度会延佳墓:三重県伊勢市岩渕。一誉坊墓地内。
    • 度会延佳邸跡:三重県伊勢市岩渕。真珠会館がある。
    • 豊宮崎文庫跡:三重県伊勢市岡本。
    • 延佳霊社:三重県伊勢市岡本。豊宮崎文庫内。度会延佳と足代弘訓を祀る。廃絶か。
  • 渋川春海(1639-1715):江戸時代前期の暦学者・神道家。初代天文方。
    • 土守霊社:山形県米沢市門東町。西条天満神社に1732年11月5日合祀か。現存不詳。西条天満神社は皇大神社に合祀。
    • 土守霊社:岩手県一関市山目舘。配志和神社に1732年11月5日合祀か。現存不詳。
    • 土守霊社:宮城県石巻市日和が丘。鹿島御児神社に1732年11月5日合祀か。現存不詳。
    • 土守霊社:宮城県石巻市住吉町。大島神社に1732年11月5日合祀か。現存不詳。
    • 土守霊社:宮城県石巻市川口町。熱田神社に1732年11月5日合祀か。現存不詳。
    • 渋川春海墓:東京都品川区北品川。臨済宗東海寺大山墓地内。
  • 山岡塩山(生没年不詳):1672年頃、会津で垂加神道を教えていたが、吉川惟足門人の坂本義邵に批判され追放された。事情はよく分からない。
  • 出雲路信直(1650-1703):垂加神道家。下御霊神社神職。山崎闇斎に師事。垂加神道を広め、興隆に導いた。八塩道翁。八塩道霊社。
    • 出雲路信直墓:京都府京都市中京区四坊大宮町。浄土宗成円寺墓地。
  • 佐藤直方(1650-1719):山崎闇斎の高弟。しかし、垂加神道からは距離を取ったとされる。
  • 大山為起(1651-1713):垂加神道家。伏見稲荷大社社家の出身。山崎闇斎に師事。松山藩主松平定直の招きで味酒神社(現・阿沼美神社)神職となり、松山で教化。境内に自らの魂を祀った生祠「葦水霊社混沌宮」を創建。葦水霊社。
  • 植田艮背(1651-1735):広島藩の儒学者。山崎闇斎の弟子。『垂加草全集』を編纂。
    • 植田艮背墓:広島県広島市南区比治山町。真言宗多聞院内。
  • 一条兼輝(1652-1705):江戸時代前期の関白・摂政。一条冬経とも。霊元上皇を補佐して、朝儀復興に尽力。
  • 浅見絅斎(1652-1711):朱子学者。近江国高島郡出身。山崎闇斎に師事。
    • 浅見絅斎邸跡:京都府京都市中京区西魚屋町。錦小路通。石碑あり。
    • 浅見絅斎墓:京都府京都市東山区五条橋東。鳥辺山墓地内。
    • 永思堂神社:兵庫県神戸市東灘区魚崎中町。
  • 正親町公通(1653-1733):垂加神道家。参議、権大納言、武家伝奏を歴任。山崎闇斎に師事し、その死後の中心的人物となる。闇斎の著書『風水草』を後西上皇に献上。風水翁、風水軒、須守霊社。白玉霊社。
    • 正親町公通墓:京都市左京区浄土寺真如町。天台宗真正極楽寺
  • 霊元天皇(1654-1732):第112代天皇<在位1663-1687>。朝廷古儀復興を望み、次の東山天皇のときに大嘗祭復興を実現させた。正親町公通に垂加神道を学んだ。下御霊神社祭神。天中柱皇神。
  • 土御門泰福(1655-1717):陰陽家。土御門家当主。土御門神道の大成者。
  • 瀬尾信正(1657-1733):福山藩浪士。山崎闇斎に学ぶ。柴垣霊神。
  • 跡部良顕(1658-1729):垂加神道家。旗本家出身。柳生石舟斎の玄孫。竹下青山に師事。生祠が鹿島神宮内に祭られた。光海霊社。
    • 光海霊社:茨城県鹿嶋市宮中。鹿島神宮内。生祠。1721年5月27日鎮座。鹿島神宮宮司鹿島則朋や門人とはかって創建した。自宅の垂加霊社を遷座してその相殿に自分の魂を祀ったか。現存不明。[1]
    • 跡部良顕墓:群馬県伊勢崎市宮子町。紅巌寺墓地内。寺は曹洞宗だったが廃絶。
    • 跡部良顕墓:東京都港区南青山。曹洞宗玉窓寺内。
  • 遊佐木斎(1658-1734):山崎闇斎に学ぶ。仙台藩で教える。濯直霊神。
  • 梨木祐之(1659-1723):山崎闇斎の弟子。下鴨神社神職。葵祭を復興。鴨祐之。
    • 梨木祐之墓:京都府京都市上京区高徳寺町。浄土宗西園寺墓地内。
  • 岡田正利(1661-1744):大和国出身。玉木正英や跡部良顕に学ぶ。正英の橘家神道も継承した。
  • 三宅尚斎(1662-1741):
  • 谷秦山(1663-1718):土佐の朱子学者・垂加神道家。高知藩郷士。大神氏。別宮八幡宮(高知県南国市岡豊町)社家の末裔。山崎闇斎、浅見絅斎に師事し、儒学を学ぶ。渋川春海と親しく交流し、神道や暦学を学ぶ。1707年政変で蟄居。南学と呼ばれる土佐朱子学を継承発展させたと評価される。官社(式内社)の調査研究と復興に関わり、『土佐国式社考』を著す。徹底した日本中心主義が特徴。霊社号・霊神号の乱発や墳墓に建てる社には否定的だった。谷重遠。子の谷垣守、孫の谷真潮(1729-1797)も家学を受け継ぐ。子孫に谷干城がいる。
    • 谷秦山邸跡:高知県香美市土佐山田町植。
    • 谷秦山墓:高知県香美市土佐山田町植。邸宅跡にある。
  • 伴部安崇(1667-1740):佐藤直方に崎門学を、跡部良顕に垂加神道を学ぶ。正親町公通から神道の伝授。八重垣霊社。
    • 伴部安崇墓:江戸の曹洞宗吉祥寺にあったらしいが現存不詳。
    • 八重垣霊社:埼玉県所沢市小手指元町。栗原正精が創建か。
  • 橘以貞(生没年不詳):薄田与三兵衛、常盤木信成とも。橘氏の末裔を称し、玉木正英に橘家神道を伝授した。垂加神道も学んでいたらしい。振埴霊社。
  • 磯辺昌言(1669-1738):稲葉正往の家臣。垂加神道を学ぶ。
  • 玉木正英(1670-1736):梅宮大社神職・儒学者・垂加神道家。正親町公通に垂加神道を学ぶ。橘家神道を立てる。五鰭霊社。五十鰭霊社?
  • 吉見幸和(1673-1761):名古屋東照宮の神職。正親町公通らに垂加神道を学ぶ。神職を辞めた後、神典の文献学的研究に勤しみ、神道五部書が偽書だと実証し、吉田家が「神道長上」を名乗る根拠がないことを明らかにした。神道五部書は垂加神道でも根本となる典籍であり、研究と神道説との矛盾に葛藤したらしい。
  • 若林強斎(1679-1732):儒学者・神道家。浅見絅斎に師事。玉木正英に垂加神道を学ぶ。守中霊社。
  • 山本復斎(1680-1730):浅見絅斎、高田未白に師事。1726年、摂津魚崎に雀松精舎を開く。守境霊社。
    • 永思堂神社:兵庫県神戸市東灘区魚崎中町。1898年8月創建か。魚崎南町の旧地で阪神淡路大震災で倒壊するが2019年3月31日に現在地に遷座して再建。
    • 火産霊神社:兵庫県西宮市社家町。西宮神社内。若林強斎・山本復斎を合祀。
  • 本庄貞居(?-1770):安芸の人。玉木葦斎、松岡仲良に学ぶ。契幽霊神。
    • 契幽霊神:門人が祠を建てた。
  • 松宮観山(1686-1780):儒学者。下野国出身。北条氏如に兵学を学ぶ。神儒仏の一致を説く。垂加神道にも通じたらしい。明和事件に連座して追放。真椙霊神。
  • 山本主馬(1691-1730):京都八坂神社の神職という。山崎闇斎に師事。大江憲蔭。
  • 谷垣守(1698-1752):谷秦山の長男。玉木正英に神道を、賀茂真淵に国学を学ぶ。
  • 松岡雄淵(1701-1783):熱田神宮社家の出身。儒学を若林強斎に、垂加神道を玉木正英に学ぶ。のち吉田家に仕える。松岡仲良。振武霊社。墓所は吉田神葬墓地
  • 佐藤鎮定(1704-1782):仙台の人。出雲路信直に学ぶ?五土霊神。
  • 谷川士清(1709-1776):伊勢の江戸時代中期の国学者・神道家。玉木正英に垂加神道を学ぶ。振々霊社。
    • 谷川士清邸跡:三重県津市八町。
    • 谷川士清墓:三重県津市押加部町。臨済宗福蔵寺内。
    • 谷川神社:三重県津市押加部町。古世子神社に合祀して改名した。反古塚がある。福蔵寺に隣接。
  • 兵頭守敬(1709-1757):大洲八幡神社神職。玉木正英に橘家神道を学ぶ。五十根霊社。常磐井守敬。
  • 加賀美光章(1711-1782):甲斐の人。玉木正英に垂加神道を学ぶ。山県大弐の師。
  • 竹内敬持(1712-1767):垂加神道家。玉木正英に垂加神道を学ぶ。宝暦事件で処分され、明暦事件で遠島となり、三宅島で病死。竹内式部。竹内神社創建計画もあったが、実現しなかった。
    • 竹内式部出生地:新潟県新潟市中央区本町通九番町。石碑あり。
    • 竹内式部墓:新潟県新潟市中央区古町通。日和山墓地隣。昭和に分骨。
    • 竹内式部墓:東京都三宅島三宅村伊ケ谷。元は浄土宗大林寺にあったが、港近くに改葬。
    • 竹内式部墓:京都府京都市上京区鶴山町。浄土宗十念寺内。
    • 竹内式部邸跡:京都府京都市中京区麩屋町通丸太町。「竹内式部寓居址」碑あり。
  • 桜町天皇(1720-1750):
  • 正親町三条公積(1721-1777):公卿。竹内式部に学ぶ。桃園天皇への垂加神道進講に尽力。宝暦事件で処分された。
  • 山県大弐(1725-1767):儒学者。明和事件で処刑。加賀美光章に学ぶ。
    • 山県神社:山梨県甲斐市篠原。
    • 山県大弐墓:山梨県甲斐市篠原。山県神社内。元は曹洞宗金剛寺にあった。
    • 山県大弐墓:茨城県石岡市根小屋。泰寧寺内。元は弟子の自宅にあった。
    • 山県大弐墓:東京都新宿区舟町。曹洞宗全勝寺内。元は全徳寺にあった。
  • 高山彦九郎(1747-1793):勤王家。垂加神道を信奉したという。
  • 小寺清先(1748-1827):神職。国学者。備中国笠岡の稲荷社の神職。吉田家で学んだ時に松岡雄淵に見込まれ、垂加神道の伝授を受けた。
  • 玉田永教(1756-1836):徳島藩出身。岡田正利に垂加神道を学ぶ。京都に秀穂舎を開く。全国を行脚する。吉田松陰に影響を与えたという。

吉川神道系


  • 徳川頼宣(1602-1671):和歌山藩主。
  • 池田光政(1609-1682):岡山藩主。
  • 保科正之(1611-1672):会津藩主
  • 浅野長治(1614-1675):備後三次藩主。
  • 稲葉正則(1623-1696):小田原藩主。
  • 徳川光圀(1628-1701):水戸藩主。
  • 前田綱紀(1643-1724):金沢藩主。
  • 津軽信政(1646-1710):弘前藩主。吉川惟足の弟子。高照神社祭神。
    • 高照神社:青森県弘前市高岡神馬野。県社。墓所もある。
  • 津軽信寿(1669-1746):津軽藩主
  • 松平正容(1669-1731):会津藩主。


  • 山崎闇斎(1618-1682):垂加神道の開祖。吉川惟足から神道を学ぶ。
  • 田中宗得(1625-1700):吉川惟足の門人。保科正之の推薦で、金沢藩前田綱紀に仕える。江戸藩邸で神書講義を開く。
  • 不破惟益(1626-1677):南宮大社神職。吉川惟足の門人。
  • 長岡為麿(1646-1718):熱田神宮神職。吉川惟足の門人。
  • 河合曽良(1649-1710):俳人。松尾芭蕉の門人。吉川惟足に神道や和歌を学ぶ。岩波正字。
  • 山野元命(?-1723):津軽藩士。吉川惟足の門人。高照神社神職。
  • 森脇三久(1653-1727):岩国藩神道方
  • 北川正種(?-1755):津軽藩士。吉川惟足の門人。津軽信政の葬儀の祭主。
  • 黒神直栄():遠石八幡宮神職。吉川従興に学ぶ。著書『神道秘伝口決』。端翁霊社。
  • 渡辺長易(?-1762):

会津関係

会津藩には神道方という部署があり、卜部派と垂加派があった。卜部派とは吉田神道を標榜するものの、実質的には吉川神道である。保科正之は山崎闇斎にも吉川惟足にも学んでいるが、後世、藩で伝える神道説をどのように自認していたのかはっきりしない点がある。

  • 保科正之(1611-1672):会津藩主。垂加神道家。土津神社祭神。土津霊神。
    • 土津神社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。墓所。
  • 田中正玄(1613-1672):会津藩家老。15歳の時に信濃国高遠で保科正之に仕える。1632年家老。1667年城代となる。60歳。信彦霊社。
    • 信彦霊社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。
    • 田中正玄墓:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。見禰山。
  • 井深重光(1617-1699):会津藩家老。信濃国高遠出身。1659年家老。正之、正経、正容の三代に仕える。将軍お見目。1689年隠居。1699年死去。83歳。
    • 久彦霊社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。
  • 服部安休(1619-1681):会津藩の神道家。会津藩における垂加神道の祖。林羅山に儒学を学ぶ。1657年、保科正之に朱子学を進講して召し抱えられる。1661年、正之の命で鎌倉に行き、吉川惟足を招く。1664年、正之の命で吉川惟足に学ぶ。翌年、山崎闇斎と神道について論争し、山崎闇斎が吉川神道を学ぶ契機を作った。友松氏興らと共に『会津神社志』編纂に加わる。神社改正を行い、1672年、会津藩神社管領の職に就く。正之の死後、墓所の土津神社に奉職。当初、俗人ゆえ神職になることを憚ったが、江戸の芝大神宮の氏子であるため、その社家の名をもらい、西東氏と称する。遺言で仏葬を拒否し、見禰山麓に葬る。63歳。服部尚由。進功霊社。
    • 進功霊社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。1707年創建。
    • 服部安休墓
  • 築瀬正真(1621-1710):最上家旧臣。1637年に保科正之に仕える。1663年家老となる。正之、正経、正容の三代に仕える。1690年隠居。1710年死去。90歳。
    • 幸彦霊社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。
  • 友松氏興(1622-1687):会津藩家老。垂加神道家。土佐国高知で生まれる。当初は事情があり、内藤を称す。1634年、土岐重元の推薦で保科正之に小姓役となる。1663年家老となる。1669年に友松に復す。正親町公通に和歌を学び、伊南芳通に軍学を一宮照信に居合を学ぶ。また神儒を山崎闇斎、吉川惟足、服部安休に学ぶ。会津風土記や会津神社志の編纂時には自ら諸村を巡り古老に話を聞き古書を調べた。1668年、正之に請いて「家訓十五条」を下され、その解説を記す。また正之の事跡を編纂し、山崎闇斎が手を入れて1672年に完成。保科正之の臨終の時、葬儀を任される。正之の死にあたり明神号の許可に奔走するが実現せず(?)。正之の遺骸を会津に遷す時、幕府は関所の通行証を下付するが、将軍の叔父がなぜ官吏に屈するのかと怒って返納する。会津城で三カ月の殯斂。葬儀の準備と墓及び社殿の造営は吉川惟足の指示により、氏興が実行した。墓所を経営するための領地を自ら指揮して農民を移住させて開墾し土田堰を作り土田村と名付ける。さらに自らの霊魂を祀る忠彦神社と建て、村の鎮守とした。見禰山由来記を記す。忠彦霊社。(和学者総覧では「真彦霊社」とする)
    • 忠彦霊社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。
    • 忠彦霊社:福島県会津若松市本町。会津若松諏方神社境内。廃絶か。
    • 忠彦神社:福島県耶麻郡猪苗代町磐根土田。土田村の鎮守。生祠。現存か?(古峰神社周辺?)
    • 友松氏興墓:福島県会津若松市門田町黒岩。大窪山墓地内。
  • 木本成勝(1625-1689):会津藩士。槍術師範。蒲生家旧臣。のち神式に改め健彦霊社。
  • 佐瀬常尚(1633-1709):蚕養国神社神職。瀧直霊社(龍直霊社?)。
    • 瀧直神社:福島県会津若松市蚕養町。蚕養国神社内。
  • 西郷近房(1637-1703):会津藩家老。護忠霊社。
    • 護忠霊社:福島県会津若松市蚕養町。蚕養国神社境内。
  • 蓮沼由道(1637-1706):学を修め、保科正之に侍講。吉川惟足に師事。『会津風土記』編纂に加わる。服部安休らと共に神社改正に携わる。惟足に特に許可を得て(神職ではないが)祭服を着て土津神社に奉仕する。『会津神社志』の改訂版である『会津神社総録』のほとんどは蓮沼由道が草稿を書き、山崎闇斎が手を入れたものという。神社修理、土津神社領の管理、書物管理を司る。元禄年間、孔子廟の造営と孔子像の造立、その祭式の制定に尽力。文庫役、用所役、武具役、納戸役を歴任。家老西郷近房の命で『旧証類聚』を編纂。晩年、神葬祭の許可を得て臨終にあたり自ら妙手神霊と諡す。70歳。
  • 佐瀬茂義(?-1732):佐瀬常尚の弟。吉川従長に学ぶ。「祓遥拝所」の神職というが不詳。立志神霊。
  • 保科正頼(1640-1657):会津藩世嗣。保科正之の子。江戸で生まれた。18歳で死去。岩彦霊社。
    • 岩彦神社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。
  • 保科正純(1652-1671):保科正之の子。江戸芝の屋敷で生まれる。20歳で死去。
    • 石彦神社:福島県耶麻郡猪苗代町見禰山。土津神社境内。1675年創建。
  • 諏訪方祐(1653-1741):会津諏方神社神職。用成霊神。諏方方祐。
  • 坂本義邵(1656-1727):京都出身。室町将軍足利義昭の曽孫という。江戸で幼少期から吉川惟足に学ぶ。吉川従長と共に会津を訪問し、保科正之の神葬祭に奉仕。会津では山岡塩山という者が垂加神道を教えていたが、正しくないとして排斥を進言し、保科正経はこれを採用する(垂加神道自体を排斥したようにも書かれているが不審)。江戸に帰り清和流の軍学を学ぶ。1688年再び会津に来訪し、保科正容に初めて謁見し、兵法図をみせる。のち江戸でも時々、正容に進講し、1690年に取り立てられ、会津藩士となる。神道や有職故実に通じる。足利家伝承の「源氏一張弓の法」を正容に伝授する。日学霊社。73歳。大窪山墓地に埋葬。
  • 服部尚誠(生没年不詳):服部安休の子。保科正之が晩年「今、私に仕える者は多いが死後の私に仕えるのは誰だ」と下問し、父安休が「私達父子がおるので心配いりません」と答えた。すると正之は尚誠の背を撫でて「汝が永遠に奉仕せよ」と言った。父が墓所土津神社に仕えたのに対して尚誠は会津藩江戸屋敷の霊社に奉仕した。父の死後、土津神社の神職となり、西東蔵人と名乗った。西東尚誠。
  • 佐瀬常安(1671-1722):蚕養国神社神職。佐瀬常尚の子。有真古正霊社。
  • 木本成理(1698-1771):会津藩士。木本成勝の孫。江戸留守居役になり公務の合間で跡部良顕に垂加神道を学び、藩主松平正容や世嗣松平正甫に侍講する。藩主松平容貞の意に合わないところがあり、一時閑居するが再び出仕。大目付、御用人を経て若年寄となる。垂加神道を諸士に教えた。長沼流軍学を学び、会津藩の軍学とする。死後、正親町公通から春山霊社の号を授かる。
  • 佐瀬常職(1696-1761):蚕養国神社神職。佐瀬常安の子。吉川惟足に学び、保科正之に仕える。松平容貞の侍講となる。この時「祭祀に尽くすのが神職の本分であり神書の講義は好まない」と友人にこぼすが、「君恩の重きを忘れた傲慢であり、神道の興隆を思わないのは不忠である」と諭され感動したという。日新館での神道講義を一回終えると行う「竟宴」を24回開いた。護胤神霊。社功霊社。
  • 塩田昭矩(1701-1768):会津藩柔術師範。淳厚霊社。68歳。大窪山墓地。
  • 野村俊胤(1715-1789):山彦霊社。
  • 中野義都(1728-1798):会津藩士。蘆名盛胤の子孫という。佐瀬常職に神道を学び、中江藤樹の学を慕った。江戸に出て吉川従門から三事の重位の伝授を受けた。1783年、神道師範大竹政文と共に、かつて勅賜された神額を見禰山に収めた。1788年、発布された学令に「神道猿楽をも兼ね学ぶべし」とあったのに対して「神道を遊戯と同一視するものだ」と批判した。かつて病に伏せった時、部下の東条次慎が挺身して看病。義都は回復したが次慎は数年後に死去。遺族から書物を託され読むと次慎の思いを知り驚き感激。祖霊の次に次慎の霊を祀り、遺児を育てて家を再興させた。1791年土津神社神職。翌年、吉川従門から伝授を受けた。1796年隠居。1798年死去。71歳。隠孝霊社(隠行霊社とも)。墓所は大窪山墓地。
  • 町田光忠(1729-1805):会津藩士。木本成理に学ぶ。偶窩霊社。
  • 塩田昭方(1734-1798):会津藩柔術師範。朱子学を学ぶ。柳生流剣術に長けた。柔術を小林歳重に学び、柔術師範を継ぐ。守彦霊社。大窪山墓地。
  • 伊波八重平(1734-1800):会津藩士。吉川従門、吉田良倶に学ぶ。蒼龍神霊。
  • 木本成善(1735-1801):会津藩士。木本成理の次男。若年寄。継彦霊神。
  • 田中玄宰(1748-1808):会津藩家老。容頌、容住、容衆の三代に仕える。田中正玄の四世孫。1781年家老。儒学者古屋昔陽を顧問として藩政改革を行おうと松平容頌に建言するが受け入れられず1784年病を理由に辞職。しかし翌年復職して改革案を建言し許可される。「天明の改正」という。1790年には古屋昔陽を後嗣松平容住の侍講とする。ついで藩校日新館の創設を計画し1803年に完成。同年大老となる。地誌局総裁となり『新編会津風土記』編纂に携わる。1805年、容頌が死去し、容住の代となるが、すぐに病床に伏せ、同年亡くなる。その間、終日近侍して政務をしながら看護したという。みな玄宰のことを神のようだと言ったという。1807年、蝦夷地警備のため幕府は仙台藩と会津藩に動員要請。江戸に出て松平信明に謁見。帰郷して軍備を整え1808年1月に会津軍を樺太に出兵させた。同年死去。61歳。葬儀は大竹政文が祭主を務め、忠翁霊社と諡した。1809年、『風土記』が完成し、墓前に供えられた。
    • 田中玄宰墓:福島県会津若松市門田町黒岩。小田山墓地内。城と日新館が見えるところに埋葬せよとの遺言による。
  • 大竹政文(1750-1819):会津藩神道師範。野村俊胤に学ぶ。江戸に出て吉川従門に学ぶ。重位の相伝を得て、帰郷し、1779年神道師範となる。1792年皇学師範を兼ねる。1795年松平容頌侍講。翌年京都で国学者橋本経亮や裏松光世に律令格式などを学ぶ。1801年、江戸で吉川従門から四重奥秘の伝授を受ける。江戸詰に転任。吉川従門が病のため幕府の神事を行えなくなったため、吉川家から会津藩に請願があり、1802年、政文が唯一神籬磐境の伝を伝授され、吉川家の補佐に転じる。1805年、松平容頌と松平容住の葬儀の祭主を務めた。1819年江戸で死去。70歳。玉彦霊社。本所に葬られたとあるので、吉川家邸あたりに墓があったか。
  • 塩田昭博(1761-1821):会津藩柔術師範。節彦霊社。大窪山墓地。
  • 丹羽能教(1766-1844):会津藩家老。1805年、用人頭取兼軍事奉行。翌年、軍事奉行専任となる。1808年、幕命により樺太に出兵、帰郷。1810年には相房の湾岸地域を巡察する。翌年若年寄格となる。1813年若年寄。1819年家老。1844年死去。78歳。退素霊社。
    • 丹羽能教墓:小田山墓地。大窪山墓地?
  • 西郷近思(1805-1860):会津藩家老。1819年、15歳で家督を相続し、同年、松平容敬の将軍徳川家斉謁見に随行した。1824年、若年寄。1827年家老。1857年隠居。1860年死去。56歳。憲彦霊社。院内山に墓地。
  • 橋爪盛道(1805-1880):昌平黌に官費留学。西国遊学の後、帰郷して儒者見習となる。松平容保に仕え、京都に出向し公用局に務める。戊辰戦争では軍事方に勤務。靖彦霊社。大窪山墓地。
  • 桜井政重(1819-1891):会津藩士。幕府神道方?。磐椅神社祠官。教導職大教正?。桜井豊記。
  • 大竹有文():会津藩神道師範。大竹政文の養子。吉川従方に学ぶ。
  • 大竹政教():会津藩神道師範。
  • 大竹有雄():会津藩神道師範。

生祠

参考文献

  • [2]
  • 『会津藩教育考』
  • 『国史大辞典』
  • 『日本人名大辞典』

ほか

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9E%82%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E9%81%93」より作成

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