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京都・平等寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月17日 (水)
(因幡堂から転送)
平等寺(びょうどうじ)は、京都府京都市下京区因幡堂町にある薬師信仰の真言宗寺院。本尊は薬師如来。真言宗智山派。橘氏ゆかり。元は天台宗園城寺末で、幕末まで聖護院・修験道本山派とも深い関係を持った。因幡堂、因幡薬師。山号は福聚山。(参考:同名寺院平等寺)
目次 |
歴史
- 997年(長徳3年):因幡国の賀露津(鳥取港)の海に霊光があり、国司の橘行平が漁師に調べさせると薬師如来像がみつかった。『一遍上人絵伝』では橘行平が夢想で海中に薬師如来像を発見したのは951年(天暦5年)のこととする。この薬師像は菖蒲廃寺、因幡・座光寺に一時祀られていたとも。
- 1003年(長保5年)4月:平安京の烏丸高辻の橘行平の邸宅に薬師像が飛来した。橘行平が仏堂を作って祀った。
- 1171年(承安1年):子(孫)の橘光朝が高倉天皇から勅額を賜り、平等寺と称した。
- 1097年(承徳1年)1月21日、焼失(中右記)。
- 1103年(康和5年)11月16日、焼失(本朝世紀)。
- 1108年(天仁1年)2月8日、焼失(中右記)。
- 1143年(康治2年)10月13日、焼失(百錬抄)。
- 1153年(仁平3年)4月15日、焼失(百錬抄)。
- 1159年(平治1年)11月26日、焼失(百錬抄)。
- 1161年(応保1年)、後白河上皇が御幸。
- 1171年(承安1年)4月、高倉天皇が勅命を下して平等寺とした。
- 1177年(治承1年)4月28日、焼失(「山槐記」1179年(治承3年)2月28日条)。
- 1246年(寛元4年)6月6日、焼失(百錬抄)。
- 1249年(建長1年)3月23日、焼失(百錬抄)。
- 1279年(弘安2年):一遍が参詣。
- 1391年(元中8年/明徳2年)11月10日、焼失(南方記伝)。
- 1424年(応永31年)10月9日、将軍足利義量が参籠。
- 1434年(永享6年)2月11日、焼失(看聞日記)。
- 近世:天台宗園城寺末・聖護院末だったが、近世には住職は真言宗智積院の僧侶が入るようになったらしい。ただし子院は引き続き、聖護院末だったか。
- 1869年(明治2年)、境内上地。
- 1886年(明治19年)、現在の本堂を再建。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)
八坂神社大政所御旅所が近く関係したか。
伽藍
- 本堂:本尊は薬師如来。
- 観音堂:本尊は十一面観音。空海、毘沙門天、如意輪観音、不動明王、役小角も祀る。
- 地蔵堂:
- 歓喜天堂:本尊は歓喜天。
- 十九所権現:祭神は武内宿禰(宇倍神社)と十八所明神というが由緒書に挙げられている十九所には宇倍神社は含まれていない。十九所は天照大神、八幡神、春日神、賀茂神、祇園神、愛宕神、松尾神、熊野神、北野神、山王神、住吉神、摩利支天、妙音天、弁財天、白鬚神、多賀神、平野神、御霊神、蛭子神(一童御前)。十九所明神とも。
- 祠
子院
◼︎ | 寺院名 | 概要 |
---|---|---|
1 | 薬王院 | 因幡堂執行職。大黒天、歓喜天、不動明王を祀る。八坂神社少将井御旅所少将井社を管理した(都名所図会) |
2 | 桃之坊 | |
3 | 柳之坊 | 稲荷氷室秋葉、虚空蔵を祀る。聖護院末の若王子・円成寺を兼務したらしい。本山派の先達(「諸国先達」)の一つに挙げられている(『踏雲録事』) |
4 | 西之坊 | 金毘羅を祀る。医王寺。[]清閑寺]]を兼務したらしい。聖護院門跡の院室兼帯寺院。聖護院の「寺務」を兼務したこともある。 |
5 | 桂芳院 | 稲荷、不動、役行者を祀る |
6 | 長伯寺 | 裸形阿弥陀仏を祀る。二条天皇の后の御願で円仁が造立したという。 |
7 | 金蓮寺 | 春日作の阿弥陀仏を祀る。誓願寺本尊(焼失)と同体だという。粟島明神、妙見菩薩を祀る |
8 | 角之坊 | 稲荷大明神を祀る |
画像
資料
- 因幡堂縁起絵巻
- 中野玄三1983「因幡堂縁起と因幡薬師」[1]