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上磯官修墳墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | |4人の名前を刻む面が本当の正面か。「神霊」で終わる。正面に刻まれる「隊長黒沢伝之丞」(黒沢正吉)(1838- | + | |4人の名前を刻む面が本当の正面か。「神霊」で終わる。正面に刻まれる「隊長黒沢伝之丞」(黒沢正吉)(1838-1888)は戦死者としては記録されておらず、寿命を全うしている上、静岡県出身で、この地で慰霊される必然性も薄い。黒沢伝之丞の墓碑があるという記録もない。真反対の面には複数人の列記もあり、墓碑建立に関わった人名として刻んだのが、誤って墓碑の主と認識されて何らかの時点で向きが変更された可能性を考えたい。他の墓碑と異なりどちらが正面か分かりづらい形状ではある。脇哲1981『埋もれていた箱館戦争』でも同様の見解が示されている。(未見・落合治彦「黒沢伝之丞の墓碑について」『道南の歴史を綴る会記録ー函館文化』) |
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2024年5月28日 (火) 時点における版
上磯官修墳墓は北海道北斗市中野通(渡島国上磯郡)にある官修墳墓。七重浜で戦死した弘前藩士10人・箱館府兵14人を葬る(?)。元は有川大神宮にあったが1914年(大正3年)に現在地に移転。神葬祭墓地の中にある。有川官修墳墓。
目次 |
歴史
- 1869年(明治2年)5月:総司令官清水谷侍従らは上磯村を根拠地とした。付近の戦死者23人の遺体を上磯村に集めて有川大神宮境内に埋葬。
- 1869年(明治2年)8月:松前藩士4人を福山官修墳墓に改葬。京都御親兵4人を函館官修墳墓に改葬。残りの15人は遺体の腐敗が激しかったため改葬できなかったという。
- 1914年(大正3年)3月:許可を得て神葬墓地に改葬。
墓碑
被葬者
『上磯町史・年史編』[1]より
- 01黒沢信太郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
- 02小林四郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
- 03河内友吉:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
- 04時宇之助:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
- 05高杉左膳:弘前藩司令官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 06対馬官左衛門(?):弘前藩士官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。他の史料に戦死者としてはみえない。戦後も活動した同名人物が確認できる。
- 07高杉権六郎:弘前藩士官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 08坂本友作:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 09工藤末吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 10諏訪久吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 11佐藤純吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 12中田野之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓(勝之丞?)。
- 13須藤万之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 14斉藤東八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
- 15若林栄八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
画像
参考
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