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上磯官修墳墓

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年5月28日 (火)

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(ページの作成:「'''有川官修墳墓'''は北海道北斗市中野通にある官修墳墓。七重浜で戦死した弘前藩士10人・箱館府兵14人を葬る。元は[[有川...」)
 
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'''有川官修墳墓'''は北海道北斗市中野通にある[[官修墳墓]]。七重浜で戦死した弘前藩士10人・箱館府兵14人を葬る。元は[[有川大神宮]]にあったが大正3年に現在地に移転。(現地解説板)
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[[file:上磯官修墳墓-03.jpg|thumb|500px|]]
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'''上磯官修墳墓'''は北海道北斗市中野通(渡島国上磯郡)にある[[官修墳墓]]。七重浜で戦死した弘前藩士10人・箱館府兵4人の計14人の墓碑6基がある。元は[[有川大神宮]]にあったが1914年(大正3年)に現在地に移転。[[神葬祭]]墓地の中にある。'''有川官修墳墓'''。
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==歴史==
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*1869年(明治2年)5月:総司令官清水谷侍従らは上磯村を根拠地とした。付近の戦死者23人の遺体を上磯村に集めて有川大神宮境内に埋葬。
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*1869年(明治2年)8月:松前藩士4人を[[福山官修墳墓]]に改葬。京都御親兵4人を[[函館官修墳墓]]に改葬。残りの15人は遺体の腐敗が激しかったため改葬できなかったという。
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*1914年(大正3年)3月:許可を得て神葬墓地に改葬。
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==墓碑==
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|4人の名前を刻む面が本当の正面か。「神霊」で終わる。正面に刻まれる「隊長黒沢伝之丞」(黒沢正吉)(1838-1888)は戦死者としては記録されておらず、寿命を全うしている上、静岡県出身で、この地で慰霊される必然性も薄い。黒沢伝之丞の墓碑があるという記録もない。真反対の面には複数人の列記もあり、墓碑建立に関わった人名として刻んだのが、誤って墓碑の主と認識されて何らかの時点で向きが変更された可能性を考えたい。他の墓碑と異なりどちらが正面か分かりづらい形状ではある。脇哲1981『埋もれていた箱館戦争』でも同様の見解が示されている。(未見・落合治彦「黒沢伝之丞の墓碑について」『道南の歴史を綴る会記録ー函館文化』)
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==被葬者==
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『上磯町史・年史編』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9569621/1/113]より
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*01黒沢信太郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
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*02小林四郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
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*03河内友吉:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
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*04時宇之助:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
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*05高杉左膳:弘前藩司令官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。[[函館官修墳墓]]。
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*06高杉権六郎:弘前藩士官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*07坂本友作:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*08工藤末吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*09諏訪久吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*10佐藤純吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*11中田野之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓(勝之丞?)。
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*12須藤万之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*13斉藤東八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*14若林栄八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
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*この他、弘前藩士官の対馬官左衛門が戦死者として記録されているが生存者であり、1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死という記録は誤りとみられる。
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file:上磯官修墳墓-05.jpg|「隊長黒沢伝之丞」とある。「墓」「神霊」などの表記はない。こちらは本来、側面ではないだろうか。
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==参考==
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{{北海道の官祭招魂社と官修墳墓}}
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==資料==
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*「官修墳墓明細帳」:上磯町役場簿書
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*『上磯町史・年史編』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9569621/1/113]
 +
*ウェブサイト『戊辰掃苔録』「上磯官修墳墓」[https://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/kamiisokanshufunbo.html][https://web.archive.org/web/20221029175155/https://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/kamiisokanshufunbo.html]
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[[category:北海道]]
[[category:北海道]]

2024年5月28日 (火) 時点における最新版

上磯官修墳墓-03.jpg

上磯官修墳墓は北海道北斗市中野通(渡島国上磯郡)にある官修墳墓。七重浜で戦死した弘前藩士10人・箱館府兵4人の計14人の墓碑6基がある。元は有川大神宮にあったが1914年(大正3年)に現在地に移転。神葬祭墓地の中にある。有川官修墳墓

目次

歴史

  • 1869年(明治2年)5月:総司令官清水谷侍従らは上磯村を根拠地とした。付近の戦死者23人の遺体を上磯村に集めて有川大神宮境内に埋葬。
  • 1869年(明治2年)8月:松前藩士4人を福山官修墳墓に改葬。京都御親兵4人を函館官修墳墓に改葬。残りの15人は遺体の腐敗が激しかったため改葬できなかったという。
  • 1914年(大正3年)3月:許可を得て神葬墓地に改葬。

墓碑

墓碑 所属 被葬者名 人数 備考
1 上磯官修墳墓-23.jpg 箱館府
  • 黒沢信太郎
  • 小林四郎
  • 河内友吉
  • 時宇之助
4人 4人の名前を刻む面が本当の正面か。「神霊」で終わる。正面に刻まれる「隊長黒沢伝之丞」(黒沢正吉)(1838-1888)は戦死者としては記録されておらず、寿命を全うしている上、静岡県出身で、この地で慰霊される必然性も薄い。黒沢伝之丞の墓碑があるという記録もない。真反対の面には複数人の列記もあり、墓碑建立に関わった人名として刻んだのが、誤って墓碑の主と認識されて何らかの時点で向きが変更された可能性を考えたい。他の墓碑と異なりどちらが正面か分かりづらい形状ではある。脇哲1981『埋もれていた箱館戦争』でも同様の見解が示されている。(未見・落合治彦「黒沢伝之丞の墓碑について」『道南の歴史を綴る会記録ー函館文化』)
2 上磯官修墳墓-09.jpg 弘前藩
  • 坂本友作
  • 高杉左膳
2人
3 上磯官修墳墓-10.jpg 弘前藩
  • 諏訪久吉
  • 若林栄八
2人
4 上磯官修墳墓-11.jpg 弘前藩
  • 高杉権六郎
  • 工藤末吉
2人
5 上磯官修墳墓-12.jpg 弘前藩
  • 中田野之助
  • 佐藤純吉
2人
6 上磯官修墳墓-13.jpg 弘前藩
  • 須藤万之助
  • 斉藤東八
2人

被葬者

『上磯町史・年史編』[1]より

  • 01黒沢信太郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
  • 02小林四郎:函館府大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
  • 03河内友吉:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
  • 04時宇之助:函館大砲隊士官:1869年(明治2年)5月2日夜、上磯村の七重浜の陣中で榎本道章の襲撃を受けて戦死。
  • 05高杉左膳:弘前藩司令官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓
  • 06高杉権六郎:弘前藩士官:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 07坂本友作:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 08工藤末吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 09諏訪久吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 10佐藤純吉:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 11中田野之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓(勝之丞?)。
  • 12須藤万之助:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 13斉藤東八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。
  • 14若林栄八:弘前藩兵士:1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死。函館官修墳墓。


  • この他、弘前藩士官の対馬官左衛門が戦死者として記録されているが生存者であり、1869年(明治2年)5月11日、五稜郭総攻撃の際、桔梗野で戦死という記録は誤りとみられる。

画像

参考

北海道の官祭招魂社と官修墳墓

資料

  • 「官修墳墓明細帳」:上磯町役場簿書
  • 『上磯町史・年史編』[3]
  • ウェブサイト『戊辰掃苔録』「上磯官修墳墓」[4][5]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%8A%E7%A3%AF%E5%AE%98%E4%BF%AE%E5%A2%B3%E5%A2%93」より作成

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