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錦織寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''錦織寺'''(きんしょくじ)は、滋賀県野洲市にある[[浄土真宗]]の[[本山寺院]]。[[真宗木辺派]]の本山。阿弥陀堂、御影堂と並んで[[毘沙門天信仰]] | + | '''錦織寺'''(きんしょくじ)は、滋賀県野洲市にある[[浄土真宗]]の[[本山寺院]]。[[真宗木辺派]]の本山。阿弥陀堂、御影堂と並んで[[毘沙門天信仰]]を祀る天安堂があるのが特徴。真宗寺院ながら鎮守の[[山王権現]]社があり、木部神社が隣接して一体の景観をなしている。[[親鸞]]が訪れた旧跡とされている。 |
==由緒== | ==由緒== | ||
- | + | [[鞍馬寺]]と同木で[[最澄]]が作ったとされる[[毘沙門天]]像から[[円仁]]が「野洲に一夜で松が生えたところがあり、そこに私を移せ」と夢告を受けたので、天安2年にここに堂宇を建て祭り、元号に因み'''天安堂'''と称した。 | |
- | + | 嘉禎元年(1235)、[[親鸞]]は関東から[[京都]]に戻る途中、毘沙門天の夢告を受け、この天安堂に足を運んだ。するとその晩、再び夢に毘沙門天が現れ、如来像を祀るように言われた。霞ケ浦から出現したという阿弥陀像をこの地に祭り、領主の石畠資長に帰依された。石畠資長は、願明と名乗り、寺を管理したという。 | |
- | + | ||
- | + | 滞在中、親鸞は『教行信証』の最後の2巻を完成させた(『錦織寺伝』)。その喜びを描いた御影が御影堂本尊となっている'''満足の御影'''とされる。また暦仁元年(1238)7月6日、天女が降臨し、錦を織って仏前に供えたことから[[四条天皇]]から'''天神護法錦織之寺'''の名を与えられたという。 | |
==歴史== | ==歴史== | ||
===起源1:横曽根の法流=== | ===起源1:横曽根の法流=== | ||
- | + | 小堂から発展して成立した寺が真宗には目立ち、[[善光寺如来]]堂から発展した[[専修寺]]、[[聖徳太子]]堂から発展した柳堂妙源寺や勧堂真楽寺などがある。錦織寺も毘沙門天を祭る小堂から発展と考えられている。 | |
- | + | 由緒とは別に、実際に真宗寺院として錦織寺を創建したと考えられているのは[[横曽根門徒]]の系譜を引く'''慈空'''(?-1351)という人物である。[[本願寺]]覚如の子の存覚が記した『一期記』に、慈空を「木部開山大徳」と記している。 | |
村上専精は、親鸞が逗留したのは1235年(嘉禎1年)の4月から8月の間とし、親鸞を初代とするのは名前を借りただけだと述べる(『真宗全史』)。また性信を監守を命じたのも、自分が近くの京都にいるのに関東にいる性信を呼び寄せるのは不自然と指摘し、もし事実としても有名無実のものだったとしている。 | 村上専精は、親鸞が逗留したのは1235年(嘉禎1年)の4月から8月の間とし、親鸞を初代とするのは名前を借りただけだと述べる(『真宗全史』)。また性信を監守を命じたのも、自分が近くの京都にいるのに関東にいる性信を呼び寄せるのは不自然と指摘し、もし事実としても有名無実のものだったとしている。 | ||
- | + | しかしながら、末寺に与えた本尊裏書にある系譜に[[性信]]の名があり、横曽根門徒の系譜を受け継いでいるとみてよい。一方で[[善性]]と願明を性信の次に入れる説が根強いが、日下無倫『真宗史の研究』によると、「善性と願明とは願性と善明の誤記であることは『聖空大師真影』に於ける存覚の銘文や(中略)「性信-願性-善明-愚咄、血脈如此」とある銘文によって明らかに知らるるのである」とある。愚咄と慈空は縁起では願明(石畠資長)の子とされるが、願明が願性に当たるのか、善明に当たるのかは分からない。 | |
===起源2:慈観の入寺=== | ===起源2:慈観の入寺=== | ||
- | + | 愚咄と慈空の兄弟は本願寺の'''存覚'''と懇意だった人物で、愚咄は本願寺関係の史料にも名前が出てくる。系譜には名前が入っているものの、愚咄は瓜生津で教えを広めており、錦織寺は慈空に任せていた。しかし、慈空は病のためか、後年のことを心配し、存覚を錦織寺住職に招きたいと遺言して1351年(正平6年/観応2年)に亡くなった。これを受け、兄の愚咄は存覚の下を訪れて請願。高齢のために断られるが、代わりに子の綱厳を入寺させた。この僧が'''慈観'''である。『御安心章』に詳しく述べられている。存覚は後見役を務め、たびたび錦織寺を訪れている。 | |
- | + | 慈観は広橋兼綱の猶子となる。[[広橋家]]は親鸞の生家である[[日野家]]の分家。以後、広橋家と密接な関係を保ち、広橋家の子を住職に迎えることもあった。 | |
===中世:叡尚・勝慧の離反=== | ===中世:叡尚・勝慧の離反=== | ||
- | 慈観に次いで、慈達、慈賢と継承。慈賢の時代の1453年(享徳2年) | + | 慈観に次いで、慈達、慈賢と継承。慈賢の時代の1453年(享徳2年)、[[伏見宮]]邦高親王の王子徳池宮が8歳で入寺するが2年で夭折。 |
- | + | なぜ王子を迎えたのかは分からないが、この後、錦織寺は混乱した時代を迎える。慈賢には慈範と叡尚の二人の子がいたが、慈範の死後の明応2年(1493)、弟の叡尚が錦織寺から離反し、[[本願寺]][[蓮如]]のもとに帰参するのだ。この時、末寺40寺も離反し、錦織寺に大きなダメージを与えた。叡尚の子勝慧も父に従い、蓮如に帰依。[[吉野]]の下市御坊[[大和・願行寺|願行寺]]の開山となる。当時、吉野には錦織寺門徒が多かったためともいう。 | |
===近世1:浄土宗兼学時代=== | ===近世1:浄土宗兼学時代=== | ||
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しかし、混乱は続いていたようで次の慈養は継職まで三河で育ったという。慈澄の子とされるが、「他家の子」とする記述もある。 | しかし、混乱は続いていたようで次の慈養は継職まで三河で育ったという。慈澄の子とされるが、「他家の子」とする記述もある。 | ||
- | + | この慈養が永禄12年(1569)に就任すると、[[浄土宗]]と二宗兼学となる。当時、[[織田信長]]と[[本願寺]]の抗争が激しくなっており、同じ真宗として攻められないように表向きは浄土宗を名乗ったとも言われる。 | |
- | 錦織寺にとっては過酷な時代だったが、悪いことばかりではなかった。1573年(天正1年) | + | 錦織寺にとっては過酷な時代だったが、悪いことばかりではなかった。1573年(天正1年)、[[門跡寺院]]となり、十四葉菊の紋の使用を許された。さらに江戸時代に入ると二条城で[[徳川家康]]に謁見し、寺領20石を認められたという。 |
- | + | 慈養の子、慈教が1643年(寛永20年)に死去すると1726年(享保11年)まで長い無住の時代が続く。広橋家から養子を迎えたこともあったが12歳で早世。浄土宗兼学は続いており、『和漢三才図会』にも「浄土兼一向」とある。住職の代わりに看坊職が置かれ、寺務を司ったが、1668年(寛文8年)、看坊職の'''忍誉'''が兼学を廃して浄土宗専修の寺院にしようと試みるなどの事件があった。忍誉は寺社奉行の判決で追放される。 | |
伽藍の衰微も激しい。天正年間に創建以来の大火災に見舞われ、多くの寺宝が失われたのについで、1694年(元禄7年)にも火災があった。 | 伽藍の衰微も激しい。天正年間に創建以来の大火災に見舞われ、多くの寺宝が失われたのについで、1694年(元禄7年)にも火災があった。 | ||
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===近世2:復興時代=== | ===近世2:復興時代=== | ||
- | 1697年(元禄10年) | + | 1697年(元禄10年)、桂昌院(徳川家光側室、綱吉生母)から200両などを寄進され、御影堂の再建に取り掛かり、1701年(元禄14年)、竣工。にわかに活気づく。享保年間には兼学をやめ、浄土真宗専修にする動きが出る。同意しない信者が錦織寺を去るが、真宗の立場からすれば、次世代への胎動ともいえる。 |
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1726年(享保11年)、約80年ぶり(異説あり)に住職を迎え、復興の時代となる。旧縁の広橋家から7歳の良慈が相続することが決定。宗派も兼学を廃し、真宗専修に復帰した。 | 1726年(享保11年)、約80年ぶり(異説あり)に住職を迎え、復興の時代となる。旧縁の広橋家から7歳の良慈が相続することが決定。宗派も兼学を廃し、真宗専修に復帰した。 | ||
- | さらに1735年(享保20年) | + | さらに1735年(享保20年)には[[東山天皇]]の御殿を大広間として[[閑院宮]]から下賜された(現存)。1809年(文化6年)、関白の一条輝良の子である宅慈を住職に迎えることができたのも、寺の運営が安定した証だろう。宅慈の代には改めて[[門跡]]とされている。 |
宝くじの興行などで資金を得て1786年(天明6年)、講堂再建。1826年(文政9年)、数年前の地震で被害を受けた講堂再建。1831年(天保2年)阿弥陀堂を再建。1861年(文久1年)、天安堂を再建。寺観が整った。教学振興も図られ、1847年(弘化4年)、安居(研修会)を主催する信解社が設立された。 | 宝くじの興行などで資金を得て1786年(天明6年)、講堂再建。1826年(文政9年)、数年前の地震で被害を受けた講堂再建。1831年(天保2年)阿弥陀堂を再建。1861年(文久1年)、天安堂を再建。寺観が整った。教学振興も図られ、1847年(弘化4年)、安居(研修会)を主催する信解社が設立された。 | ||
===近現代=== | ===近現代=== | ||
- | 1872年(明治5年) | + | 1872年(明治5年)、真宗公称許可され、明治政府から5本山の一つに認められた。18代賢慈は権少教正となる。1876年(明治9年)に[[明治天皇]]から親鸞に'''見真大師'''の号が贈られ、1881年(明治14年)には「見真」額が下賜された。しかし、[[広橋家]]から迎えた淳慈にも子がおらず、1896年(明治29年)、[[西本願寺]]大谷伯爵家から光尊の次男尊行を迎え、'''木辺孝慈'''と称し、華族男爵に列せられた。孝慈は勉学に励むと共に、全国で積極的に布教。勢力拡大に努めた。 |
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==伽藍== | ==伽藍== | ||
- | + | 御影堂と阿弥陀堂がならぶ、いわゆる両堂並立様式の[[寺院|伽藍配置]]だが、両堂に続いて[[毘沙門天]]を祀る天安堂も並ぶのが最大の特徴。移転の歴史がないためか、伽藍は[[本願寺]]や[[専修寺]]のような東面ではなく、南面(南南西)している。門を入って正面にあるのが御影堂なので、御影堂が本堂なのだろう。1701年(元禄14年)再建の御影堂は二宗兼学時代の形態を後世に改造したものという。『教行信証』を書き終えた親鸞の喜びの姿を描いたとされる'''満足の御影'''が祀られている。阿弥陀堂はその東側にあり、常陸国の霞ケ浦から出現し、親鸞が木部まで背負ってきたとされる[[阿弥陀如来]]坐像を祀る。1831年(天保2年)再建。天安堂は1861年(文久1年)の再建で、[[毘沙門天]]は[[最澄]]が彫り、[[円仁]]が祀ったとされる。天安堂とは天安年間の元号に因むとされるが、毘沙門天を奉安する堂の意味だろう。天安堂の背後には[[親鸞]]の墓とされる[[御廟]]がある。御影堂の脇には講堂(集会所)がある。 | |
- | + | また鎮守として山王権現社がある。隣接して木部神社がある。木部神社との関係は、各文献ともお互いの存在を黙殺しており不詳だが、事実上、一体の景観をなしており、なんらかの関係があったとみるべきである。錦織寺の古図にも神社は描かれている。 | |
- | + | 講堂の南側には寺務所・宗務所があり、大玄関、[[東山天皇]]の御殿から移築した書院、小書院、御因講御斎の間、庭園、会館、茶室、門主墓地などがある。親鸞が笈を掛けたという笈掛松の跡もある。 | |
- | + | 門前には塔頭寺院と思われる宝樹院、法雲院がある。近隣には親鸞旧跡の'''藤塚'''や'''やいたの河原'''がある。 | |
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|1187-1275 | |1187-1275 | ||
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|1235-1300 | |1235-1300 | ||
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- | | | + | |親鸞の孫、[[善鸞]]の子。法脈上の歴代。 |
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- | | | + | |'''慈観'''(綱厳) |
|1334-1419 | |1334-1419 | ||
|1351-? | |1351-? | ||
- | | | + | |中興と呼ばれる。存覚の七子。広橋兼綱の猶子。幼名は光威丸。[[随心院]]経厳に師事。[[東大寺]]で学び、[[青蓮院]]に入る。愚咄の要請で錦織寺に入る。『錦織寺宗門血脈譜』『浄土宗一流血脈譜系』を記す。1392年(明徳3年)、父の著書『六要鈔』を本願寺善如に伝える。『日本仏家人名辞書』には「その終わるところを知らず」とある。 |
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|1446-1455 | |1446-1455 | ||
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- | | | + | |[[伏見宮]]邦高親王の王子。8歳で入寺し、10歳で死去。『大谷本願寺通紀』では歴代に含めていない。 |
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- | | | + | |'''慈養'''(賢昭) |
|1549-1637 | |1549-1637 | ||
|1569-1622 | |1569-1622 | ||
- | | | + | |広橋国光の猶子。「錦織寺年表」に慈澄の子で「継職まで三河の国で育つ」とあるが、『日本仏家人名辞書』には「他家の人」とある。この代から[[浄土宗]]と兼学となる。二条城で[[徳川家康]]に謁見し、寺領20石を認められた(『人名辞書』には1681年(天和1年)とあるが1615年(元和1年)か)。 |
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|14 | |14 | ||
- | | | + | |'''良慈'''(昭厳) |
|1720-1787 | |1720-1787 | ||
|1726-1787 | |1726-1787 | ||
- | | | + | |中興。広橋豊忠の子。[[京極宮]]家仁親王の猶子。 |
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|20 | |20 | ||
- | | | + | |'''木辺孝慈'''(尊行) |
|1881-1969 | |1881-1969 | ||
|1896-1969 | |1896-1969 | ||
- | | | + | |'''西本願寺'''大谷光尊の次男。男爵。 |
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2016年8月16日 (火) 時点における版
錦織寺(きんしょくじ)は、滋賀県野洲市にある浄土真宗の本山寺院。真宗木辺派の本山。阿弥陀堂、御影堂と並んで毘沙門天信仰を祀る天安堂があるのが特徴。真宗寺院ながら鎮守の山王権現社があり、木部神社が隣接して一体の景観をなしている。親鸞が訪れた旧跡とされている。
目次 |
由緒
鞍馬寺と同木で最澄が作ったとされる毘沙門天像から円仁が「野洲に一夜で松が生えたところがあり、そこに私を移せ」と夢告を受けたので、天安2年にここに堂宇を建て祭り、元号に因み天安堂と称した。
嘉禎元年(1235)、親鸞は関東から京都に戻る途中、毘沙門天の夢告を受け、この天安堂に足を運んだ。するとその晩、再び夢に毘沙門天が現れ、如来像を祀るように言われた。霞ケ浦から出現したという阿弥陀像をこの地に祭り、領主の石畠資長に帰依された。石畠資長は、願明と名乗り、寺を管理したという。
滞在中、親鸞は『教行信証』の最後の2巻を完成させた(『錦織寺伝』)。その喜びを描いた御影が御影堂本尊となっている満足の御影とされる。また暦仁元年(1238)7月6日、天女が降臨し、錦を織って仏前に供えたことから四条天皇から天神護法錦織之寺の名を与えられたという。
歴史
起源1:横曽根の法流
小堂から発展して成立した寺が真宗には目立ち、善光寺如来堂から発展した専修寺、聖徳太子堂から発展した柳堂妙源寺や勧堂真楽寺などがある。錦織寺も毘沙門天を祭る小堂から発展と考えられている。
由緒とは別に、実際に真宗寺院として錦織寺を創建したと考えられているのは横曽根門徒の系譜を引く慈空(?-1351)という人物である。本願寺覚如の子の存覚が記した『一期記』に、慈空を「木部開山大徳」と記している。
村上専精は、親鸞が逗留したのは1235年(嘉禎1年)の4月から8月の間とし、親鸞を初代とするのは名前を借りただけだと述べる(『真宗全史』)。また性信を監守を命じたのも、自分が近くの京都にいるのに関東にいる性信を呼び寄せるのは不自然と指摘し、もし事実としても有名無実のものだったとしている。
しかしながら、末寺に与えた本尊裏書にある系譜に性信の名があり、横曽根門徒の系譜を受け継いでいるとみてよい。一方で善性と願明を性信の次に入れる説が根強いが、日下無倫『真宗史の研究』によると、「善性と願明とは願性と善明の誤記であることは『聖空大師真影』に於ける存覚の銘文や(中略)「性信-願性-善明-愚咄、血脈如此」とある銘文によって明らかに知らるるのである」とある。愚咄と慈空は縁起では願明(石畠資長)の子とされるが、願明が願性に当たるのか、善明に当たるのかは分からない。
起源2:慈観の入寺
愚咄と慈空の兄弟は本願寺の存覚と懇意だった人物で、愚咄は本願寺関係の史料にも名前が出てくる。系譜には名前が入っているものの、愚咄は瓜生津で教えを広めており、錦織寺は慈空に任せていた。しかし、慈空は病のためか、後年のことを心配し、存覚を錦織寺住職に招きたいと遺言して1351年(正平6年/観応2年)に亡くなった。これを受け、兄の愚咄は存覚の下を訪れて請願。高齢のために断られるが、代わりに子の綱厳を入寺させた。この僧が慈観である。『御安心章』に詳しく述べられている。存覚は後見役を務め、たびたび錦織寺を訪れている。
慈観は広橋兼綱の猶子となる。広橋家は親鸞の生家である日野家の分家。以後、広橋家と密接な関係を保ち、広橋家の子を住職に迎えることもあった。
中世:叡尚・勝慧の離反
慈観に次いで、慈達、慈賢と継承。慈賢の時代の1453年(享徳2年)、伏見宮邦高親王の王子徳池宮が8歳で入寺するが2年で夭折。
なぜ王子を迎えたのかは分からないが、この後、錦織寺は混乱した時代を迎える。慈賢には慈範と叡尚の二人の子がいたが、慈範の死後の明応2年(1493)、弟の叡尚が錦織寺から離反し、本願寺蓮如のもとに帰参するのだ。この時、末寺40寺も離反し、錦織寺に大きなダメージを与えた。叡尚の子勝慧も父に従い、蓮如に帰依。吉野の下市御坊願行寺の開山となる。当時、吉野には錦織寺門徒が多かったためともいう。
近世1:浄土宗兼学時代
慈範の死後、しばらく無住となるが、広橋家から養子を迎え、慈澄が就く。 しかし、混乱は続いていたようで次の慈養は継職まで三河で育ったという。慈澄の子とされるが、「他家の子」とする記述もある。
この慈養が永禄12年(1569)に就任すると、浄土宗と二宗兼学となる。当時、織田信長と本願寺の抗争が激しくなっており、同じ真宗として攻められないように表向きは浄土宗を名乗ったとも言われる。
錦織寺にとっては過酷な時代だったが、悪いことばかりではなかった。1573年(天正1年)、門跡寺院となり、十四葉菊の紋の使用を許された。さらに江戸時代に入ると二条城で徳川家康に謁見し、寺領20石を認められたという。
慈養の子、慈教が1643年(寛永20年)に死去すると1726年(享保11年)まで長い無住の時代が続く。広橋家から養子を迎えたこともあったが12歳で早世。浄土宗兼学は続いており、『和漢三才図会』にも「浄土兼一向」とある。住職の代わりに看坊職が置かれ、寺務を司ったが、1668年(寛文8年)、看坊職の忍誉が兼学を廃して浄土宗専修の寺院にしようと試みるなどの事件があった。忍誉は寺社奉行の判決で追放される。
伽藍の衰微も激しい。天正年間に創建以来の大火災に見舞われ、多くの寺宝が失われたのについで、1694年(元禄7年)にも火災があった。
近世2:復興時代
1697年(元禄10年)、桂昌院(徳川家光側室、綱吉生母)から200両などを寄進され、御影堂の再建に取り掛かり、1701年(元禄14年)、竣工。にわかに活気づく。享保年間には兼学をやめ、浄土真宗専修にする動きが出る。同意しない信者が錦織寺を去るが、真宗の立場からすれば、次世代への胎動ともいえる。
1726年(享保11年)、約80年ぶり(異説あり)に住職を迎え、復興の時代となる。旧縁の広橋家から7歳の良慈が相続することが決定。宗派も兼学を廃し、真宗専修に復帰した。 さらに1735年(享保20年)には東山天皇の御殿を大広間として閑院宮から下賜された(現存)。1809年(文化6年)、関白の一条輝良の子である宅慈を住職に迎えることができたのも、寺の運営が安定した証だろう。宅慈の代には改めて門跡とされている。
宝くじの興行などで資金を得て1786年(天明6年)、講堂再建。1826年(文政9年)、数年前の地震で被害を受けた講堂再建。1831年(天保2年)阿弥陀堂を再建。1861年(文久1年)、天安堂を再建。寺観が整った。教学振興も図られ、1847年(弘化4年)、安居(研修会)を主催する信解社が設立された。
近現代
1872年(明治5年)、真宗公称許可され、明治政府から5本山の一つに認められた。18代賢慈は権少教正となる。1876年(明治9年)に明治天皇から親鸞に見真大師の号が贈られ、1881年(明治14年)には「見真」額が下賜された。しかし、広橋家から迎えた淳慈にも子がおらず、1896年(明治29年)、西本願寺大谷伯爵家から光尊の次男尊行を迎え、木辺孝慈と称し、華族男爵に列せられた。孝慈は勉学に励むと共に、全国で積極的に布教。勢力拡大に努めた。
伽藍
御影堂と阿弥陀堂がならぶ、いわゆる両堂並立様式の伽藍配置だが、両堂に続いて毘沙門天を祀る天安堂も並ぶのが最大の特徴。移転の歴史がないためか、伽藍は本願寺や専修寺のような東面ではなく、南面(南南西)している。門を入って正面にあるのが御影堂なので、御影堂が本堂なのだろう。1701年(元禄14年)再建の御影堂は二宗兼学時代の形態を後世に改造したものという。『教行信証』を書き終えた親鸞の喜びの姿を描いたとされる満足の御影が祀られている。阿弥陀堂はその東側にあり、常陸国の霞ケ浦から出現し、親鸞が木部まで背負ってきたとされる阿弥陀如来坐像を祀る。1831年(天保2年)再建。天安堂は1861年(文久1年)の再建で、毘沙門天は最澄が彫り、円仁が祀ったとされる。天安堂とは天安年間の元号に因むとされるが、毘沙門天を奉安する堂の意味だろう。天安堂の背後には親鸞の墓とされる御廟がある。御影堂の脇には講堂(集会所)がある。
また鎮守として山王権現社がある。隣接して木部神社がある。木部神社との関係は、各文献ともお互いの存在を黙殺しており不詳だが、事実上、一体の景観をなしており、なんらかの関係があったとみるべきである。錦織寺の古図にも神社は描かれている。
講堂の南側には寺務所・宗務所があり、大玄関、東山天皇の御殿から移築した書院、小書院、御因講御斎の間、庭園、会館、茶室、門主墓地などがある。親鸞が笈を掛けたという笈掛松の跡もある。
門前には塔頭寺院と思われる宝樹院、法雲院がある。近隣には親鸞旧跡の藤塚ややいたの河原がある。
組織
留守職
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 性信 | 1187-1275 | ||
2 | 願性 | |||
3 | 善明 | |||
4 | 愚咄 | ?-1352 | 存覚と懇意だった。 | |
5 | 慈空 | ?-1351 | 実質的な開山。『存覚一期記』によると、慈空は「木部開山大徳」と呼ばれている。存覚に錦織寺住職就任を依頼するが、高齢のため断れる。 |
住職
法主、門主ともいう。カッコ内は看坊
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 親鸞 | 1173-1262 | (法脈) | 宗祖。錦織寺の起源となった天安堂に滞在したとされる。 |
2 | 如信 | 1235-1300 | (法脈) | 親鸞の孫、善鸞の子。法脈上の歴代。 |
3 | 覚如(宗昭) | 1270-1351 | (法脈) | 親鸞の曾孫、覚恵の子。法脈上の歴代。 |
4 | 存覚(光玄) | 1290‐1373 | (法脈) | 覚如の子。法脈上の歴代。 |
5 | 慈観(綱厳) | 1334-1419 | 1351-? | 中興と呼ばれる。存覚の七子。広橋兼綱の猶子。幼名は光威丸。随心院経厳に師事。東大寺で学び、青蓮院に入る。愚咄の要請で錦織寺に入る。『錦織寺宗門血脈譜』『浄土宗一流血脈譜系』を記す。1392年(明徳3年)、父の著書『六要鈔』を本願寺善如に伝える。『日本仏家人名辞書』には「その終わるところを知らず」とある。 |
6 | 慈達(綱昭) | 1365-1431 | 不詳 | 慈観の長子。瑞応院。広橋仲光の猶子。 |
7 | 慈賢(辺厳) | 1393-1461 | 1429- | 慈達の子。広橋兼宜の猶子。子に、跡を継いだ慈範、本願寺に転派した叡尚がいる。著書『現世利益和讃鈔』 |
8 | 慈光 | 1446-1455 | 伏見宮邦高親王の王子。8歳で入寺し、10歳で死去。『大谷本願寺通紀』では歴代に含めていない。 | |
9 | 慈範(観昭) | 1446-1489 | 慈賢の長子。広橋兼卿の猶子。弟叡尚は錦織寺を離れ、子の兼為(勝恵)と共に本願寺に帰属する。 | |
10 | 慈澄(教厳) | 1489-1573 | 広橋兼秀の実子。幼名は御寿丸。一説に「慈証(慈證)」という。 | |
11 | 慈養(賢昭) | 1549-1637 | 1569-1622 | 広橋国光の猶子。「錦織寺年表」に慈澄の子で「継職まで三河の国で育つ」とあるが、『日本仏家人名辞書』には「他家の人」とある。この代から浄土宗と兼学となる。二条城で徳川家康に謁見し、寺領20石を認められた(『人名辞書』には1681年(天和1年)とあるが1615年(元和1年)か)。 |
12 | 慈教(勝厳) | 1588-1643 | 1622-1643 | 慈養の子。広橋兼勝の猶子。(『日本仏家人名辞書』では慈養の弟子とある) |
(理道) | (1643-?) | |||
(正誉) | (?-1654) | |||
13 | 慈統(信昭) | 1649-1660 | 1654-1660 | 広橋兼賢の実子。12歳で死去。 |
(渓岩) | (1660-?) | |||
(古白) | (?-?) | |||
(蓮清) | (?-1664) | |||
(忍誉) | (1664-1668) | |||
(慈顕) | ?-1669 | (1668-1669) | 鑑誉とも。 | |
(詫誉) | ?-1669 | (1669-1669) | ||
(慈忠) | ?-1707 | (1669-1682) | 『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている | |
(天暦) | (1682-?) | |||
(禽雄) | (?-?) | |||
(利天) | (?-1690) | |||
(慈綱) | ?-1710 | (1690-1710) | 穏誉とも。『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている。 | |
(慈仁) | ?-1725 | (1710-1725) | 真如とも。『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている。 | |
14 | 良慈(昭厳) | 1720-1787 | 1726-1787 | 中興。広橋豊忠の子。京極宮家仁親王の猶子。 |
15 | 常慈(良厳) | 1744-1819 | 1787-1809 | 良慈の子。京極宮家仁親王の猶子。1787年(天明7年)就任。 |
16 | 宅慈(常昭) | 1787-1846 | 1809-1846 | 関白一条輝良の子。俗名は家昭、忠厚。無量寿院。 |
17 | 歓慈(常厳) | 1815-1844 | 宅慈の子。「観慈」とも(『望月仏教大辞典』)。「錦織寺年表」には「伝燈」欄から外されているが、欠落か。 | |
18 | 木辺賢慈(良昭) | 1842-1885 | 1846-1885 | 歓慈の子。権少教正。 |
19 | 木辺淳慈 | 1871-1899 | 1885- | 広幡忠礼の子。 |
20 | 木辺孝慈(尊行) | 1881-1969 | 1896-1969 | 西本願寺大谷光尊の次男。男爵。 |
21 | 木辺宣慈 | 1912-1990 | 1969-1990 | 孝慈の子。 |
22 | 木辺円慈 | 1939- | 1990- | 木邊圓慈 |