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越前・本覚寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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和田門徒の信性が創建。1311年(応長1年)、[[覚如]]に帰依して[[本願寺]]教団に組み込まれた。のち分裂して[[超勝寺]]や[[性宗寺]]が分立するが、越前国で圧倒的な力をふるった。 | 和田門徒の信性が創建。1311年(応長1年)、[[覚如]]に帰依して[[本願寺]]教団に組み込まれた。のち分裂して[[超勝寺]]や[[性宗寺]]が分立するが、越前国で圧倒的な力をふるった。 | ||
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1591年(天正19年)の末寺帳には110寺が記されている。 | 1591年(天正19年)の末寺帳には110寺が記されている。 | ||
- | 北庄柳町に移り1659年(万治2年) | + | 福井別院の創建と共にその後見役に任じられた。 |
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(『日本歴史地名大系』) | (『日本歴史地名大系』) |
2022年5月8日 (日) 時点における版
本覚寺(ほんがくじ)は、福井県吉田郡永平寺町東古市にある浄土真宗寺院。元は高田門徒系の和田門徒の中核的寺院の一つだった。超勝寺と共に越前一向一揆の拠点。追放されて加賀に一時移転し帰還。戦前は福井別院の近くにあった。加賀にも小松本覚寺がある。和田本覚寺。浄土真宗本願寺派。山号は和田山。(参考:同名寺院本覚寺)
和田門徒の信性が創建。1311年(応長1年)、覚如に帰依して本願寺教団に組み込まれた。のち分裂して超勝寺や性宗寺が分立するが、越前国で圧倒的な力をふるった。 蓮如が越前国吉崎に吉崎御坊を建てることができたのも本覚寺蓮光の支援があったからだという。 蓮如退去後の吉崎御坊の留守を預かり、吉崎殿とも呼ばれた。
1506年(永正3年)の越前一向一揆で朝倉氏に敗北して加賀に逃れた。 1531年(享禄4年)の大小一揆(享禄錯乱)では、本覚寺と超勝寺は本願寺勢と結び付いて、加賀在地の松岡寺、加賀・本泉寺、光教寺、願得寺の加賀四寺と対立して勝利した。 1568年(永禄11年)、朝倉氏と和睦して越前国に帰還した。 1591年(天正19年)の末寺帳には110寺が記されている。 福井別院の創建と共にその後見役に任じられた。 北庄柳町に移り1659年(万治2年)の大火で焼失して表御堂町(福井別院の近く)に移転。1945年(昭和20年)の空襲で被災して現在地に移った。
(『日本歴史地名大系』)
組織
歴代住職
- 信性()<>:親性。和田円善の子とも、波多野義重の子ともいう。
- 長若丸
- 蓮光()<>:
- 蓮恵()<>:
- 実恵()<>:
- 証寿()<>:証授
- 顕正()<>:
- 准正()<>:
- 良慧()<>:
- 良栄()<>:
- 良秀()<>:
- 寂永()<>:
- 寂清(1664-1721)<>:峻諦。良秀の子。勝授寺に入る。院室となる。上京して知空に学ぶ。1721年(享保6年)1月5日死去。58歳。
- 本証(1785-1862)<>:覚厳。勧学。1862年(文久2年)死去。78歳。顕真院。
- 波多野広善()<>:
- 波多野尊照()<>:
- 波多野昭堅()<>: