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誓願寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
誓願寺 せいがんじ | |
概要 | 浄土宗西山派深草流の拠点寺院。 |
奉斎 | 阿弥陀如来 |
所在地 | 京都府京都市中京区桜之町453 |
所在地(旧国郡) | 山城国 |
所属(現在) | 浄土宗西山深草派 |
格式など | 浄土宗西山深草派 総本山 |
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目次 |
概要
浄土宗西山派深草流の中心寺院。現在は浄土宗西山深草派の総本山。
奉斎
本尊は阿弥陀如来。
当初の本尊は賢問子、芥子国の親子による作で、それぞれ地蔵菩薩、観音菩薩の化身とされ、また二人は春日明神の化身とされた。 しかし、幕末に本尊は焼失。現在の本尊は石清水八幡宮の本地仏(山内寺院の本尊か?)を明治初年に遷座したものという。
歴史
古代
天智天皇6年(667)、天智天皇の勅願によって奈良に創建。三論宗の恵隠が開山とされる。 鎌倉時代初期に一条小川に移転。あるいは平安遷都とともに平安京に遷ったともいう。
中世
平安時代末期、法然がたびたび参籠していたところ、1175年(安元1年)、21代蔵俊から譲られて22代となったという。さらに証空、円空が継承したとされる。 25代如円以来、真宗院と龍護院(歓喜心院)を兼帯したとされる。 1410年(応永17年)、後亀山天皇皇子が38代道禅に就いて出家し、真阿と名乗った。足利義教の帰依を受けたという。 1467年(応仁1年)、応仁の乱が勃発し焼失。1509年(永正6年)、仮堂を再建。
近世
1574年(天正2年)、仮堂が焼失。同年、現在地の京極三条に移転した(あるいは1591年(天正19年)、豊臣秀吉による都市計画で移転[1])。1597年(慶長2年)、53代教山善誉が中興して諸堂を復興させ、大規模寺院となった。
1788年(天明8年)1月の京都大火(天明の大火)で焼失。1791年(寛政3年)綸旨を得て勧進を開始。1807年(文化4年)3月10日、上棟。1813年(文化10年)遷座。
応仁の乱で衰退して以来、法系が混乱し、西谷流の東西本山(粟生光明寺と禅林寺)末から相続が行われており、深草流は慨嘆する状況であった。55代策伝の晋山に始まり、1678年(延宝6年)の60代典空玄山から西谷流からの晋山が続いた。1802年(享和2年)6月、73代い空(頥空)は妙心寺から昇進して相続。13代120年ぶりの深草流からの晋山であった。東西本山と交渉して深草の正統をもって住職とすることを約したが、その死後、西谷流の住職が2代続いて相続した。そのため、76代励空のとき、争論に及び、「公議の裁断」をもって深草の法灯を継ぐものとした。明治以後、西谷流のものが入ることもあったが、明治初年に就任した哲空隆賢を除いて、深草の相承を受けている。
なお、55代の安楽庵策伝は落語の開祖として知られる。幕末、大勧進職に就いた願空誓阿は、滝行を長年行い、各地に名号を残した行者である。
近代
天保年間、弘化年間、元治年間に3度の火災に会う。特に1864年(元治1年)8月の火災では諸堂および本尊を焼失してしまう。 明治初年、京都府は新京極商店街を設置したため、境内地の一部が上地され、広大な境内は縮小されてしまった。1852年(嘉永5年)から1869年(明治2年)に至るまで無住の状態に襲った惨事であった。
1869年(明治2年)、哲空隆賢が住職に就任し、5月、石清水八幡宮の本地仏を迎え、本尊とした。1874年(明治7年)本堂再建。1964年(昭和39年)現在の本堂が建立された。
諸社諸堂
かつては本堂のほか、開山堂、釈迦堂、三重塔、地蔵堂、鎮守春日社、十三仏堂などがあった。明治初年の新京極商店街の設置で、境内を大きく削られた。
画像
参考文献
- 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版
- 善導大師千三百年大遠忌事務局教宣部、1980年(昭和55年)『深草史 改訂版』
脚注
- ↑ 誓願寺ウェブサイト