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名和神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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名和神社
なわ じんじゃ
Nawa-jinja 001.jpg
概要 南朝忠臣を奉斎する神社。
奉斎 名和長年
(土岐昌訓論文)
所在地 鳥取県西伯郡大山町名和556
所在地(旧国郡)
所属(現在) 神社本庁
格式など 別格官幣社別表神社
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目次

概要

名和神社(なわ・じんじゃ)は、西伯郡大山町にある南朝武将名和長年を祀る霊社。別格官幣社。長年の墓は、南東900mにある長綱寺名和家長綱寺墓地にある。

奉斎

歴史

前史

  • 1336年(延元1年/建武3年)6月30日:名和長年、京都で戦死。名和長年殉節地
  • 承応明暦頃:地元の住民が名和氏の屋敷跡に祠を創建。氏殿権現と呼ばれた。
  • 1677年(延宝5年)10月:鳥取藩主池田光仲が日吉坂の傍らの山王権現の境内に社殿を造営した。大窪友尚の建言によるという。古い木像があったが大窪友尚は木像を新たに彫刻し、旧像は胎内に納めたという。
  • 年月不詳:車尾村の深田某、氏殿神社境内に臣神社を鎮祭(『名和神社略縁記』)
  • 1686年(貞享3年):福住道祐、大窪友尚の依頼で「氏殿権現祠堂再興遺造記」を記す。
  • 1690年(元禄3年)8月:水戸藩士森尚謙、大窪友尚の依頼で建碑のための「故伯耆守名和君」の文を作る。建碑は実現せず。
  • 藩主池田綱清、社領2石1斗を寄進
  • 1797年(寛政9年)11月:池田治道、屋敷跡に建碑を企画し、箕浦徳胤が撰文する。池田治道は翌年死去し、計画は中断。
  • 1835年(天保6年)8月:池田斉訓、屋敷跡に、箕浦徳胤撰文を刻み「名和神君碑」を建立。
  • 1857年(安政4年)6月:(富豪橋井富三郎、船上山に「船上山之碑」を建立。)
  • 1858年(安政5年)5月:藩主池田慶徳が「故伯耆守名和君碑」を建立[1]。鳥取藩儒者の正墻薫が実施。
  • 1858年(安政5年)10月:(正墻薫、「元弘帝着船処」碑を建立[2]。同碑は1886年(明治19年)3月火災で焼損。1905年(明治38年)10月再建(元弘史跡船上山遺事)。)
  • 1859年(安政6年):鳥取藩、池田家家紋の使用を許可
  • 1861年(文久1年):汗入郡内の勧進許可。
  • 1862年(文久2年):(国学者門脇重綾、『名和氏紀事』を記す。)
  • 1862年(文久2年)3月:橋井富三郎、「名和氏倉址之碑」建立。
  • 1864年(元治1年)5月10日:赤石逸蔵が御霊代の木像を書写し、森田節斎が「名和公肖像記」を記す。

名和神社の成立

  • 1868年(明治1年)3月:山陰道鎮撫総督西園寺公望、出雲に向かう途中に参拝。
  • 1869年(明治2年)2月10日:池田慶徳、社殿を造営(近代の神社景観)
  • 1873年(明治6年):県社に列格。氏殿神社と改称。74年とも
  • 1876年(明治9年)6月22日:鳥取県から教部省、氏殿神社を国幣社に列するように伺う。[3]
  • 1876年(明治9年)10月28日:氏殿神社祠官糟谷末枝から教部省、別格官幣社に列するように建言。一族名簿添付。[4]
  • 1876年(明治9年)11日:池田慶徳から宮内省に建言。贈位と別格官幣社に列することを建言。[5]
  • 1876年(明治9年)12月16日:島根県から教部省に具申。楠木正成新田義貞に倣って官幣社に列格し、一門殉難者の霊を慰めることを願う。[6]
  • 1877年(明治10年)10月20日:内務省、氏殿神社と菊池神社藤島神社と同様に別格官幣社に列格するように上申。[7]
  • 1877年(明治10年)10月26日:書記官議案作成。氏殿神社の別格官幣社列格と社号改定、殉難将士の配祀をまとめる。[8]
  • 1877年(明治10年)11月19日:書記官から式部寮へ照会。氏殿神社社格が決まったので、御祭文の調査を依頼。[9]
  • 1877年(明治10年)11月20日:池田輝知から建言(内務省へ?)。池田慶徳の請願の採用を願う。この文書を12/11内務省から上申。[10]
  • 1877年(明治10年)12月7日:式部寮から上申。御祭文案提出し、勅使として地方官参向を提案。12/10書記官から上申。[11]
  • 1877年(明治10年)12月24日:式部寮上申に認可。[12]
  • 1878年(明治11年)1月10日:別格官幣社に昇格(菊池神社と同時)。名和神社と改称。名和長重ほか家臣41柱を配祀。祭典の神饌幣帛料として金15円。[13]
  • 1878年(明治11年)3月20日:別格官幣社列格祭典(3/27式部寮報告[14][15])。勅使として島根県令境二郎が参向(船上山史)。
  • 1878年(明治11年)4月27日:名和神社、日吉神社と臣神社を末社とするように出願。5月13日許可。(『名和神社略縁記』)
  • 1878年(明治11年)5月11日:式部寮と宮内省が上申。例祭日。[16][17]
  • 1878年(明治11年)5月14日:書記官議案。談山神社の例に基づき式部寮の上申を認める。[18][19]
  • 1878年(明治11年)5月21日:例祭日を8月15日と定める。[20][21]

社殿造営と贈位

  • 1878年(明治11年)6月19日:島根県から内務省に上申。社殿造営について。[22]
  • 1878年(明治11年)8月31日:内務省から島根県へ指令。社殿造営の詳細な見積を命じる。[23]
  • 1878年(明治11年)11月15日:島根県から内務省に上申。社殿造営費の見積5507円。[24]
  • 1878年(明治11年)12月21日:内務省、制限図に基づく社殿造営を上申。金4759円を3か年で府県営繕費支出見込み。[25]
  • 1878年(明治11年)12月25日:調査局から大蔵省。造営許可につき取調を通達。[26]
  • 1879年(明治12年)1月17日:社殿造営を許可[27]
  • 1879年(明治12年)10月30日:名和神社の順序を湊川神社の次位とする。
  • 1879年(明治12年)11月22日:島根県、旧社殿を元社として残すように伝達したという(『名和神社略縁記』)
  • 1880年(明治13年)12月8日:名和神社宮司名和十郎、内務省に「元社奉務上之義伺」提出。現在の社殿を元社として残すこと、御霊代は「偶像」であり腐食の恐れがあるためこれは神宝とし、新しく本社と元社の御霊代の調進を請願。元社のため仮拝殿と社務所をそのまま残してほしいこと。元社奉仕のため交代で1人詰めるのを認めてほしいこと。その由緒により末社のうち日吉神社は元社のまま残し、臣神社は本社に遷座してほしいこと。12/17島根県から内務省に進達。[28]
  • 1881年(明治14年)1月14日:内務省社寺局から式部寮に照会。御霊代は式部寮の所管のためという。元社の御霊代新造は認められないとの考え。[29]
  • 1881年(明治14年)1月24日:式部寮から社寺局。元社の御霊代新造は認められないが、旧来の御霊代の扱いは保留。[30]
  • 1881年(明治14年)5月22日:玉垣建設道路整備費支出許可。[31]
  • 1881年(明治14年)5月24日:島根県から名和神社へ、御霊代について指令([32]原文なし)。
  • 1882年(明治15年)1月12日:摂社氏殿神社を許可。(12/27内務省上申)[33]。(『名和神社略縁記』は1881年(明治14年)5月24日とする)
  • 1882年(明治15年)7月2日:鳥取県から内務省から具申。元社の御霊代について実地調査を踏まえ改めて新造を上申。[34]
  • 1882年(明治15年)7月18日:名和神社から内務省へ建言。御霊代について。[35]
  • 1882年(明治15年)9月15日:宮内省から内務省に照会。御霊代について。[36]
  • 1882年(明治15年)9月29日:内務省から宮内省に回答。旧御霊代は不都合なので元社の御霊代も新造するほうが良いが県令具申書のみではなお議論尽くさないところがあることを述べる。[37]
  • 1882年(明治15年)10月3日:宮内省から政府に上申。[38]
  • 1882年(明治15年)10月10日:第二局案作成。[39]
  • 1882年(明治15年)10月27日:御霊代として神鏡奉納を上奏(裁可)。[40]
  • 1882年(明治15年)10月30日:政府、宮内省上申を許可。[41]
  • 1882年(明治15年)11月24日:政府、旧御霊代の木像、名和神社の宝物として保存するように指示(遷座祭以降も氏殿神社に奉安されたままだったらしい)。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』『名和神社略縁記』)
  • 1883年(明治16年)3月5日:宮内省から政府へ。御霊代奉納につき、式部寮官員に護送させ、勅使と御祭文の案を上申。同日上奏。翌日許可。[42]
  • 1883年(明治16年)3月21日:式部寮蔵田秋輔と松田貞之、御霊代を護送して鳥取に到着。22日県庁に仮に奉安。4月7日県庁を出発し、9日に御来屋に到着。
  • 1883年(明治16年)4月10日:新社殿へ遷座。御霊代奉納祭典。勅使として鳥取県令山田信道が参向。[43]。新しい社地は地元の信徒総代の寄進によるという(船上山史)。
  • 1883年(明治16年)8月6日:名和長年に従三位追贈。元は従四位下。
  • 1883年(明治16年)8月9日:宮内省から政府。贈位式について「墓所不分明」のため、「神階」ではないものの名和神社に勅使参向を伺う。14日許可。[44]
  • 1883年(明治16年)8月15日:宮内省から政府。勅使は地方官。策命案。17日許可。[45]
  • 1883年(明治16年)9月2日:贈位式。勅使として鳥取県令代理書記官本部泰が名和神社に参向。位記を社殿に納める。[46][47]

贈位以後

  • 1884年(明治17年)8月8日:男爵名和長恭、氏殿神社の御霊代として神鏡を奉納を出願。29日許可。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』)
  • 1885年(明治18年)2月2日:日吉神社を氏殿神社の相殿神し、臣神社を新社地に遷座することを請願。6月18日許可。(『名和神社略縁記』)
  • 1885年(明治18年)5月3日:氏殿神社に新しい御霊代の神鏡を奉納。(『学校訓話資料元弘忠臣名和長年』)
  • 1885年(明治18年)8月7日:日吉神社、氏殿神社に遷座鎮祭。(『名和神社略縁記』)
  • 1885年(明治18年)8月10日:臣神社、氏殿神社境内から名和神社本社境内に遷座。(『名和神社略縁記』)
  • 1891年(明治24年)7月19日:(伯耆・大山寺に名和長年の弟の源盛を顕彰する「贈大僧正源盛之碑」建立。)
  • 1903年(明治36年):銅鳥居建立
  • 1907年(明治40年)5月:皇太子(大正天皇)参拝
  • 1886年(明治19年)1月:(京都の名和長年殉節地に「贈正三位名和公遺蹟碑」建立。「正三位」は「従三位」の誤り)
  • 1932年(昭和7年):船上山義挙600年祭。社殿・神苑・参道などを造営整備か。(社殿造営は1935年(昭和10年)とも)
  • 1934年(昭和9年):(建武中興600年)
  • 1935年(昭和10年)5月8日:(名和長年に従一位追贈。
  • 1935年(昭和10年):名和長年600年祭
  • 1939年(昭和14年)3月:(京都の殉節地に大型の石碑「贈従一位名和長年公殉節之所」建立)

境内・関連旧跡

  • 本社:
  • 氏殿神社:境外摂社。地主神の日吉神社を合祀。
  • 臣神社:末社
  • 腰掛石


組織

宮司

  • 糟谷末枝()<>:祠官。
  • 名和長恭(1835-1898)<1878->:柳川藩士。1835年(天保6年)生。1878年(明治11年)1月31日、名和神社宮司。1883年(明治16年)9月24日、華族に列す。1884年(明治17年)7月8日男爵。1898年(明治31年)10月死去。
  • 名和顕義()<1899->:1899年(明治32年)5月3日、名和神社宮司。
  • 寺井種長(1894-1968)<1929-1933>:1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)9月28日まで。(略歴は、大阪天満宮#組織を参照)
  • 杉村馨()<?-1936>:1936年(昭和11年)9月19日まで。1959年(昭和34年)6月17日死去。
  • 長尾家和()<1936->:生田神社禰宜を経て1936年(昭和11年)9月19日、名和神社宮司。のち宇倍神社宮司、出石神社宮司。1975年(昭和50年)8月20日死去。
  • 井上正道()<>:1940年(昭和15年)から1946年(昭和21年)まで名和神社宮司。1983年(昭和58年)2月23日死去。
  • 安江綱紀()<>:1946年(昭和21年)12月19日まで。
  • 小林由太郎()<>:1946年(昭和21年)12月19日から1948年(昭和23年)3月9日まで。
  • 安江綱紀()<>:1948年(昭和23年)3月9日再任、兼務。1960年(昭和35年)1月12日まで。
  • 名和顕忠()<>:1960年(昭和35年)1月12日から。1991年(平成3年)1月27日死去。
  • 名和十郎()<>:1970年(昭和45年)頃在職。
  • 佐々木博正()<>:1991年(平成3年)5月1日から。
  • 名和靖恭()<>:2004年(平成16年)在職。
  • (石塚智康)

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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