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木曽御嶽信仰の行者旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月28日 (月)
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左:与野円乗院 右:一心墓所 | 左:与野円乗院 右:一心墓所 | ||
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ここでは、木曽御嶽信仰の行者の旧跡を紹介する。なお[[覚明旧跡|覚明]]と[[普寛旧跡|普寛]]に関してはそれぞれの項目を参照。 | ここでは、木曽御嶽信仰の行者の旧跡を紹介する。なお[[覚明旧跡|覚明]]と[[普寛旧跡|普寛]]に関してはそれぞれの項目を参照。 | ||
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- | '''泰賢'''(たいけん)は[[普寛]]の高弟。普寛本講開祖。北講開祖。越後国魚沼郡大崎村の[[大前神社_(八海山)|大前神社]]神職の山田吉豊の弟伝八の長男として生まれる。1790年(寛政2年)17歳で出家して、一村尾(南魚沼市)の本山派修験の南方院に入り、次に長森暮坪の当山派の[[満願寺]]に入ったという。1794年(寛政6年)に普寛が[[八海山]]開山に訪れるが、このときに普寛に師事したという。[[武尊山]]開山にも同行。普寛の死後、[[本庄普寛霊場]]を創建し、活動の拠点とした。普寛系御嶽講の指導者であった。木曽谷の布教にも尽力。1855年(安政2年)に[[鳥居峠御嶽山遥拝所|鳥居峠]]に石像。鳥居峠に1904年(明治37年)に諏訪泰賢講により百年忌供養塔。1804年(文化1年)には八海山大崎口を開山。八海山や諏訪、松井田宿、奈良井宿でも布教。荒沢不動明王を守護神としたという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の葬儀のとき、突然、泰賢に普寛の霊が憑依したといい、これが御嶽講における霊神の御座の起源だという(菅原)。 | + | '''泰賢'''(たいけん)は[[普寛]]の高弟。普寛本講開祖。北講開祖。越後国魚沼郡大崎村の[[大前神社_(八海山)|大前神社]]神職の山田吉豊の弟伝八の長男として生まれる。1790年(寛政2年)17歳で出家して、一村尾(南魚沼市)の本山派修験の南方院に入り、次に長森暮坪の当山派の[[魚沼満願寺|満願寺]]に入ったという。1794年(寛政6年)に普寛が[[八海山]]開山に訪れるが、このときに普寛に師事したという。[[武尊山]]開山にも同行。普寛の死後、[[本庄普寛霊場]]を創建し、活動の拠点とした。普寛系御嶽講の指導者であった。木曽谷の布教にも尽力。1855年(安政2年)に[[鳥居峠御嶽山遥拝所|鳥居峠]]に石像。鳥居峠に1904年(明治37年)に諏訪泰賢講により百年忌供養塔。1804年(文化1年)には八海山大崎口を開山。八海山や諏訪、松井田宿、奈良井宿でも布教。荒沢不動明王を守護神としたという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の葬儀のとき、突然、泰賢に普寛の霊が憑依したといい、これが御嶽講における霊神の御座の起源だという(菅原)。 |
普寛霊場と故郷の[[龍谷寺|八海山龍谷寺]]そばおよび御嶽山の普寛堂(不詳。[[花戸普寛堂]]か)に墓碑がある(鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」)。「神勅不動」として信仰されることもある(『普寛堂宝物拝見記』)。 | 普寛霊場と故郷の[[龍谷寺|八海山龍谷寺]]そばおよび御嶽山の普寛堂(不詳。[[花戸普寛堂]]か)に墓碑がある(鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」)。「神勅不動」として信仰されることもある(『普寛堂宝物拝見記』)。 | ||
(『三岳村誌』825頁、『修験と神道のあいだ』79-80頁) | (『三岳村誌』825頁、『修験と神道のあいだ』79-80頁) | ||
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|新潟県南魚沼市長森847 | |新潟県南魚沼市長森847 | ||
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- | '''一心'''(いっしん)は[[普寛]]の高弟。普寛の最後の弟子という。一心講開祖。信濃国小県郡上本入村(上田市)出身。下谷車坂町の穀物商丸山家の養子となる。家族の死を契機として[[万徳寺]](丸山家の菩提寺)で出家して恵性に師事する。在俗のころより[[御嶽山]]を信仰し、御嶽山に赴いたところ、[[王滝御嶽神社|王滝里宮]]裏の岩窟('''一心行場''' | + | '''一心'''(いっしん)は[[普寛]]の高弟。普寛の最後の弟子という。一心講開祖。信濃国小県郡上本入村(上田市)出身。下谷車坂町の穀物商丸山家の養子となる。家族の死を契機として[[万徳寺]](丸山家の菩提寺)で出家して恵性に師事する。在俗のころより[[御嶽山]]を信仰し、御嶽山に赴いたところ、[[王滝御嶽神社|王滝里宮]]裏の岩窟('''一心行場''')にて普寛と出会い、不動明王の秘法<ref>御座のことか</ref>を伝授された。そして、[[清滝]]にて一千日の木食修行を試みて成就した。このとき起居に用いた岩窟が現存している('''一心行場''')。独特の御座法を編み出したという。死者の魂の行き先として御嶽山を位置づけたことはのちの[[木曽御嶽信仰の霊神信仰|霊神信仰]]の原型となった。1801年(享和1年)の普寛死後、御嶽山を下って赤坂[[大乗院]]([[赤坂氷川神社]]別当)の福寿院順徳に師事した。しかし、1821年(文政4年)、幕府の弾圧を受けて高弟とともに捕縛され、小伝馬町牢獄に投獄された<ref>『村誌王滝』1638頁には1820年(文政3年)8月とある。</ref>。三宅島遠島が宣告された当日に自害した<ref>ちなみにこのとき担当した寺社奉行松平伯耆守は宮津藩主松平宗発のことだと思われる</ref>。1821年(文政4年)10月2日という<ref>『村誌王滝』1638頁</ref>。遺骸は、同日、[[回向院]]に葬られたが、同日夜に、弟子が官吏を買収して万徳寺に埋葬した。 |
- | + | その後、弟子の本明院盛心の活躍により1847年(弘化4年)4月11日に赦免された<ref>『村誌王滝』1638</ref>。盛心により深谷に[[並木一心霊場|一心霊場]]が創建された。また[[一心神社]]に祀られている。王滝クルミ沢には[[一心堂]]が創建され、その向かいには巨大な霊神碑がある。また王滝の[[講祖本社]]に祀られており、同社境内に百年祭記念碑がある。1850年(嘉永3年)、菩薩号を贈られる。1894年(明治27年)7月27日に大教正を贈られている<ref>『村誌王滝』1638</ref>。弟子には本明院盛心のほか、初代真乗院、丸尾講祖の明王院智寛(小林仁衛門)がいる。また弟子の井原平八の養子に一山がいる。(『御嶽山丸江元講宝物拝見記』、『修験と神道のあいだ』83-87頁) | |
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2018年5月28日 (月) 時点における最新版
木曽御嶽信仰の行者旧跡 |
目次 |
概要
登山の前に。手頃なガイドブック |
信仰の世界へ。宗教人類学的研究 |
ここでは、木曽御嶽信仰の行者の旧跡を紹介する。なお覚明と普寛に関してはそれぞれの項目を参照。
旧跡一覧
泰賢旧跡
泰賢(たいけん)は普寛の高弟。普寛本講開祖。北講開祖。越後国魚沼郡大崎村の大前神社神職の山田吉豊の弟伝八の長男として生まれる。1790年(寛政2年)17歳で出家して、一村尾(南魚沼市)の本山派修験の南方院に入り、次に長森暮坪の当山派の満願寺に入ったという。1794年(寛政6年)に普寛が八海山開山に訪れるが、このときに普寛に師事したという。武尊山開山にも同行。普寛の死後、本庄普寛霊場を創建し、活動の拠点とした。普寛系御嶽講の指導者であった。木曽谷の布教にも尽力。1855年(安政2年)に鳥居峠に石像。鳥居峠に1904年(明治37年)に諏訪泰賢講により百年忌供養塔。1804年(文化1年)には八海山大崎口を開山。八海山や諏訪、松井田宿、奈良井宿でも布教。荒沢不動明王を守護神としたという(菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」)。普寛の葬儀のとき、突然、泰賢に普寛の霊が憑依したといい、これが御嶽講における霊神の御座の起源だという(菅原)。 普寛霊場と故郷の八海山龍谷寺そばおよび御嶽山の普寛堂(不詳。花戸普寛堂か)に墓碑がある(鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」)。「神勅不動」として信仰されることもある(『普寛堂宝物拝見記』)。 (『三岳村誌』825頁、『修験と神道のあいだ』79-80頁)
名称 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|
泰賢 満願寺 | 新潟県南魚沼市長森847 | 泰賢が修行した寺院 |
泰賢 泰賢霊窟(八海山尊神社里宮) | 新潟県南魚沼市大崎3746 | (鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」) |
泰賢 泰賢墓(本庄普寛霊場) | 埼玉県本庄市中央3-4 | 泰賢の墓所。普寛霊場にある。 |
泰賢 泰賢墓(八海山龍谷寺) | 新潟県南魚沼市大崎3455 | 泰賢の墓所。菩提寺である龍谷寺門前にある。宝篋印塔である(1815年(文化12年)建立、1884年(明治17年)再建)。同所には1904年(明治37年)建立の「円城院泰賢霊神百年塔」もある。(鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」) |
泰賢 泰賢墓(木曽御嶽山) | 不詳 | 御嶽山の普寛堂に墓所があるという(鈴木昭英1978「八海山信仰と八海講」、宮家1981)。どの普寛堂を指すのかは不明である(花戸普寛堂か)。 |
泰賢 泰賢霊神碑(鳥居峠) | 鳥居峠に霊神碑(供養塔)と像がある。 |
順明旧跡
順明(じゅんめい)は普寛の高弟。太元講(開闢金剛体)開祖。武蔵国秩父郡薄村両神山麓の本山派修験金剛院の出身。生年不明。普寛の御嶽山開山に同行。以後、生涯で39回登拝する。江戸、秩父、諏訪、木曽谷で布教。代官山村家の帰依を受け、その寄進により1821年(文政4年)神戸遥拝所を復興。「天感感得法」という一人伺いの御座法を伝えた。行法書を刊行し、事件に際しては普寛系講社の代表者として交渉にあたるなど、事実上の普寛の後継者として活動していたらしい。王滝における配札権を得た。 太元講は現存する講社で最古のものの一つ。文化年間に太元講を開く。また上松に滝本講を開いた。クルミ沢霊神場に霊神碑がある。川合権現境内にも巨大な「太元講祖順明霊神」碑がある。オエドに木像がある。子に金剛院寿光(薄平寿光)がいる。没年は1838年(天保9年)という説もある。墓所は本庄普寛霊場にある。「神力不動」として信仰されることもある(『普寛堂宝物拝見記』)。 (『三岳村誌』675-676頁、852-826頁、『修験と神道のあいだ』79-83頁)
名称 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|
順明 金剛院(御嶽神社) | 順明が住した寺院。 | |
順明 順明堂(オエド御嶽山遥拝所) | 長野県木曽郡木曽町 | 順明の木像が祀られている。 |
順明 順明墓(本庄普寛霊場) | 埼玉県本庄市中央3-4 | 順明の墓所。普寛霊場にある。 |
一心旧跡
一心(いっしん)は普寛の高弟。普寛の最後の弟子という。一心講開祖。信濃国小県郡上本入村(上田市)出身。下谷車坂町の穀物商丸山家の養子となる。家族の死を契機として万徳寺(丸山家の菩提寺)で出家して恵性に師事する。在俗のころより御嶽山を信仰し、御嶽山に赴いたところ、王滝里宮裏の岩窟(一心行場)にて普寛と出会い、不動明王の秘法[1]を伝授された。そして、清滝にて一千日の木食修行を試みて成就した。このとき起居に用いた岩窟が現存している(一心行場)。独特の御座法を編み出したという。死者の魂の行き先として御嶽山を位置づけたことはのちの霊神信仰の原型となった。1801年(享和1年)の普寛死後、御嶽山を下って赤坂大乗院(赤坂氷川神社別当)の福寿院順徳に師事した。しかし、1821年(文政4年)、幕府の弾圧を受けて高弟とともに捕縛され、小伝馬町牢獄に投獄された[2]。三宅島遠島が宣告された当日に自害した[3]。1821年(文政4年)10月2日という[4]。遺骸は、同日、回向院に葬られたが、同日夜に、弟子が官吏を買収して万徳寺に埋葬した。
その後、弟子の本明院盛心の活躍により1847年(弘化4年)4月11日に赦免された[5]。盛心により深谷に一心霊場が創建された。また一心神社に祀られている。王滝クルミ沢には一心堂が創建され、その向かいには巨大な霊神碑がある。また王滝の講祖本社に祀られており、同社境内に百年祭記念碑がある。1850年(嘉永3年)、菩薩号を贈られる。1894年(明治27年)7月27日に大教正を贈られている[6]。弟子には本明院盛心のほか、初代真乗院、丸尾講祖の明王院智寛(小林仁衛門)がいる。また弟子の井原平八の養子に一山がいる。(『御嶽山丸江元講宝物拝見記』、『修験と神道のあいだ』83-87頁)
名称 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|
一心 一心神社 | 長野県上田市武石上本入下小寺尾892-1 | 一心の出身地である上本入にある神社。上田市指定無形民俗文化財「一心神社祭典行事」。 |
一心 万徳寺 | 東京都台東区根岸5丁目1-13 | 一心が養子に入った丸山家の菩提寺。一心の墓所がある寺院。当初、一心はこの寺で得度した。一心は、1821年(文政4年)5月に幕府に逮捕されたが、10月2日、三宅島に遠島となる当日に伝馬町牢獄で自害した(配所で没したというのは誤りらしい)。千住回向院に葬られたが、弟子の小林仁右衛門(明王院智寛)や平賀弥七(初代真乗院)によって、すぐに万徳寺に改葬された(『御嶽山丸江元講宝物拝見記』)。入口に「木食一心行者霊地」碑がある。 |
一心 王滝一心行場 | 長野県木曽郡王滝村東3315 | 一心が修行したという行場。王滝御嶽神社里宮の本社の脇にある岩窟である。一心が普寛と出会い、普寛より「不動明王の秘法」を受法された場所だとされている。一心は、疫病によって妻子を失い、菩提寺で出家の後、普寛の声望を聞いて、御嶽山に修行に赴いてきていたのであった(以上、『御嶽山丸江元講宝物拝見記』20-21)。 |
一心 清滝一心行場 | 長野県木曽郡王滝村 | 王滝口登山道の清滝あたりにある岩窟である。普寛より「不動明王の秘法」を受法した一心が、一千日木食行を行なったときに起居した岩窟であるとされる(『御嶽山丸江元講宝物拝見記』20-21)。 |
一心 小伝馬町牢屋敷 | 東京都中央区日本橋小伝馬町5-2 | 一心の死去の地。 |
一心 小塚原回向院 | 東京都荒川区南千住5 | 一心、初葬地。 |
一心 一心墓 | 東京都台東区根岸5丁目1-13 | 一心の墓。菩提寺の万徳寺にある。上記参照。 |
一心 並木一心霊場 | 埼玉県深谷市原郷 | 一心の墓所(歯髪塔)。盛心の活動により、1847年(弘化4年)4月に一心が赦免され、1852年(嘉永5年)には東叡山浄名院慧澄より菩薩戒が一心に授けられた。このころ、盛心は並木国済寺の東北済に御嶽山遥拝所を建立。一心の歯髪を納めた宝篋印塔を建立。一心堂を建立した。1937年(昭和12年)遷座。一番奥に御嶽三神碑がある。かたわらに不動明王。一心大菩薩宝塔、盛心大菩薩宝塔がある。一心と普寛の石像。一心八十年祭碑、百年祭碑、百五十年祭。盛心百年祭碑。盛心百五十年祭碑。(『木曽御嶽信仰』264頁) |
一心 一心堂(王滝) | 長野県木曽郡王滝村 | 一心を祀った堂。道路反対側に一心霊神碑があるが、もとは同じ敷地内だったという。 |
一山旧跡
一山(いっさん)は一山講開祖。生年、生地を語らなかったというが、一説には相模国津久井郡出身という。武蔵国足立郡与野町に住む、一心門弟の井原平八(一心とともに捕縛された)の養子となる。安養山円乗院にて出家。のち諸国行脚して三峰山、甲斐覚円峰、甲斐駒ケ岳などで修行したという。木曽御嶽山に登拝し、清滝の洞窟に籠って木食行を行った。 その後、江戸・武蔵を中心に布教に努め、各地で講社を設立した。故郷の与野や、嶺町、現在の練馬区などで布教した。 死後、円乗院に葬られた。与野の一山神社(ただし祭神は「少彦名命」。一山像を拝殿に奉安。)を始め、一山講系の御嶽神社には一山神社が創建されている。王滝の講祖本社にも祀られており、同社境内に百年祭記念碑がある。(『与野市史』)
名称 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|
一山 円乗院 | 埼玉県さいたま市中央区本町西1-13-10 | 一山が出家した寺院。墓所。 |
一山 嶺御嶽神社 | 東京都大田区北嶺町37-20 | 一山が創建した神社 |
一山 一山墓(円乗院) | 埼玉県さいたま市中央区本町西1-13-10 | 宝篋印塔の墓碑がある。 |
一山 一山神社 | 埼玉県さいたま市中央区本町東4-10-14 | 一山講が建てた神社。祭神に一山は含まれていないが、一山像が祀られているらしい |
一山 一山神社(嶺御嶽神社) | 東京都大田区北嶺町37-20 | |
一山 一山神社(高松御嶽神社) | 東京都練馬区高松3-19 | |
一山 一山神社(下石神井御嶽神社) | 東京都練馬区下石神井 | |
一山 一山霊神 | 長野県木曽郡王滝村 ハナド |