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毫摂寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*23:藤善聴(光照)<1871-1920>:(1864-1920):巍徳院。善慶の長男。1871年得度継承。教導職試補となり、権中教正までのぼる。1878独立して初代管長。1900年、大谷派合同事件が起こり首謀者を処分した。大正9年1月10日死去。
*23:藤善聴(光照)<1871-1920>:(1864-1920):巍徳院。善慶の長男。1871年得度継承。教導職試補となり、権中教正までのぼる。1878独立して初代管長。1900年、大谷派合同事件が起こり首謀者を処分した。大正9年1月10日死去。
*24:藤光曜(善解)<1920->:(1895-1982):大慈悲院。善聴の子。東洋大学東洋哲学科卒業。1920年継承。昭和57年7月27日死去。
*24:藤光曜(善解)<1920->:(1895-1982):大慈悲院。善聴の子。東洋大学東洋哲学科卒業。1920年継承。昭和57年7月27日死去。
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*25:藤光永(1931-2015)<-2015>:昭和6年(1931)1月3日生。平成27年7月20日死去。
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*26:藤光真()<2015->:京都外国語大学卒業。龍谷大学大学院修了。
(『真宗人名辞典』ほか)
(『真宗人名辞典』ほか)
[[Category:福井県]]
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2017年11月11日 (土) 時点における版

毫摂寺(ごうしょうじ)は、福井県越前市にある浄土真宗本山寺院大町門徒(三門徒)系統の真宗出雲路派の本山で、越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。京都・毫摂寺の後身であるとともに、証誠寺から分裂した寺院とも言える。江戸時代は天台宗青蓮院門跡院家だった。越前国今立郡。五分市本山。(参考:同名寺院毫摂寺_(同名)


歴史

毫摂寺の成立と変遷にははっきりしない点が多い。矛盾した記述も少なくない。 天福元年(1233)に親鸞が京都出雲路に設けた庵が起源とされる。 ついで覚如に師事した乗専が中興。これが京都・毫摂寺で寺名は覚如の号に由来すると説明される。

南北朝の戦乱(応仁の乱とも)を避けて末寺の横越証誠寺を頼りに善幸が越前に移った。 暦応3年(1340、興国元)、山本荘に移った。 永正15年(1518)後柏原天皇勅願所となり、仁和寺末となる。 天正3年、一向一揆に焼かれたので再び横越に戻ったともいう。 天正17年(1589)、後陽成天皇の勅願所となる。 同時に青蓮院門跡院家となる(元禄年間とも)。 慶長元年(1596)、多数末寺を連れて横越を離れ、五分市に移った(慶長8年頃ともいう)。証誠寺はほとんどの末寺を奪われたといい、 たびたび対立して抗争した。

歴代は花山院家や一条家の猶子となった。 寛永5年(1628)、落雷で焼失。安永3年(1774)、火災で焼失。天明6年(1786)再建。明治10年(1877)5月、失火で焼失。 明治5年9月、真宗本願寺派に属すが、明治11年2月、独立して真宗出雲路派を立てた。 明治17年8月再建。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、世界大百科事典、日本仏教基礎講座)

伽藍

  • 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。明治17年再建。自作の聖徳太子像や七高僧を祀る。
  • 御影堂:本尊は親鸞。明治17年再建。歴代御影も祀る。
  • 経蔵

塔頭として教証寺、光闡寺、応信寺がある。

歴代住職

  • 乗専(1285-1357):和気氏。丹波国天田郡六人部出身。俗名は高橋盛永。毫摂寺の実質的な開山だが、歴代に数えられていない。覚如の弟子。元は禅僧で清範と称したという。丹波にも毫摂寺を創建。大和国吉野郡で檜川御坊円光寺・浄源寺・西方寺を、但馬国出石郡で乗専寺を創建。吉野郡平尾で死去。平尾徳善寺に墓。著作に覚如の伝記『最須敬重絵詞』がある。
  • 1:親鸞(1173-1262):浄土真宗の宗祖。
  • 2:善鸞(生没年不詳):親鸞の子。本願寺の伝承では異端を唱え、親鸞から義絶されたといわれる。
  • 3:善入(1257-1320):覚如の子。正嘉元年(1257)生。元応2年(1320)9月10日死去。伝記不詳。『反故裏書』に記載。『大谷本願寺通紀』によると覚如の末子の菊寿丸(善性)が乗専の法嗣となったというが生没年が異なる。(真宗人名辞典)
  • 4:善智(1285-1336)<>:善入の子。弘安8年(1285)生。建武3年(延元元、1336)4月15日死去。伝記不詳。『反故裏書』ではこの時代に京都退転したという。善幸と混同されることが多い。(真宗人名辞典)
  • 5:善幸(1310-1361)<>:善智の子。延慶3年(1310)生。康安元年(正平16、1361)8月17日死去。この時代に京都から越前横越に移ったともいう。子の善秀は京都に残ったという。(真宗人名辞典)
  • 6:善岌(1318-1396)<>:善幸の子。文保2年(1318)生。応永3年(1396)6月25日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典)
  • 7:善教(1362-1428)<>:善岌の子。生年は1362年説と1363年説がある。正長元年(1428)10月4日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典)
  • 8:善鎮(1389-1465)<>:康応元年(元中6、1389)生。寛正6年(1465)2月17日死去。五分市豪摂寺の伝では善教の子。しかし「小浜豪摂寺系図」では善幸の子の善秀の子とする。『反故裏書』では1472年、本願寺蓮如に帰参して正闡坊と号す。実如の妻の如祐尼の妹と結婚。1519年、一家衆となった。不明な点が多い。(真宗人名辞典)
  • 9:善覚(1415-1492)<>:善鎮の子。生年は1415年説と1425年説がある。伝記不詳。延徳4年(1492)3月18日死去。
  • 10:善光(1454-1527)<>:善覚の子。大永7年(1527)2月1日死去。1518年、権僧正。1521年、後柏原天皇勅願所。この時代に味真野に移転したという。
  • 11:善秀(1499-1586)<>:善光の子。1570年、山本荘の堂宇が兵火で焼失。横越に間借り。天正年間、豊臣秀吉から清水頭の土地を与えられた。1586年、柳原大納言の子を養子に迎えた。7月1日死去。
  • 12:善照(1574-1650)<>:柳原家出身。1586年花山院家の猶子となり、法嗣として入寺。翌年、法印。1589年後陽成天皇勅願所になるも同時に青蓮院門跡の院家となる。1596年横越から再び別立して清水頭に移転。証誠寺の伝では10世善寿の娘の伊与姫と結婚し、一時、証誠寺の法統を継いだともいう。慶安3年(1650)6月12日死去。
  • 13:善舜(1590-1640)<>:善照の子。寛永17年(1640)12月22日死去。伝記不詳。
  • 14:善誉(1610-1647)<>:善舜の子。正保4年(1647)7月12日死去。伝記不詳。
  • 15:善休(1628-1703)<-1669>:善誉の子。元禄16年(1703)6月10日死去。1661年院家となる?。伝記不詳。
  • 16:善冏(1653-1723)<1669-1713>:無量寿院。善休の子。1669年、就任して権律師となる。1677年、権少僧都。1693年法眼権大僧都。同年、青蓮院宮から紫衣着用を許された。1710年、花山院家の猶子。1713年退任して青蓮院宮から無量寿院の号を与えられた。享保8年(1723)8月5日死去。「善聞」は誤りか。
  • 17:善准(1693-1744)<1713-1744>:初名は光宅。東本願寺福井別院本瑞寺の僧侶だった。養子として入寺。花山院持実の猶子。1713年就任。同年、大僧都、紫衣着用免許。1732年、興正寺寂永の子を付弟とした。延享元年(1744)7月27日死去。しかし故あって7月9日死去としたという。
  • 18:善栄(1719-1793)<1744-1793>:金剛寿院。諱は光照。興正寺寂永の子。花山院常雅の猶子。幼名は頼丸。1732年、善准の付弟となる。1734年越前に下る。1744年就任。翌年大僧都、紫衣・三緒袈裟許可。親鸞500遠忌を執行。1763年権僧正。寛政5年(1793)11月21日死去。
  • 19:善祐(1740-1817)<1793->:徳寿院。諱は光聴。善栄の子。1776年、花山院常雅の猶子となり大僧都。青蓮院宮から紫衣・三緒袈裟許可。院家となる。1793年継承。1799年退任。文化14年(1817)11月8日死去。
  • 20:善雲(1771-1841)<-1841>:東福院。諱は光沢、光宅。善祐の子。子の男子3人が夭折したため、嫁いでいた三女の三保子を呼び戻しその夫を後継とした。天保12年(1841)4月3日死去。
  • 21:善静:(1797-1861)<1841-1861>:諱は光宴。越前府中城主本多内蔵助の弟。昌蔵院広智の養子となり、後を継ぐ。豪摂寺善雲の三女三保子と結婚するが、三保子が呼び戻されるのにともない、1833年豪摂寺に移る。同年、青蓮院宮から善静の名を与えられた。花山院愛徳の猶子。 1841年継承。1861年退任。文久元年(1861)9月10日死去。
  • 22:藤善慶(光暁)<1861-1871>:(1839-1916):智慧光院。善静の子。一条忠香の猶子。1851年得度。1861年継承。1871年退任。
  • 23:藤善聴(光照)<1871-1920>:(1864-1920):巍徳院。善慶の長男。1871年得度継承。教導職試補となり、権中教正までのぼる。1878独立して初代管長。1900年、大谷派合同事件が起こり首謀者を処分した。大正9年1月10日死去。
  • 24:藤光曜(善解)<1920->:(1895-1982):大慈悲院。善聴の子。東洋大学東洋哲学科卒業。1920年継承。昭和57年7月27日死去。
  • 25:藤光永(1931-2015)<-2015>:昭和6年(1931)1月3日生。平成27年7月20日死去。
  • 26:藤光真()<2015->:京都外国語大学卒業。龍谷大学大学院修了。

(『真宗人名辞典』ほか)

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