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真宗大谷派福井別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''真宗大谷派福井別院'''(しんしゅうおおたには・ふくい・べついん)は、福井県福井市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。'''本瑞寺'''。旧称は'''総坊'''、'''北庄総坊'''、'''九ケ寺総坊'''
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'''真宗大谷派福井別院'''(しんしゅうおおたには・ふくい・べついん)は、福井県福井市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。'''本瑞寺'''。旧称は'''総坊'''、'''北庄総坊'''、'''九ケ寺総坊'''。別格別院だった(大谷派寺院録)。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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越前では天正2年(1574)から3年にかけて[[一向一揆]]が国を支配したが[[織田信長]]軍に敗れ敗退。天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで勝利した[[豊臣秀吉]]が越前を勢力に収め、配下の丹羽長秀が入国すると、[[本願寺]]11代'''顕如'''は、長秀らに書簡で交渉し、門徒の活動の公認を得た。
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===一向一揆===
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越前では天正2年(1574)から3年にかけて[[一向一揆]]が国を支配したが[[織田信長]]軍に敗れ敗退。天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで勝利した[[豊臣秀吉]]が越前を勢力に収め、配下の丹羽長秀が入国すると、[[本願寺]]11代'''顕如'''は、長秀らに書簡で交渉し、門徒の活動の公認を得た。長秀ののち、堀秀政が入国すると、秀政は顕如に越前国の中心部北庄(現・福井市)の柳町の土地「方百間」を寄進し、堀秀治の時代に御堂が建てられたが、これはのち[[西本願寺]]に付き、現在の[[本願寺福井別院]]となった。
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文禄5年(1596)、12代'''[[教如]]'''を支持する僧侶らが越前国の中心部北庄(現・福井市)の塩町に拠点を構え、'''総坊'''と称し、'''北庄総坊'''、'''九ケ寺総坊'''と呼ばれた。江戸時代初期、[[徳川家康]]次男[[結城秀康]]が入国すると、常盤町の土地を寄進され、さらに秀康旧領の下野結城にあった寺院の名前を与えられて、'''東之御堂本瑞寺'''と称した。東西分立では[[東本願寺]]に付き、本瑞寺住職'''教瑛'''には教如息女の栄寿院教応(亀姫)が嫁いだ。慶安年間(1648-1652)に現在地に移転。寛保4年(1744)に住職が退任すると以後は本山の'''掛所'''となった。昭和23年(1948)の福井地震で焼失し、44年(1969)に鉄筋コンクリート造の現在の本堂が完成した。
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===総坊の創建===
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== 参考文献 ==
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文禄5年(1596)、12代'''[[教如]]'''を支持する僧侶らが北庄塩町に拠点を構え、'''総坊'''と称し、'''北庄総坊'''、'''九ケ寺総坊'''と呼ばれた。『福井県史』ではかつて蓮崇が北庄浜町に建てた僧坊が前身とみる。江戸時代初期、[[徳川家康]]次男[[結城秀康]]が入国すると、慶長7年、常盤町の土地を寄進され、さらに秀康旧領の下野結城から移転してきた浄土真宗[[本瑞寺]]と合併し、'''本瑞寺'''と称した。東西分立では[[東本願寺]]に付き、本瑞寺住職'''教瑛'''には教如息女の栄寿院教応(亀姫)が嫁いだ。慶安年間(1648-1652)に現在地に移転した。
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===百ケ寺騒動と掛所の成立===
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天和3年(1683)には国内の東本願寺門徒を揺るがす'''百ケ寺騒動'''が起きた。
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住職の後見だった善林寺と称念寺は、専制的に権力を振るったため、国内末寺の反発を買い、3年間、本瑞寺出仕を控えていたが、同年の琢如十三回忌法要に礼拝したため、法要中にも関わらず、それに抗議する出仕僧が一人、二人と席を立ち、ついに百寺の僧が退席したという。これに対し、本山は退席した寺院を厳しく処分したが、かえって反発を招き、一斉に西本願寺への転属を申請した。門徒でも単独で西派に転属したものが出て、中には東西に分裂した寺院もあった。ただほとんどはその後東本願寺に戻ったという。この騒動を受けて本山は、延享元年(1744)7代住職が死去すると、本瑞寺の住職を廃し、本山の掛所とした。昭和23年(1948)の福井地震で焼失し、44年(1969)に鉄筋コンクリート造の現在の本堂が完成した。
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==組織==
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===歴代住職===
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*「大谷一流諸家分脈系図」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2965593/1/111][https://dl.ndl.go.jp/pid/1114255/1/111]
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|瑛白。[[船場本徳寺]]7世。琢性の兄にあたる。琢如の子。1648年(慶安1年)生。室は宣了の娘。1683年(天和3年)4月12日、本瑞寺を兼務。同月、百カ寺騒動。1692年(元禄5年)本堂再建。1697年(元禄10年)本徳寺を引退し、本瑞寺の専任となる。1709年(宝永6年)5月9日死去。62歳。演慈院と号す。(略歴は[[真宗大谷派姫路船場別院#組織]]を参照)
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|琢玄の長男。幼名は信丸。初名は一応、海信。のち一慧、海白と名乗る。1697年(元禄10年)8月、14歳で得度。1699年(元禄12年)巡讃。1703年(元禄16年)3月、連枝となる。4月院号を賜う。同年本瑞寺住職。1706年(宝永3年)導師。1706年(宝永3年)10月22日死去。23歳。栄恩院(学恩院?)と号す。
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|性応。真慧の長男。幼名は栄丸。1724年(享保9年)4月得度。即座。1732年(享保17年)助音。1734年(享保19年)本瑞寺住職。巡讃。1744年(延享1年)3月、福善寺に隠居。同年9月4日死去(20日死去とも)。寿光院、式部卿、二位と号す。
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|大谷瑩誠
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|1878-1948
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|真宗大谷派寺務総長4代目。
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|}
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== 資料==
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*『福井県史』通史編3
*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
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*松原信之1968「越前東御坊と百ヵ寺騒動」[https://dl.ndl.go.jp/pid/6072818/1/1]
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*境内絵図[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536496/1/262]
[[Category:福井県]]
[[Category:福井県]]

2023年6月18日 (日) 時点における版

真宗大谷派福井別院(しんしゅうおおたには・ふくい・べついん)は、福井県福井市にある真宗大谷派別院本瑞寺。旧称は総坊北庄総坊九ケ寺総坊。別格別院だった(大谷派寺院録)。

目次

歴史

一向一揆

越前では天正2年(1574)から3年にかけて一向一揆が国を支配したが織田信長軍に敗れ敗退。天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで勝利した豊臣秀吉が越前を勢力に収め、配下の丹羽長秀が入国すると、本願寺11代顕如は、長秀らに書簡で交渉し、門徒の活動の公認を得た。長秀ののち、堀秀政が入国すると、秀政は顕如に越前国の中心部北庄(現・福井市)の柳町の土地「方百間」を寄進し、堀秀治の時代に御堂が建てられたが、これはのち西本願寺に付き、現在の本願寺福井別院となった。

総坊の創建

文禄5年(1596)、12代教如を支持する僧侶らが北庄塩町に拠点を構え、総坊と称し、北庄総坊九ケ寺総坊と呼ばれた。『福井県史』ではかつて蓮崇が北庄浜町に建てた僧坊が前身とみる。江戸時代初期、徳川家康次男結城秀康が入国すると、慶長7年、常盤町の土地を寄進され、さらに秀康旧領の下野結城から移転してきた浄土真宗本瑞寺と合併し、本瑞寺と称した。東西分立では東本願寺に付き、本瑞寺住職教瑛には教如息女の栄寿院教応(亀姫)が嫁いだ。慶安年間(1648-1652)に現在地に移転した。

百ケ寺騒動と掛所の成立

天和3年(1683)には国内の東本願寺門徒を揺るがす百ケ寺騒動が起きた。 住職の後見だった善林寺と称念寺は、専制的に権力を振るったため、国内末寺の反発を買い、3年間、本瑞寺出仕を控えていたが、同年の琢如十三回忌法要に礼拝したため、法要中にも関わらず、それに抗議する出仕僧が一人、二人と席を立ち、ついに百寺の僧が退席したという。これに対し、本山は退席した寺院を厳しく処分したが、かえって反発を招き、一斉に西本願寺への転属を申請した。門徒でも単独で西派に転属したものが出て、中には東西に分裂した寺院もあった。ただほとんどはその後東本願寺に戻ったという。この騒動を受けて本山は、延享元年(1744)7代住職が死去すると、本瑞寺の住職を廃し、本山の掛所とした。昭和23年(1948)の福井地震で焼失し、44年(1969)に鉄筋コンクリート造の現在の本堂が完成した。

組織

歴代住職

  • 「大谷一流諸家分脈系図」[1][2]
  • 真淳の後は輪番が置かれた。
世数 法号 法諱 院号 生没年 在職年 略歴
1 教応 栄寿院 1594-1663 1610-1626 教如の娘。1594年(文禄3年)生。初めは織田頼長に嫁ぐ。1610年(慶長15年)本瑞寺に入寺。1625年(寛永2年)慈敬寺教映と結婚。1626年(寛永3年)退任。1663年(寛文3年)10月27日死去。栄寿院と号す。亀姫。
教映 従増 意足院 1596-1672 従増。慈敬寺佐増の子。母は毛利輝元の娘。1619年(元和5年)巡讃。1620年(元和6年)導師。三河本法寺(のち西本願寺帰参)を兼務。1625年(寛永2年)教応と結婚。1672年(寛文12年)8月死去。77歳。意足院、侍従と号す。法印権大僧都。
2 宣亨 従応 龍華院 ?-1692 1626-1662 従応。教応・教映の子。1626年(寛永3年)本瑞寺住職。得度。1654年(承応3年)引退?。1662年(寛文2年)退任するが琢性(一如)の退任後に再任。1692年(元禄5年)7月死去。龍華院、一位と号す。
3 琢性 瑛含 恩光院 1649-1700 1662-1672 瑛含。東本願寺16世。のち一如、光海と名乗る。1662年(寛文2年)本瑞寺住職。1672年(寛文12年)、藩主への正月独礼に不満があったらしく退任。恩光院と号す。(略歴は東本願寺#組織を参照)
4 琢玄 瑛白 演慈院 1648-1709 1683-? 瑛白。船場本徳寺7世。琢性の兄にあたる。琢如の子。1648年(慶安1年)生。室は宣了の娘。1683年(天和3年)4月12日、本瑞寺を兼務。同月、百カ寺騒動。1692年(元禄5年)本堂再建。1697年(元禄10年)本徳寺を引退し、本瑞寺の専任となる。1709年(宝永6年)5月9日死去。62歳。演慈院と号す。(略歴は真宗大谷派姫路船場別院#組織を参照)
5 一慧 海白 栄恩院 1684-1706 1703-1706 琢玄の長男。幼名は信丸。初名は一応、海信。のち一慧、海白と名乗る。1697年(元禄10年)8月、14歳で得度。1699年(元禄12年)巡讃。1703年(元禄16年)3月、連枝となる。4月院号を賜う。同年本瑞寺住職。1706年(宝永3年)導師。1706年(宝永3年)10月22日死去。23歳。栄恩院(学恩院?)と号す。
6 真慧 性白 開演院 1691-1745 1709-1734 性白。琢玄の子。一慧の弟。1691年(元禄4年)生。幼名は充丸。1696年(元禄9年)海津福善寺の法嗣となり、同年11月得度。1709年(宝永6年)8月4日、本瑞寺住職(1710年(宝永7年)8月とも)。1710年(宝永7年)10月、院家上首。福善寺も兼務した。1711年(正徳1年)3月導師。1734年(享保19年)7月26日、福善寺に隠居。1741年(寛保1年)9月10日、本瑞寺住職に再任。1743年(寛保3年)4月、裹頭。1745年(延享2年)3月23日死去。55歳。開演院、宰相と号す。[3]
7 真淳 性応 寿光院 ?-1744 1734-1744 性応。真慧の長男。幼名は栄丸。1724年(享保9年)4月得度。即座。1732年(享保17年)助音。1734年(享保19年)本瑞寺住職。巡讃。1744年(延享1年)3月、福善寺に隠居。同年9月4日死去(20日死去とも)。寿光院、式部卿、二位と号す。
大谷瑩誠 1878-1948 真宗大谷派寺務総長4代目。

資料

  • 『福井県史』通史編3
  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
  • 松原信之1968「越前東御坊と百ヵ寺騒動」[4]
  • 境内絵図[5]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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