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頂法寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月17日 (水)

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'''頂法寺'''(ちょうほうじ)は、京都府京都市中京区にある[[観音信仰]][[天台宗]]寺院。[[聖徳太子旧跡]][[親鸞旧跡]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。本尊は如意輪観音。'''六角堂'''として知られる。[[西国三十三所観音霊場]]第18番札所。天台宗単立。本坊だった[[池坊]]は華道の家元として知られる。山号は紫雲山。
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[[file:956BE74D-F28D-41E4-8264-41D9797327F8.jpeg|thumb|500px|頂法寺本堂(六角堂)]]
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'''頂法寺'''(ちょうほうじ)は、京都府京都市中京区堂之前町にある[[聖徳太子]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。本尊は[[如意輪観音]]。初代住職は[[小野妹子]]とされる。[[親鸞旧跡]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。'''六角堂'''として知られる。[[西国三十三所観音霊場]]第18番札所。天台宗単立。本坊だった[[池坊]]は[[華道]]の家元として知られる。山号は紫雲山。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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聖徳太子が[[四天王寺]]建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里のこの地に来た時、念持仏の如意輪観音を祀ったのが起源とされる。[[平安京]]建設時に北に5丈ずらしたという逸話があり、臍石が元来の中心という。
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[[file:都名所図会・六角堂.jpg|thumb|500px|江戸時代の境内(『都名所図会』より)。門前の路上に「臍石」が描かれている。]]
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平安時代中期から信仰を集めた。天治2年(1125)12月5日、大火で焼失。創建以来初めてという。
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[[file:D99B1096-3868-492B-89CC-E9A86B3DF37D.jpeg|thumb|300px|門]]
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[[file:Kokudo0205.jpg|thumb|300px|六角堂頂法寺(国土地理院空中写真より)]]
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587年、聖徳太子が[[四天王寺]]建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里の池で沐浴した時、念持仏の如意輪観音を近くの木の枝に掛けたところ、動かなくなったため、この地に祀ったのが起源とされる。
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聖徳太子はその守護を[[小野妹子]]に託した。妹子は出家して専務と名乗り、仏前に花を供えたのが池坊華道の始まりとされる。
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『元亨釈書』などに[[平安京]]建設時に道路建設の妨げになるため、移転することになったが、堂宇が自ら動いて北に5丈(15m)ずれたという逸話があり、旧地に残った礎石が「臍石」という。臍石は平安京の中心と言われた。
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822年(弘仁13年)、[[嵯峨天皇]]の勅願所となる。
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996年(長徳2年)、[[花山法皇]]が御幸して西国霊場として興隆。
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鎌倉時代初期には[[延暦寺]]の末寺となっていた。
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平安時代中期から史料に現れるようになり、『小右記』1018年(寛仁2年)11月22日条には「今日節会、早旦修諷誦六角堂」とあるなど貴族の日記に頻出する。1125年(天治2年)12月5日、大火で焼失(『百錬抄』)。創建以来初めてという。本尊は焼失を免れた(『続古事談』)。
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建仁元年(1201)、親鸞が100日にわたり参籠。観音からの託宣を受け、比叡山を去り、[[法然]]の下で[[浄土教]]に専するきっかけとなった。
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貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが
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鎌倉時代初期、1218年(建保6年)以前には[[延暦寺]]の末寺となっていた。
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応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂としての性格を強める。
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1201年(建仁1年)、[[親鸞]]が[[比叡山]]から100日にわたり通って参籠。夢中で聖徳太子の化身としての観音から託宣を受け、偈文を授かり、比叡山を去り、[[法然]]の下で[[浄土教]]に専するきっかけとなった。
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室町時代、専慶が花道を始める(伝承では小野妹子に始まるという)。
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鎌倉時代成立の『阿娑縛抄』には頂法寺本尊について「聖徳太子七生ノ御本尊」とあり、[[石山寺]]本尊と同形で二臂の如意輪観音だと記し、またそれは救世観音であるとも述べられている。救世観音は聖徳太子の姿を写したとされる[[四天王寺]]本尊像を示す。
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鎌倉時代~室町時代成立の『拾芥抄』には「六角堂。金銅三尺如意輪聖徳太子」とあり、聖徳太子であると考えられていたことが分かる。
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また『拾芥抄』には[[二十一寺]]の一つとして数えられている。
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寛永18年(1641)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊[[池坊]]の他、多聞院・不動院・[[住心院]]・愛染院などがあった。
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貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが1467年(応仁1年)の応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂・議場としての性格を強める。上京の[[革堂]]に対して下京の町衆の中心となった。
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その後も焼失を繰り返し、現在の堂宇は明治8年(1875)の再建(ウェブサイトでは明治10年とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。
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1532年(天文1年)~1536年(天文5年)の天文法華一揆はでその結集地とされた。
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[[八坂神社]]祇園祭の山鉾の巡行順を決めるくじ取り式は江戸時代末まで六角堂で行われていた。
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また六角堂縁起に基づき祇園祭の山鉾の一つとして太子山が設けられた。
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室町時代、専慶が花道を始める。
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1434年(永享6年)3月19日、大火で焼失。
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1461年(寛正2年)2月、寛正飢饉(長禄飢饉)で[[七条道場]]の願阿弥([[清水寺成就院]]開山)が頂法寺の近辺に小屋を建て粥を振る舞った。
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1641年(寛永18年)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊[[池坊]]の他、多聞院・不動院・[[住心院]]・愛染院などがあった。
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近世の寺領はわずか1石だったが庶民の信仰を集めて支えられた。
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宝永、天明、元治の大火で焼失。現在の堂宇は1875年(明治8年)の再建(ウェブサイトでは1877年(明治10年)とする)。戦後、[[天台宗延暦寺派]]から離脱。
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1977年(昭和52年)、池坊会館を建設。
(日本歴史地名大系)
(日本歴史地名大系)
== 伽藍 ==
== 伽藍 ==
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*本堂:本尊は如意輪観音。聖徳太子念持仏と伝える。秘仏。御前立本尊がある。脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩を祀る。六角堂。
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{|class="wikitable"
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*太子堂:本尊は聖徳太子。頂法寺の開山堂。太子の二歳像、十六歳像、騎馬像を祀る。
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|+
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*親鸞堂:本尊は親鸞。「草鞋の御影」と「夢想之像」を祀る。
+
!style="width:10%;"|名称
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*石不動
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!style="width:20%;"|写真
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*唐崎社:[[唐崎神社]]の神を祀る。頂法寺鎮守。[[祇園神]]と[[天満宮]]を合祀。
+
!style="width:70%;"|概要
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*聖徳太子沐浴の池:石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、池坊の名の由来となった。
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*臍石:平安京の中心を示したという石。元は門前の六角通りの路上にあったが、明治に門内に移された。
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|本堂
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==塔頭==
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|[[file:9ECDE4A9-91C1-4772-A062-5E1830B6B7C4.jpeg|200px]]
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*[[池坊]]:本坊。現在の池坊会館の地にあった。
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|本尊は[[如意輪観音]]。[[聖徳太子]]念持仏と伝える。1寸8分(5.5cm)。秘仏。御前立本尊がある。如意輪観音は中世以降、聖徳太子の本地仏とされた。両脇に聖徳太子二歳像と親鸞「夢想之像」も祀る。脇仏として[[毘沙門天]]、[[地蔵菩薩]]、[[不動明王]]、[[阿弥陀如来]]2体、[[弁財天]]、[[文殊菩薩]]、[[青面金剛]]も祀る。現在の堂は1877年(明治10年)頃の再建で、六角形の堂宇の前に入母屋造千鳥破風付の拝堂が接続する。拝堂正面には左右の間に「見真大師」「聖徳太子」の扁額が掛かる。
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*多聞院:廃絶。
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*不動院:廃絶。
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|太子堂
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*[[住心院]][[本山修験]]の寺院。[[聖護院門跡]]の[[院家]]。京都岩倉に移転して現存する。
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|[[file:00A5D35E-F9DD-4A60-9D2D-84FE9C6B3B9E.jpeg|200px]]
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*愛染院:廃絶。
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|本尊は[[聖徳太子]]。太子の二歳像を中心に十六歳像、騎馬像を祀る。
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*能満院:廃絶。天保から元治頃、大願という画僧を中心とする仏画工房があったという。その仏画は京都市立芸術大学に残されている(『仏教図像聚成』として刊行)。
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|親鸞堂
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|本尊は[[親鸞]]。「草鞋の御影」などを祀る。『都名所図会』には描かれていないので近代の建立か。
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|石不動
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|巨石を祀る。
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|阿弥陀堂
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|現存せず。『坊目誌』によると饅頭屋町に阿弥陀堂西門があり阿弥陀堂前ノ町という町名だったという。『都名所図会』には描かれていない。
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|庚申堂
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|『都名所図会』に描かれている。廃絶。
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|愛染堂
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|『都名所図会』に描かれている。廃絶。
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|行者堂
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|『都名所図会』に描かれている。廃絶。
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|唐崎社
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|[[file:D6B9FFFE-CDC2-4515-8299-811C7CFD4C5F.jpeg|200px]]
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|[[唐崎神社]]の神を祀る。[[明星菩薩]]とみなしているらしい。頂法寺鎮守。[[祇園神]]と[[天満宮]]を合祀。
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|天満宮
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|『都名所図会』に描かれている。唐崎社に合祀されたとみられる。
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|日彰稲荷神社
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|祭神は[[稲荷神]]。『都名所図会』に描かれている稲荷社とみられる。
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|如意輪観音像
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|[[file:58E662F3-4B6B-419B-8FC7-3A72839EF49F.jpeg|100px]]
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|銅像
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|慈母観音像
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|銅像
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|親鸞像
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|銅像
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|聖徳太子沐浴の池
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|[[file:FCBC10F1-1B29-49E5-83CF-1FE2742A085E.jpeg|200px]]
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|石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、[[池坊]]の名の由来となった。
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|臍石
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|[[file:5BDA8228-A5D0-4B51-BC12-74A627ED2486.jpeg|200px]]
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|[[平安京]]の中心を示したという石。元は門の真正面の六角通りの路上にあったが、明治に本堂前に移された。
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|茶所
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|[[西国霊場]]33観音を祀る。『都名所図会』には描かれていない。
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|鐘楼堂
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|[[file:17C4C59E-89BF-4E0A-849A-4B00C5B25EE6.jpeg|150px]]
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|1605年(慶長10年)再建。梵鐘は1954年(昭和29年)鋳造復元。六角通りを挟んだ飛地境内にある。隣に[[浄土真宗]]系の[[六角会館]]があるが直接の関係はない。
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|[[小野妹子墓]]
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|大阪府南河内郡太子町。池坊が管理している。
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|}
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==子院==
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*[[池坊]]:本坊。本尊は不詳。本堂の北側、現在の池坊会館の地にあった。池坊会館は1977年(昭和52年)建設。池坊家元事務所、いけばな資料館などがある。
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*能満院:本尊は[[虚空蔵菩薩]]。[[真言宗]]。[[智積院]]末。廃絶。『都名所図会』によると境内西側にあった。幕末の天保から元治頃に、大願憲海(1798-1864)という画僧を中心とする仏画工房があったという。その仏画は京都市立芸術大学に残されている(『仏教図像聚成』として刊行)。
 +
*大聖院:本尊は[[不動明王]]。廃絶。『都名所図会』によると境内西側、能満院の南にあった。
 +
*不動院:本尊は[[不動明王]]([[空海]]作)。天台宗。廃絶。常不動院か。『都名所図会』によると境内西側、大聖院の南にあった。
 +
*[[住心院]]:本尊は[[毘沙門天]]。天台宗・[[本山修験]][[聖護院門跡]]の[[院家]]。『都名所図会』によると境内東北にあったように描かれるが、東側にあったらしい。京都府京都市左京区岩倉村松町に移転して現存する。勝仙院。
 +
*多聞院:『都名所図会』には描かれず。廃絶。
 +
*愛染院:本尊は[[愛染明王]]。真言宗。智積院末。『都名所図会』には描かれず。境内東側にあったらしい。京都府京都市左京区岩倉幡枝町に移転して現存。[[真言宗智山派]]。
 +
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 +
ファイル:都名所図会・住心院.jpg|住心院
 +
</gallery>
==組織==
==組織==
===歴代住職===
===歴代住職===
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歴代住職は[[頂法寺池坊#組織]]を参照。
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執行が寺務を担い、その坊を池坊と称した。歴代住職は[[頂法寺池坊#組織]]を参照。
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== 資料 ==
== 資料 ==
46行: 159行:
*『花道古書集成』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171477]
*『花道古書集成』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171477]
===文献===
===文献===
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*中前正志2007「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005]
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*田中教忠1933『六角堂如意輪観世音考』
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*小川寿一1944『六角堂の歴史と文学:附華道史概説』
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*古代学協会編1977『平安京六角堂の発掘調査』
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*古代学協会平安京調査本部編1980『平安京六角堂跡第二次発掘調査概報』
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*古代学協会編2006『六角堂第3次・第4次調査』
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*2004『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』[http://id.ndl.go.jp/bib/000007363373]
*橋本正俊2006「中世六角堂縁起異説」[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7982696-00]
*橋本正俊2006「中世六角堂縁起異説」[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7982696-00]
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*『仏教図像聚成』
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*阿住義彦編2006『六角堂能満院「大願」:「林岳房憲海」「大成房憲理」の足跡』
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*中前正志2007「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005]
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*京都府教育庁指導部文化財保護課編2009『近代和風建築:京都府近代和風建築総合調査報告書』
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*渡辺信和2012「親鸞の六角堂参籠と太子伝承」『聖徳太子説話の研究』
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*京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編2013『京の近代仏堂:近代京都の堂宮系和風建築の成立と展開』
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*「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005]
[[category:京都府]]
[[category:京都府]]

2024年1月17日 (水) 時点における最新版

頂法寺本堂(六角堂)

頂法寺(ちょうほうじ)は、京都府京都市中京区堂之前町にある聖徳太子ゆかりの天台宗寺院。本尊は如意輪観音。初代住職は小野妹子とされる。親鸞旧跡聖徳太子建立四十六寺の一つ。六角堂として知られる。西国三十三所観音霊場第18番札所。天台宗単立。本坊だった池坊華道の家元として知られる。山号は紫雲山。

目次

歴史

江戸時代の境内(『都名所図会』より)。門前の路上に「臍石」が描かれている。
六角堂頂法寺(国土地理院空中写真より)

587年、聖徳太子が四天王寺建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里の池で沐浴した時、念持仏の如意輪観音を近くの木の枝に掛けたところ、動かなくなったため、この地に祀ったのが起源とされる。 聖徳太子はその守護を小野妹子に託した。妹子は出家して専務と名乗り、仏前に花を供えたのが池坊華道の始まりとされる。 『元亨釈書』などに平安京建設時に道路建設の妨げになるため、移転することになったが、堂宇が自ら動いて北に5丈(15m)ずれたという逸話があり、旧地に残った礎石が「臍石」という。臍石は平安京の中心と言われた。 822年(弘仁13年)、嵯峨天皇の勅願所となる。 996年(長徳2年)、花山法皇が御幸して西国霊場として興隆。

平安時代中期から史料に現れるようになり、『小右記』1018年(寛仁2年)11月22日条には「今日節会、早旦修諷誦六角堂」とあるなど貴族の日記に頻出する。1125年(天治2年)12月5日、大火で焼失(『百錬抄』)。創建以来初めてという。本尊は焼失を免れた(『続古事談』)。

鎌倉時代初期、1218年(建保6年)以前には延暦寺の末寺となっていた。 1201年(建仁1年)、親鸞比叡山から100日にわたり通って参籠。夢中で聖徳太子の化身としての観音から託宣を受け、偈文を授かり、比叡山を去り、法然の下で浄土教に専するきっかけとなった。

鎌倉時代成立の『阿娑縛抄』には頂法寺本尊について「聖徳太子七生ノ御本尊」とあり、石山寺本尊と同形で二臂の如意輪観音だと記し、またそれは救世観音であるとも述べられている。救世観音は聖徳太子の姿を写したとされる四天王寺本尊像を示す。 鎌倉時代~室町時代成立の『拾芥抄』には「六角堂。金銅三尺如意輪聖徳太子」とあり、聖徳太子であると考えられていたことが分かる。 また『拾芥抄』には二十一寺の一つとして数えられている。

貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが1467年(応仁1年)の応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂・議場としての性格を強める。上京の革堂に対して下京の町衆の中心となった。 1532年(天文1年)~1536年(天文5年)の天文法華一揆はでその結集地とされた。 八坂神社祇園祭の山鉾の巡行順を決めるくじ取り式は江戸時代末まで六角堂で行われていた。 また六角堂縁起に基づき祇園祭の山鉾の一つとして太子山が設けられた。

室町時代、専慶が花道を始める。 1434年(永享6年)3月19日、大火で焼失。 1461年(寛正2年)2月、寛正飢饉(長禄飢饉)で七条道場の願阿弥(清水寺成就院開山)が頂法寺の近辺に小屋を建て粥を振る舞った。

1641年(寛永18年)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊池坊の他、多聞院・不動院・住心院・愛染院などがあった。 近世の寺領はわずか1石だったが庶民の信仰を集めて支えられた。 宝永、天明、元治の大火で焼失。現在の堂宇は1875年(明治8年)の再建(ウェブサイトでは1877年(明治10年)とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。 1977年(昭和52年)、池坊会館を建設。 (日本歴史地名大系)

伽藍

名称 写真 概要
本堂 9ECDE4A9-91C1-4772-A062-5E1830B6B7C4.jpeg 本尊は如意輪観音聖徳太子念持仏と伝える。1寸8分(5.5cm)。秘仏。御前立本尊がある。如意輪観音は中世以降、聖徳太子の本地仏とされた。両脇に聖徳太子二歳像と親鸞「夢想之像」も祀る。脇仏として毘沙門天地蔵菩薩不動明王阿弥陀如来2体、弁財天文殊菩薩青面金剛も祀る。現在の堂は1877年(明治10年)頃の再建で、六角形の堂宇の前に入母屋造千鳥破風付の拝堂が接続する。拝堂正面には左右の間に「見真大師」「聖徳太子」の扁額が掛かる。
太子堂 00A5D35E-F9DD-4A60-9D2D-84FE9C6B3B9E.jpeg 本尊は聖徳太子。太子の二歳像を中心に十六歳像、騎馬像を祀る。
親鸞堂 D7692C06-184B-436A-8E7F-3A2AA6832923.jpeg 本尊は親鸞。「草鞋の御影」などを祀る。『都名所図会』には描かれていないので近代の建立か。
石不動 3470662E-7195-4452-A10D-10A98953BF38.jpeg 巨石を祀る。
阿弥陀堂 現存せず。『坊目誌』によると饅頭屋町に阿弥陀堂西門があり阿弥陀堂前ノ町という町名だったという。『都名所図会』には描かれていない。
庚申堂 『都名所図会』に描かれている。廃絶。
愛染堂 『都名所図会』に描かれている。廃絶。
行者堂 『都名所図会』に描かれている。廃絶。
唐崎社 D6B9FFFE-CDC2-4515-8299-811C7CFD4C5F.jpeg 唐崎神社の神を祀る。明星菩薩とみなしているらしい。頂法寺鎮守。祇園神天満宮を合祀。
天満宮 『都名所図会』に描かれている。唐崎社に合祀されたとみられる。
日彰稲荷神社 祭神は稲荷神。『都名所図会』に描かれている稲荷社とみられる。
如意輪観音像 58E662F3-4B6B-419B-8FC7-3A72839EF49F.jpeg 銅像
慈母観音像 6FBE1BBE-8519-45FA-BEC0-4B47A0CB5BC3.jpeg 銅像
親鸞像 152349DF-E76A-48B9-A20C-9BC585DBBAB2.jpeg 銅像
聖徳太子沐浴の池 FCBC10F1-1B29-49E5-83CF-1FE2742A085E.jpeg 石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、池坊の名の由来となった。
臍石 5BDA8228-A5D0-4B51-BC12-74A627ED2486.jpeg 平安京の中心を示したという石。元は門の真正面の六角通りの路上にあったが、明治に本堂前に移された。
茶所 西国霊場33観音を祀る。『都名所図会』には描かれていない。
鐘楼堂 17C4C59E-89BF-4E0A-849A-4B00C5B25EE6.jpeg 1605年(慶長10年)再建。梵鐘は1954年(昭和29年)鋳造復元。六角通りを挟んだ飛地境内にある。隣に浄土真宗系の六角会館があるが直接の関係はない。
小野妹子墓 36CC66E8-C6ED-4D15-8BAA-0D7903A9AEB8.jpeg 大阪府南河内郡太子町。池坊が管理している。


子院

  • 池坊:本坊。本尊は不詳。本堂の北側、現在の池坊会館の地にあった。池坊会館は1977年(昭和52年)建設。池坊家元事務所、いけばな資料館などがある。
  • 能満院:本尊は虚空蔵菩薩真言宗智積院末。廃絶。『都名所図会』によると境内西側にあった。幕末の天保から元治頃に、大願憲海(1798-1864)という画僧を中心とする仏画工房があったという。その仏画は京都市立芸術大学に残されている(『仏教図像聚成』として刊行)。
  • 大聖院:本尊は不動明王。廃絶。『都名所図会』によると境内西側、能満院の南にあった。
  • 不動院:本尊は不動明王空海作)。天台宗。廃絶。常不動院か。『都名所図会』によると境内西側、大聖院の南にあった。
  • 住心院:本尊は毘沙門天。天台宗・本山修験聖護院門跡院家。『都名所図会』によると境内東北にあったように描かれるが、東側にあったらしい。京都府京都市左京区岩倉村松町に移転して現存する。勝仙院。
  • 多聞院:『都名所図会』には描かれず。廃絶。
  • 愛染院:本尊は愛染明王。真言宗。智積院末。『都名所図会』には描かれず。境内東側にあったらしい。京都府京都市左京区岩倉幡枝町に移転して現存。真言宗智山派

組織

歴代住職

執行が寺務を担い、その坊を池坊と称した。歴代住職は頂法寺池坊#組織を参照。

資料

古典籍

  • 「六角堂縁起」:『諸寺縁起集(醍醐寺本)』所収。東京国立博物館デジタルライブラリー[1]
  • 「六角堂頂法寺縁起」:1197年(建久8年)の年記を持つが近世の作とみられる。
  • 「洛陽六角堂略縁起」:近世の縁起
  • 『花道古書集成』[2]

文献

  • 田中教忠1933『六角堂如意輪観世音考』
  • 小川寿一1944『六角堂の歴史と文学:附華道史概説』
  • 古代学協会編1977『平安京六角堂の発掘調査』
  • 古代学協会平安京調査本部編1980『平安京六角堂跡第二次発掘調査概報』
  • 古代学協会編2006『六角堂第3次・第4次調査』
  • 2004『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』[3]
  • 橋本正俊2006「中世六角堂縁起異説」[4]
  • 阿住義彦編2006『六角堂能満院「大願」:「林岳房憲海」「大成房憲理」の足跡』
  • 中前正志2007「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[5]
  • 京都府教育庁指導部文化財保護課編2009『近代和風建築:京都府近代和風建築総合調査報告書』
  • 渡辺信和2012「親鸞の六角堂参籠と太子伝承」『聖徳太子説話の研究』
  • 京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課編2013『京の近代仏堂:近代京都の堂宮系和風建築の成立と展開』
  • 「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[6]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA」より作成

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