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叡福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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===中世 太子信仰の興隆=== | ===中世 太子信仰の興隆=== | ||
平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に天喜元年(1053)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。天仁元年(1108)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。承安年間、[[平清盛]]が修復。建久3年(1192)、[[慈円]]が参詣。 | 平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に天喜元年(1053)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。天仁元年(1108)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。承安年間、[[平清盛]]が修復。建久3年(1192)、[[慈円]]が参詣。 | ||
- | [[後嵯峨天皇]]中宮の大宮院の遺骨が廟前に納められた。[[親鸞]]、[[日蓮]]も訪れたとされる。[[叡尊]]は寛元4年(1246)菩薩戒を502人に授けている。弘安9年(1286)、[[一遍]]は[[四天王寺]] | + | [[後嵯峨天皇]]中宮の大宮院の遺骨が廟前に納められた。[[親鸞]]、[[日蓮]]も訪れたとされる。[[叡尊]]は寛元4年(1246)菩薩戒を502人に授けている。弘安9年(1286)、[[一遍]]は[[四天王寺]]参詣後に叡福寺に参籠 |
+ | 貞和4年(1348)、高師泰の兵が聖徳太子墓の中に乱入して荒らした。 | ||
+ | 天正2年(1574)、兵火で焼失。 | ||
===近世=== | ===近世=== | ||
- | + | 慶長8年(1603)、豊臣秀頼が寺領70石を寄進し、江戸時代これを保った。同年11月、後陽成天皇の勅願で聖霊殿を再建した。承応年間、多宝塔再建。元禄元年、丹南藩主高木氏が二天門、上の御堂を造営した。 | |
+ | 寛政2年(1790)、東本願寺の乗如が太子墓の内部を拝観。 | ||
+ | 享保17年(1732)金堂再建。 | ||
===近現代=== | ===近現代=== | ||
[[聖徳太子墓]]が宮内省の管理となる。叡福寺は[[金剛峰寺]]末となる。昭和24年11月、[[四天王寺]]と共に「聖徳三経宗」を設立したという(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。 | [[聖徳太子墓]]が宮内省の管理となる。叡福寺は[[金剛峰寺]]末となる。昭和24年11月、[[四天王寺]]と共に「聖徳三経宗」を設立したという(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。 |
2017年10月6日 (金) 時点における版
叡福寺 えいふくじ | |
叡福寺 金堂 | |
概要 | 聖徳太子の菩提寺。聖徳太子墓所。 |
奉斎 | |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
所在地(旧国郡) | 河内国石川郡 |
所属(現在) | 真言宗系単立 |
格式など | |
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目次 |
概要
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある聖徳太子菩提寺の真言宗寺院。聖徳太子墓がある。本尊は如意輪観音。 聖霊院。磯長寺、石川寺、御廟寺。太子堂ともいう。野中寺・大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つで上之太子と呼ばれる。聖徳太子建立四十六寺の一つ。山号は磯長山、科長山。、
歴史
古代
聖徳太子らの埋葬後、推古天皇が坊舎を建て、神亀元年(724)、聖武天皇の勅願で伽藍が整備された。東院と西院に分かれ、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と言ったともいう。
中世 太子信仰の興隆
平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に天喜元年(1053)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。天仁元年(1108)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。承安年間、平清盛が修復。建久3年(1192)、慈円が参詣。 後嵯峨天皇中宮の大宮院の遺骨が廟前に納められた。親鸞、日蓮も訪れたとされる。叡尊は寛元4年(1246)菩薩戒を502人に授けている。弘安9年(1286)、一遍は四天王寺参詣後に叡福寺に参籠 貞和4年(1348)、高師泰の兵が聖徳太子墓の中に乱入して荒らした。 天正2年(1574)、兵火で焼失。
近世
慶長8年(1603)、豊臣秀頼が寺領70石を寄進し、江戸時代これを保った。同年11月、後陽成天皇の勅願で聖霊殿を再建した。承応年間、多宝塔再建。元禄元年、丹南藩主高木氏が二天門、上の御堂を造営した。 寛政2年(1790)、東本願寺の乗如が太子墓の内部を拝観。 享保17年(1732)金堂再建。
近現代
聖徳太子墓が宮内省の管理となる。叡福寺は金剛峰寺末となる。昭和24年11月、四天王寺と共に「聖徳三経宗」を設立したという(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
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