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証誠寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*9:善秀(善充)(1466-1551):『日本仏教基礎講座』では善透とも。 | *9:善秀(善充)(1466-1551):『日本仏教基礎講座』では善透とも。 | ||
*10:善寿(1537-1587):善寿の子の善照が[[毫摂寺]]を創建したともいう。 | *10:善寿(1537-1587):善寿の子の善照が[[毫摂寺]]を創建したともいう。 |
2017年11月4日 (土) 時点における版
証誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗の本山寺院。大町門徒(三門徒)系統の真宗山元派の本山で、越前四本山(証誠寺・毫摂寺・誠照寺・専照寺)の一つ。寺伝は親鸞の伝説を伝えるが、実質的な開山は戦国時代の道性である。横越(よここし)という地名から、証誠寺を中心とする流派を横越門徒ともいう。江戸時代は、院家の格式を持つ聖護院門跡の末寺だった。越前国今立郡。證誠寺。横越本山。山号は山元山。
目次 |
歴史
創建
寺伝によれば、越後流罪の途中に親鸞が越前国今立郡山本村(鯖江市の水落・北野・小黒の一帯)に立ち寄り、教えを説いた。この時、聴聞した人々が建てたのが、証誠寺の起源という。その後、善鸞や浄如が旧跡を訪ねて説教した。浄如は嘉元2年(1304)8月に後二条天皇から山元山護念院証誠寺の名を賜り、勅願寺となったという。
その後、各地を転々としたが、文明7年(1475)3月、道性が現在地の横越に移したという。移転の理由は長泉寺(鯖江市長泉寺町)の焼討を受けたからともいう。史実としてはこの道性が創建したと考えられている。 道性は三河出身で、大町門徒開祖である専修寺如導の弟子。京都本願寺にも接近し、存覚と親交。貞和2年(1346)に存覚が義絶された時には、道性の京都寄宿所に滞在させている。また横越門徒に存覚の名で本尊を下賜するなど、交流は深かったようである。横越門徒は近江、美濃まで及び、大町門徒系統の中で、最大勢力となったが、大町専修寺などと対立を繰り広げていた。布教競争の中で、本願寺の権威を借り布教で優位に立つために、大町専修寺が仏光寺を仲介として頼ったように、証誠寺も京都毫摂寺と接触を図り、本寺と仰いだ。本願寺との直接的な接触を避けたのは、本願寺と対立していた国主朝倉家との関係に配慮したためという。
実際には至徳2年(1385)に専修寺から独立したとみられる。 小泉義博によると、証誠寺分立のきっかけは専修寺を継承した如浄や良金(良全、了泉)が浄土宗の教義に「傾き」、門徒の道性が激しく反発したことにあると推測している。
毫摂寺との関係
明応8年(1499)9月、善充が参内して後土御門天皇から上人号を得た。この時、皇居の修築料を献納したところ、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を与えられたという。
戦国時代、京都が戦乱で荒廃すると毫摂寺勢力の一部が証誠寺を頼り、越前に落ち延びてきた。当時の証誠寺は善幸が住職であり、のち本願寺綽如の孫の善栄(兼慶、玄秀)に譲った。ところが善栄は吉崎の蓮如の下に去ったため、善幸は毫摂寺の善鎮を証誠寺住職とした。ここで両寺の合同と葛藤が始まる。善教、善光、善岌の名が共通して両寺歴代にあり、同一人物が両寺を兼務していた時代があったらしい。しかし、後世の歴代譜ではこの3人の生没年が大きく食い違い、また善幸、善鎮の名が歴代から除かれており、混乱を物語っているようにも思える。この辺りの事情は分からないことが多く、諸説ある。なお善鎮ものち、本願寺に帰参している。
分裂
織田信長の時代になると、大きな衰退を迎える。朝倉家を支持していた証誠寺は織田軍の焼き討ちを受け、伽藍を焼失。さらに慶長元年(1596)に毫摂寺が証誠寺の末寺の大半を引き連れて独立すると、勢いを一気に削がれてしまった。かつて最大の規模を誇った横越門徒も以後現在まで最小教団となる。一時、今立郡村国村の村国山北麓(越前市村国の字正仏)に移転。善岌が明暦2年(1656)に亡くなると、幼少の善応が継ぎ善養が後見役となるが、のち2人が相続争いする。府中本多氏の裁決で善応が継ぎ、元禄3年(1690)に横越に戻る。善養は村国に留まり、証海寺を建てた。元禄6年(1693)に天台宗聖護院門跡の所属となり、門跡を補佐する院家寺院の格式を与えられたが、浄土真宗の看板すら奪われてしまった。
近現代
明治維新に乗じて天台宗から離脱するが明治5年(1872)、政府の命で西本願寺末となり、真宗山元派として独立を果たしたのは明治11年2月のことであった。 昭和23年4月、伽藍焼失。昭和26年、御影堂再建。昭和39年、阿弥陀堂再建。
(日本仏教基礎講座、日本歴史地名大系、国史大辞典)
伽藍と塔頭
- 御影堂:昭和26年再建
- 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。源信作。昭和39年再建。
- 覚善寺:塔頭
- 道明寺:塔頭
歴代住職
- 1:親鸞(1173-1262):浄土真宗開祖。
- 2:善鸞(1208-1277):親鸞の子。
- 3:浄如(1236-1311):
- 4:鸞如(1265-1342):
- 5:旦応(1319-1398):
- 6:如顕(1364-1445):
- 7:道閑(1386-1466):
- 8:道性(1439-1521):証誠寺を創建。大町門徒開祖如導の弟子。本願寺存覚と親交し、彼が義絶された時には庇護した。誠照寺の伝承では親鸞の五男とする。愛知県知立市の称念寺が道性の創建とされ、道性は三河の和田門徒出身と考えられている。
- 9:善秀(善充)(1466-1551):『日本仏教基礎講座』では善透とも。
- 10:善寿(1537-1587):善寿の子の善照が毫摂寺を創建したともいう。
- 11:善教(1523-1600):毫摂寺7世?
- 12:善光(1562-1621):毫摂寺10世?
- 13:善如(1602-1644):
- 14:善岌(1619-1656):毫摂寺6世?
- 15:善養(1636-1708):
- 16:善応(1653-1721):
- 17:善閑(1691-1754):
- 18:善阿(1722-1775):
- 19:善念(1749-1803):
- 20:善超(東溟)(1785-1855):公家小倉見季の次男。今出川家の猶子となる。
- 21:藤原善融(1812-1895):信光院
- 22:藤原善住(1852-1921):秋光院
- 23:藤原善瑩(1880-1938):旡対光院
- 24:藤原善敬(1909-):大清浄院
- 25:藤原光教(善鷲):専照寺四男
- 26:藤原光教:
善幸、善栄(玄秀、兼慶)、善鎮は毫摂寺や本願寺との関わりから歴代から除かれたらしい(『日本仏教基礎講座』)) (望月『仏教大辞典 付録』、『真宗山元派本山證誠寺史』、『真宗山元派本山證誠寺史』に引く『山元山系統略記』。24代までの生没年は『日本仏教基礎講座』)