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錦織寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
錦織寺(きんしょくじ)は、滋賀県野洲市にある浄土真宗の本山寺院。真宗木辺派の本山。阿弥陀堂、御影堂と並んで毘沙門天を祀る天安堂があるのが特徴。真宗寺院ながら鎮守の山王権現社があり、木部神社が隣接して一体の景観をなしている。親鸞が訪れた旧跡とされている。鹿児島県に浜之市別院がある。(参考:同名寺院錦織寺_(同名))
目次 |
由緒
鞍馬寺と同木で最澄が作ったとされる毘沙門天像から円仁が「野洲に一夜で松が生えたところがあり、そこに私を移せ」と夢告を受けたので、天安2年にここに堂宇を建て祭り、元号に因み天安堂と称した。元号寺
嘉禎元年(1235)、親鸞は関東から京都に戻る途中、毘沙門天の夢告を受け、この天安堂に足を運んだ。するとその晩、再び夢に毘沙門天が現れ、如来像を祀るように言われた。霞ケ浦から出現したという阿弥陀像をこの地に祭り、領主の石畠資長に帰依された。石畠資長は、願明と名乗り、寺を管理したという。
滞在中、親鸞は『教行信証』の最後の2巻を完成させた(『錦織寺伝』)。その喜びを描いた御影が御影堂本尊となっている満足の御影とされる。また暦仁元年(1238)7月6日、天女が降臨し、錦を織って仏前に供えたことから四条天皇から天神護法錦織之寺の名を与えられたという。
歴史
起源1:横曽根の法流
小堂から発展して成立した寺が真宗には目立ち、善光寺如来堂から発展した専修寺、聖徳太子堂から発展した柳堂妙源寺や勧堂真楽寺などがある。錦織寺も毘沙門天を祭る小堂から発展と考えられている。
由緒とは別に、実際に真宗寺院として錦織寺を創建したと考えられているのは横曽根門徒の系譜を引く慈空(?-1351)という人物である。本願寺覚如の子の存覚が記した『一期記』に、慈空を「木部開山大徳」と記している。
村上専精は、親鸞が逗留したのは1235年(嘉禎1年)の4月から8月の間とし、親鸞を初代とするのは名前を借りただけだと述べる(『真宗全史』)。また性信を監守を命じたのも、自分が近くの京都にいるのに関東にいる性信を呼び寄せるのは不自然と指摘し、もし事実としても有名無実のものだったとしている。
しかしながら、末寺に与えた本尊裏書にある系譜に性信の名があり、横曽根門徒の系譜を受け継いでいるとみてよい。一方で善性と願明を性信の次に入れる説が根強いが、日下無倫『真宗史の研究』によると、「善性と願明とは願性と善明の誤記であることは『聖空大師真影』に於ける存覚の銘文や(中略)「性信-願性-善明-愚咄、血脈如此」とある銘文によって明らかに知らるるのである」とある。愚咄と慈空は縁起では願明(石畠資長)の子とされるが、願明が願性に当たるのか、善明に当たるのかは分からない。
起源2:慈観の入寺
愚咄と慈空の兄弟は本願寺の存覚と懇意だった人物で、愚咄は本願寺関係の史料にも名前が出てくる。系譜には名前が入っているものの、愚咄は瓜生津で教えを広めており、錦織寺は慈空に任せていた。しかし、慈空は病のためか、後年のことを心配し、存覚を錦織寺住職に招きたいと遺言して1351年(正平6年/観応2年)に亡くなった。これを受け、兄の愚咄は存覚の下を訪れて請願。高齢のために断られるが、代わりに子の綱厳を入寺させた。この僧が慈観である。『御安心章』に詳しく述べられている。存覚は後見役を務め、たびたび錦織寺を訪れている。
慈観は広橋兼綱の猶子となる。広橋家は親鸞の生家である日野家の分家。以後、広橋家と密接な関係を保ち、広橋家の子を住職に迎えることもあった。
中世:叡尚・勝慧の離反
慈観に次いで、慈達、慈賢と継承。慈賢の時代の1453年(享徳2年)、伏見宮邦高親王の王子徳池宮が8歳で入寺するが2年で夭折。
なぜ王子を迎えたのかは分からないが、この後、錦織寺は混乱した時代を迎える。慈賢には慈範と叡尚の二人の子がいたが、慈範の死後の明応2年(1493)、弟の叡尚が錦織寺から離反し、本願寺蓮如のもとに帰参するのだ。この時、末寺40寺も離反し、錦織寺に大きなダメージを与えた。叡尚の子勝慧も父に従い、蓮如に帰依。蓮如は勝林坊の号を与え、娘の妙勝と結婚させ、山城国の三栖坊を与えた。妙勝が亡くなると、妙祐と結婚し、吉野の下市御坊願行寺の開山となる。当時、吉野には錦織寺門徒が多かったためともいう。
近世1:浄土宗兼学時代
慈範の死後、しばらく無住となるが、広橋家から養子を迎え、慈澄が就く。 しかし、混乱は続いていたようで次の慈養は継職まで三河で育ったという。慈澄の子とされるが、「他家の子」とする記述もある。
この慈養が永禄12年(1569)に就任すると、浄土宗と二宗兼学となる。当時、織田信長と本願寺の抗争が激しくなっており、同じ真宗として攻められないように表向きは浄土宗を名乗ったとも言われる。
錦織寺にとっては過酷な時代だったが、悪いことばかりではなかった。1573年(天正1年)、門跡寺院となり、十四葉菊の紋の使用を許された。さらに江戸時代に入ると二条城で徳川家康に謁見し、寺領20石を認められたという。
慈養の子、慈教が1643年(寛永20年)に死去すると1726年(享保11年)まで断続的な時代が続く。広橋家から養子を迎えたこともあったが12歳で早世。浄土宗兼学は続いており、『和漢三才図会』にも「浄土兼一向」とある。住職の代わりに看坊職が置かれ、寺務を司ったが、1668年(寛文8年)、看坊職の忍誉が兼学を廃して浄土宗専修の寺院にしようと試みるなどの事件があった。忍誉は寺社奉行の判決で追放される。
慈忠、慈綱、慈仁の3人は江戸時代の『大谷本願寺通紀』や1881年(明治14年)の『真宗年表』に歴代として数えられていることから、実際に住職であったと思われるが、『近江人物志』(1917年(大正6年))に「錦織寺は由来真宗なれども織田信長のために逼まられ一時二宗兼学たり。随って慈忠以下数世同寺の代数より省かる」とあることから近代になって除歴されたと思われる。おそらく浄土宗僧侶だったのだろう。現在は「看坊」として扱われている(「錦織寺年表」)。
伽藍の衰微も激しい。天正年間に創建以来の大火災に見舞われ、多くの寺宝が失われたのについで、1694年(元禄7年)にも火災があった。親鸞直筆の『教行信証』もこの時失われたという。
近世2:復興時代
1697年(元禄10年)、桂昌院(徳川家光側室、綱吉生母)から200両などを寄進され、御影堂の再建に取り掛かり、1701年(元禄14年)、竣工。にわかに活気づく。享保年間には兼学をやめ、浄土真宗専修にする動きが出る。同意しない信者が錦織寺を去るが、真宗の立場からすれば、次世代への胎動ともいえる。
1726年(享保11年)、約80年ぶり(異説あり)に住職を迎え、復興の時代となる。旧縁の広橋家から7歳の良慈が相続することが決定。宗派も兼学を廃し、真宗専修に復帰した。 さらに1735年(享保20年)には東山天皇の御殿を大広間として閑院宮から下賜された(現存)。1809年(文化6年)、関白の一条輝良の子である宅慈を住職に迎えることができたのも、寺の運営が安定した証だろう。宅慈の代には改めて門跡とされている。
宝くじの興行などで資金を得て1786年(天明6年)、講堂再建。1826年(文政9年)、数年前の地震で被害を受けた講堂再建。1831年(天保2年)阿弥陀堂を再建。1861年(文久1年)、天安堂を再建。寺観が整った。教学振興も図られ、1847年(弘化4年)、安居(研修会)を主催する信解社が設立された。
近現代
1872年(明治5年)、真宗公称許可され、明治政府から5本山の一つに認められた。18代賢慈は権少教正となる。1876年(明治9年)に明治天皇から親鸞に見真大師の号が贈られ、1881年(明治14年)には「見真」額が下賜された。しかし、広橋家から迎えた淳慈にも子がおらず、1896年(明治29年)、西本願寺大谷伯爵家から光尊の次男尊行を迎え、木辺孝慈と称し、華族男爵に列せられた。孝慈は勉学に励むと共に、全国で積極的に布教。勢力拡大に努めた。
伽藍
御影堂と阿弥陀堂がならぶ、いわゆる両堂並立様式の伽藍配置だが、両堂に続いて毘沙門天を祀る天安堂も並ぶのが最大の特徴。移転の歴史がないためか、伽藍は本願寺や専修寺のような東面ではなく、南面(南南西)している。門を入って正面にあるのが御影堂なので、御影堂が本堂なのだろう。1701年(元禄14年)再建の御影堂は二宗兼学時代の形態を後世に改造したものという。『教行信証』を書き終えた親鸞の喜びの姿を描いたとされる満足の御影が祀られている。阿弥陀堂はその東側にあり、常陸国の霞ケ浦から出現し、親鸞が木部まで背負ってきたとされる阿弥陀如来坐像を祀る。1831年(天保2年)再建。天安堂は1861年(文久1年)の再建で、毘沙門天は最澄が彫り、円仁が祀ったとされる。天安堂とは天安年間の元号に因むとされるが、毘沙門天を奉安する堂の意味だろう。天安堂の背後には親鸞の墓とされる御廟がある。御影堂の脇には講堂(集会所)がある。
また鎮守として山王権現社がある。隣接して木部神社がある。木部神社との関係は、各文献ともお互いの存在を黙殺しており不詳だが、事実上、一体の景観をなしており、なんらかの関係があったとみるべきである。錦織寺の古図にも神社は描かれている。
講堂の南側には寺務所・宗務所があり、大玄関、東山天皇の御殿から移築した書院、小書院、御因講御斎の間、庭園、会館、茶室、門主墓地などがある。親鸞が笈を掛けたという笈掛松の跡もある。
門前には塔頭寺院と思われる宝樹院、法雲院がある。近隣には親鸞旧跡の藤塚ややいたの河原がある。
組織
留守次第
各書に正式な歴代とは別に下記(人名は諸説ある)を歴代として挙げており、『真宗僧名辞典』に「留守次第」という語が使われていることから仮にこれに従う。
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 性信 | 1187-1275 | ||
2 | 願性 | 生没年不詳 | 善性とするのは誤りとされる。 | |
3 | 善明 | 生没年不詳 | ||
4 | 愚咄 | ?-1352 | 存覚と懇意だった。 | |
5 | 慈空 | ?-1351 | 実質的な開山。『存覚一期記』によると、慈空は「木部開山大徳」と呼ばれている。存覚に錦織寺住職就任を依頼するが、高齢のため断れる。 |
住職
法主や門主は宗派としての役職で、現在、寺院としての役職名は住職と思われる。戦前のものと思われる宗制には管長の呼称として「法主」を定め(第24条)、「本山錦織寺の住職は管長たる者を以て之に充つ」(第149条)とある。戦後は法主ではなく門主と呼び、教団を統理し、宗務を統裁し、「門主には法灯を伝承する錦織寺の住職があたっている」(『日本仏教基礎講座』)。 歴史上、誰を歴代に数えるかは議論があるようだが、現在の公式見解と思われるものに従う。住職が空位の時代には看坊が置かれていた。以下、カッコ内は看坊。
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 親鸞 | 1173-1262 | (法脈) | 宗祖。錦織寺の起源となった天安堂に滞在したとされる。 |
2 | 如信 | 1235-1300 | (法脈) | 親鸞の孫、善鸞の子。法脈上の歴代。 |
3 | 覚如(宗昭) | 1270-1351 | (法脈) | 親鸞の曾孫、覚恵の子。法脈上の歴代。 |
4 | 存覚(光玄) | 1290‐1373 | (法脈) | 覚如の子。法脈上の歴代。子の慈観を錦織寺に送り込み、後見役を果たした。 |
5 | 慈観(綱厳) | 1334-1419 | 1351-? | 中興と呼ばれる。存覚の七子。広橋兼綱の猶子。幼名は光威丸。随心院経厳に師事。東大寺で学び、青蓮院に入る。愚咄の要請で錦織寺に入る。『錦織寺宗門血脈譜』『浄土宗一流血脈譜系』を記す。1392年(明徳3年)、父の著書『六要鈔』を本願寺善如に伝える。『日本仏家人名辞書』には「その終わるところを知らず」とある。 |
6 | 慈達(綱昭) | 1365-1431 | 不詳 | 慈観の長子。瑞応院。広橋仲光の猶子。 |
7 | 慈賢(辺厳) | 1393-1461 | 1429- | 慈達の子。広橋兼宜の猶子。子に、跡を継いだ慈範、本願寺に転派した叡尚がいる。著書『現世利益和讃鈔』 |
8 | 慈光 | 1446-1455 | 伏見宮邦高親王の王子。8歳で入寺し、10歳で死去。『大谷本願寺通紀』では歴代に含めていない。 | |
9 | 慈範(観昭) | 1446-1489 | 慈賢の長子。広橋兼卿の猶子。弟叡尚は錦織寺を離れ、子の兼為(勝恵)と共に本願寺に帰属する。 | |
10 | 慈澄(教厳) | 1489-1573 | 広橋兼秀の実子。幼名は御寿丸。一説に「慈証(慈證)」という。 | |
11 | 慈養(賢昭) | 1549-1637 | 1569-1622 | 広橋国光の猶子。「錦織寺年表」に慈澄の子で「継職まで三河の国で育つ」とあるが、『日本仏家人名辞書』には「他家の人」とある。この代から浄土宗と兼学となる。二条城で徳川家康に謁見し、寺領20石を認められた(『人名辞書』には1681年(天和1年)とあるが1615年(元和1年)か)。 |
12 | 慈教(勝厳) | 1588-1643 | 1622-1643 | 慈養の子。広橋兼勝の猶子。(『日本仏家人名辞書』では慈養の弟子とある) |
(理道) | (1643-?) | |||
(正誉) | (?-1654) | |||
13 | 慈統(信昭) | 1649-1660 | 1654-1660 | 広橋兼賢の実子。12歳で死去。 |
(渓岩) | (1660-?) | |||
(古白) | (?-?) | |||
(蓮清) | (?-1664) | |||
(忍誉) | (1664-1668) | |||
(慈顕) | ?-1669 | (1668-1669) | 鑑誉とも。 | |
(詫誉) | ?-1669 | (1669-1669) | ||
除歴 | (慈忠) | ?-1707 | (1669-1682) | 広橋兼茂の猶子。『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている。『近江人物志』に「錦織寺は由来真宗なれども織田信長のために逼まられ一時二宗兼学たり。随って慈忠以下数世同寺の代数より省かる」とある。 |
(天暦) | (1682-?) | |||
(禽雄) | (?-?) | |||
(利天) | (?-1690) | |||
除歴 | (慈綱) | ?-1710 | (1690-1710) | 慈忠の弟子。穏誉とも。『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている。 |
除歴 | (慈仁) | ?-1725 | (1710-1725) | 慈綱の弟子。真如とも。『通紀』『真宗年表』では歴代に数えている。復興を図り、良慈を跡継ぎとする。 |
14 | 良慈(昭厳) | 1720-1787 | 1726-1787 | 中興。広橋家出身。広橋豊忠の子。京極宮家仁親王の猶子。子に修験道本山派住心院12世の賞ミン(1759-1806)がいる。 |
15 | 常慈(良厳) | 1744-1819 | 1787-1809 | 良慈の子。京極宮家仁親王の猶子。1787年(天明7年)就任。 |
16 | 宅慈(常昭) | 1787-1846 | 1809-1846 | 一条家出身。関白一条輝良の子。俗名は家昭、忠厚。無量寿院。『日本仏教基礎講座』には「醍醐家の生まれで、一条家の猶子として錦織寺に入寺」とある。 |
17 | 歓慈(常厳) | 1815-1844 | 宅慈の子。「観慈」とも(『望月仏教大辞典』)。「錦織寺年表」には「伝燈」欄から外されているが、欠落か。 | |
18 | 木辺賢慈(良昭) | 1842-1885 | 1846-1885 | 歓慈の子。教導職権少教正。病弱だった(『日本仏教基礎講座』)。 |
19 | 木辺淳慈 | 1871-1899 | 1885- | 広幡家出身。広幡忠礼の子。 |
20 | 木辺孝慈(尊行) | 1881-1969 | 1896-1969 | 西本願寺大谷光尊の次男。男爵。 |
21 | 木辺宣慈 | 1912-1990 | 1969-1990 | 孝慈の子。 |
22 | 木辺円慈 | 1939- | 1990-2019 | 木邊圓慈 |
23 | 木辺顕麿 | 2019- | 木邊顕麿。2019年(令和1年)5月に就任。 |
画像
資料
古典籍
- 存覚『錦織寺伝』:『錦織寺伝絵記』とも。佐々木月樵『親鸞伝叢書』に所収
- 存覚『六要鈔』
- 存覚『存覚袖日記』:龍谷大学善本叢書として刊行。常楽寺蔵。
- 慈観『錦織寺宗門血脈譜』
- 慈観『浄土宗一流血脈譜系』
- 『御安心章』
- 『錦織寺代歴巨細実記』:『錦織寺実記』とも。『真宗史料集成』所収
- 『大谷本願寺通紀』「旁門略伝」[1]
- 『錦織寺本尊略縁起』:1966『説話資料集4 碧冲洞叢書第68輯』所収。
- 『親鸞聖人満足之御影略縁起』:1966『説話資料集4 碧冲洞叢書第68輯』所収。
- 『聖人霊夢之毘沙門天王略縁起』:1966『説話資料集4 碧冲洞叢書第68輯』所収。
- 『諸堂回禄略記』:1966『説話資料集4 碧冲洞叢書第68輯』所収。
- 『親鸞聖人遺徳法輪集』:1711年(正徳1年)。江戸時代の巡礼記で錦織寺のことも登場。
- 『親鸞聖人御旧跡図彙』:1750年(寛延3年)。江戸時代の巡礼記で錦織寺のことも登場。
文献
錦織寺に関する資料・文献は極めて少ない。ほとんど未見。
- 村上専精、1916「錦織寺の起原及び沿革」『真宗全史』丙午出版社
- 禿氏祐祥、1919「錦織寺創立考」『六条学報』211
- 橋川正編、1927「錦織寺の創立及び変遷」『野洲郡史 上』野洲郡教育会
- 日下無倫、1931「木辺派錦織寺の起源」『真宗史の研究』平楽寺書店
- 谷下一夢、1941「吉野教団と錦織寺」『真宗史の諸研究』平楽寺書店
- 金子大栄、1942「十派の分流 木辺錦織寺派」『真宗の教義と其の歴史 歴史編』丁字屋書店
- 谷下一夢、1943『存覚一期記の研究並解説』
- 佐々木月樵「帰洛 木辺の天安堂」『佐々木月樵全集』3巻
- 佐々木月樵「木辺詣」『佐々木月樵全集』3巻
- 佐々木月樵「御真影 満足御影」『佐々木月樵全集』3巻
- 浜田隆、1960「滝上寺「真宗八高僧像」と「存覚袖日記」――鎌倉時代仏教絵画の一傾向」『文化史論叢 奈良国立文化財研究所学報8』
- 福永勝美、「錦織寺派寺院の設立」『血染めの都城真宗史』
- 宮崎円遵、1964「初期真宗の動向と錦織寺」『眞宗研究』9
- 志水宏行・田中教照、1979「真宗木辺派」『日本仏教基礎講座5浄土真宗』雄山閣
- 福間光超、1980「湖東地方における真宗教団の展開」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』19
- 1982「湖東における真宗教団の展開」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』21
- 1996『親鸞聖人御足跡の本山 錦織寺』錦織寺
- 今堀太逸、1999「近江湖東における親鸞門流の展開」『本地垂迹信仰と念仏 日本庶民仏教史の研究』法蔵館
- 津田徹英、2001「滋賀・錦織寺天安堂毘沙門天像と天台系所仏『北方毘沙門天王随軍護法真言』の周辺 」『日本宗教文化史研究』5-1
- 津田徹英、2008「滋賀・錦織寺不動明王立像の周辺--不動明王彫像の額上髪にあらわれた花飾りへのまなざし」『仏教芸術』299
- 八木意知男、2010「近世京都開帳記録--江州野洲郡「錦織寺略縁起」」『女子大国文』146
- 北村文雄、2011「存覚と錦織寺」『真宗学』123・124
- 「錦織寺と常楽台」
- 「錦織寺年表」境内に掲示
- 錦織寺ウェブサイト