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唐招提寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2023年4月22日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市にある南都仏教の本山寺院。本尊は、毘盧舎那如来。唐僧鑑真が創建した日本律宗発祥地の一つである他に、仏舎利信仰の聖地でもある。官寺二十五大寺・十五大寺の一つ(七大寺には入らない)。関東祈祷所。中世には貞慶や覚盛が入り、復興。象耳泉奘以後は、泉涌寺と兼務することもあった。平城宮朝集殿を移築した講堂が残る。戒壇院がある。現在の御影堂は、興福寺一乗院宸殿を移築したもの。鎮守は、水鏡神社。律宗唐招提寺派総本山。唐招提寺関連旧跡も参照。招提寺、建初律寺。
目次 |
組織
歴代住職(前近代)
世数 | 僧名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 鑑真 | 688-763 | 688年生。763年(天平宝字7年)死去。 | |
2 | 法載 | 生没年不詳 | 不詳 | 来日僧。鑑真の弟子。〓州霊耀寺を拠点として活動した。鑑真と共に来日。鑑真は臨終にあたり、三師に委嘱する。三師の上首であるため2世となす。 |
3 | 義静 | 生没年不詳 | 不詳 | 来日僧。鑑真の弟子。揚州興雲寺に住す。鑑真と共に来日。弘仁年間、律宗の宗義を上申する。 |
4 | 如宝 | ?-815 | ?-815 | 来日僧。幼くして鑑真に師事。勧進と共に来日。下野薬師寺に住したという説もある。763年(天平宝字7年)鑑真の遺命により唐招提寺に帰還。玉殿を建て阿弥陀三尊を祀る。815年(弘仁6年)1月7日死去。少僧都。 |
5 | 豊安 | 764-840 | 815-840 | 初の日本人長老。三河出身。765年(天平神護1年)生。幼くして唐招提寺に入り、如宝に師事。815年(弘仁6年)、唐招提寺を継ぐ。816年(弘仁7年)2月、律師・少僧都。825年(天長2年)4月11日、大僧都。唐招提寺に五重塔を建て四仏尊像を祀る。840年(承和7年)9月13日死去。同月28日、僧正を贈位。 |
6 | 真璟 | 生没年不詳 | 不詳 | 法載の弟子。 |
7 | 戒勝 | 生没年不詳 | 不詳 | 真璟の弟子。 |
8 | 寿高 | 生没年不詳 | 不詳 | 戒勝の弟子。 |
9 | 増恩 | 生没年不詳 | 不詳 | 寿高の弟子。 |
10 | 安談 | 生没年不詳 | 不詳 | 増恩の弟子。 |
11 | 喜寛 | 生没年不詳 | 不詳 | 安談の弟子。 |
12 | 暦〓 | 生没年不詳 | 不詳 | 喜寛の弟子。歴〓とも。(「〓」は「りっしんべん」に「宗」) |
13 | 空茂 | 生没年不詳 | 不詳 | 暦〓の弟子。雲茂とも。 |
14 | 戒光 | 生没年不詳 | 不詳 | 空茂(雲茂)の弟子。 |
15 | 一般老徳 | 生没年不詳 | 不詳 | 実名不詳。実範が出会った唐招提寺の老僧。 |
16 | 実範' | ?-1144 | ?-1144 | 1116年(永久4年)奏によって伽藍を修復。1117年(永久5年)3月、具足戒を授ける。1144年(天養1年)死去。 |
17 | 蔵俊 | 1104-1180 | 不詳 | 1104年(長治1年)生。興福寺興善院を創建。実範に律を学ぶ。1180年(治承4年)9月10日死去。『因明論大疏』など。教明房。 |
18 | 覚憲 | 1131-1212 | 不詳 | 興福寺別当。藤原通憲の子。1131年(天承1年)生。蔵俊の弟子。1212年(建暦2年)死去。壺坂僧正。(略歴は興福寺#組織を参照) |
19 | 貞慶 | 1155-1213 | 不詳 | 1155年(久寿2年)生。1213年(建保1年)2月3日、海住山寺で死去。解脱上人。 |
20 | 戒如 | 生没年不詳 | 不詳 | 覚盛や叡尊の師。興福寺知足院に住す。貞慶に師事。 |
21 | 学律覚盛 | 1194-1249 | ?-1249 | 中興1世。大悲菩薩。 |
22 | 円律証玄 | 1220-1292 | 1249-1292 | 中興2世。1220年(承久2年)生。覚盛に師事。1237年(嘉禎3年)秋、興福寺常喜院で慈戒を受ける。松院で具足戒を受ける。寛元年間、家原寺で別受。1249年(建長1年)、覚盛の死去で遺命により唐招提寺長老。1290年(正応3年)8月、叡尊を見舞う。1270年(文永7年)4月、金堂など修復。1275年(建治1年)講堂を修復。正応初年、牟尼蔵院を建立。1291年(正応4年)湯屋院を再建。1292年(正応5年)8月14日死去。73歳。円律房。 |
23 | 勝順真性 | 1236-1304 | 1292-1304 | 中興3世。1236年(嘉禎2年)生。証玄が1292年(正応5年)8月死去し、継承。1294年(永仁2年)8月14日、金堂の仏像を修復開眼。1304年(嘉元2年)2月1日死去。69歳。勝順房。 |
24 | 修広道御 | 1223-1311 | 1304-1311 | 中興4世。1223年(貞応2年)生。法金剛院、壬生寺、京都・清凉寺を中興。融通念仏を広める。1304年(嘉元2年)の勝順真性の死後、唐招提寺長老となるが、普段は京都にいた。1311年(応長1年)9月29日死去。 |
25 | 勒性尋算 | 1228-1306 | ?-1306 | 中興5世。1228年(安貞2年)生。円律証玄の弟子。嘉元年間、道御の命により唐招提寺に住す。1306年(徳治1年)2月仏涅槃日、死去。79歳。勤性房(勒性房)。 |
26 | 了寂円証 | 生没年不詳 | 不詳 | 中興6世。元は天台宗の僧侶だった。証玄に師事。唐古養福寺を再興。勒性尋算の後、唐招提寺を継ぐ。 |
27 | 律受信乗 | 生没年不詳 | 不詳 | 中興7世。証玄に師事。密教も修す。了寂円証の後、唐招提寺を継ぐ。 |
28 | 示観凝然 | 1240-1321 | ?-1321 | 中興8世。1240年(仁治1年)生。円照、証玄に師事。『八宗綱要』の著者。東大寺戒壇院長老2世。1321年(元亨1年)9月5日、東大寺で死去。(略歴は、東大寺戒壇院#組織を参照) |
29 | 禅戒覚恵 | 生没年不詳 | 1321-? | 中興9世。1328年(嘉暦3年)8月、唐招提寺で講義。1321年(元亨1年)の凝然の死後、唐招提寺を継承。1331年(元徳3年)3月、越前に新善光寺を建てた。 |
30 | 寂禅慶円 | 1254-1341 | 1334-1341 | 中興10世。1524年(大永4年)生。戒壇院円照に師事。寂禅房。松橋流密教を伝える。初め興戸郷興善寺に住す。1284年(弘安7年)唐招提寺戒壇での証玄の受具に参加。某年、室生寺住職。太平記に教円とある。後醍醐天皇の倒幕計画に加担し、幕府調伏の祈祷をして六波羅探題に捕らえられたという。1334年(建武1年)2月2日、唐招提寺長老。1341年(興国2年/暦応4年)6月15日死去。88歳。『宀一山記』『宀一秘記』。 |
31 | 寂心覚凝 | 生没年不詳 | 不詳 | 寂禅慶円の後、唐招提寺を継ぐ。鎌倉・極楽寺長老。寂心房。 |
32 | 禅了宗真 | 生没年不詳 | 不詳 | 寂心覚凝の後、唐招提寺を継ぐ。 |
33 | 覚禅尋慧 | 生没年不詳 | 不詳 | 1334年(建武1年)、慶円から別受。禅了宗真の後を継ぐ。河内浄蓮華院、室生寺に住す。覚禅房。 |
34 | 円了重海 | 生没年不詳 | 不詳 | 1334年(建武1年)、寂禅慶円から別受。覚禅尋慧の跡を継ぐ。 |
35 | 〓信剣智 | 生没年不詳 | 不詳 | 円了重海の跡を継ぐ。(〓は草冠・人・乃) |
36 | 尊空源秀 | 生没年不詳 | 不詳 | 〓信剣智の跡を継ぐ。叡尊の弟子とは別人か。 |
37 | 静忍賢誉 | 生没年不詳 | 不詳 | 尊空源秀の跡を継ぐ。 |
38 | 即仙会円 | 生没年不詳 | 不詳 | 静忍賢誉の跡を継ぐ。1368年(応安1年)念仏大会を営む。 |
39 | 禅一道海 | 生没年不詳 | 不詳 | 1334年(建武1年)、寂禅慶円から別受。覚禅尋慧から密教を学ぶ。1379年(天授5年/康暦1年)2月5日、円乗一実の壇に登る(住職継承?)。牟尼蔵院より葬送。 |
40 | 心光良猷 | 生没年不詳 | 不詳 | 河内国出身。河内将軍寺(大聖勝軍寺?)に住す。道海の跡を継ぎ、唐招提寺長老。1388年(嘉慶2年)9月に大法会を営む。 |
41 | 等円隆恵 | 生没年不詳 | 不詳 | 心光良猷の跡を継ぐ。 |
42 | 本地理宗 | 生没年不詳 | 不詳 | 室生寺中興・竹林寺中興5世の忍空に師事。1354年(文和3年)、唐招提寺の「綱維」となる。等円隆恵の後、唐招提寺長老となる。室生寺中興4世か。 |
43 | 宗禅窮源 | 生没年不詳 | 1398-? | 初め嵯峨地蔵院に住す。1398年(応永5年)8月4日、唐招提寺長老。 |
44 | 禅如元恵 | 生没年不詳 | 不詳 | 光台寺に住す。道海に密教を学ぶ。1379年(天授5年/康暦1年)唐招提寺の「綱維」となり、1392年(明徳3年)1月30日、「知事職」となる。仏舎利を奉じて華御所に至り、天皇に謁見。将軍の奏聞によって仏舎利の勅封を改める。窮源の後、唐招提寺長老となる。 |
45 | 了観重助 | 生没年不詳 | 不詳 | 経歴不詳。 |
46 | 尊真源智 | 生没年不詳 | 不詳 | 経歴不詳。 |
47 | 恵仁賢意 | 生没年不詳 | 不詳 | 応永年間、唐招提寺長老。 |
48 | 教林顕一 | 生没年不詳 | 不詳 | 1410年(応永17年)法金剛院長老。賢意の死後、唐招提寺長老。1425年(応永32年)別受を行う。没年不詳。 |
49 | 恵明任宗 | 1367-1454 | 1428-1454 | 1367年(正平22年/貞治6年)生。伊賀菩提寺(三重県伊賀市荒木)に住す。1425年(応永32年)、教林顕一の行う別受に証師として出仕。1428年(正長1年)唐招提寺長老。1454年(享徳3年)12月10日死去。88歳。 |
50 | 性如弘源 | 生没年不詳 | 1454-? | 1454年(享徳3年)、任宗の死後、唐招提寺長老。某年3月9日死去。 |
51 | 戒円実誉 | 生没年不詳 | 不詳 | 1410年(応永17年)11月、問者を務めた。のち唐招提寺長老。 |
52 | 賢如忠尋 | 生没年不詳 | 不詳 | 宣盛とも。河東の浄蓮華院に住す。1410年(応永17年)10月、「論談」を行う。戒円実誉の後、唐招提寺長老に住す。安養律院に住す。 |
53 | 良恵 | 1402-1486 | 1481-1486 | 1402年(応永9年)生。神福寺に住す。1481年(文明13年)唐招提寺長老。安養律院に住す。1486年(文明18年)4月1日、死去。85歳。 |
54 | 良海 | 1411-1496 | 1486-1496 | 1411年(応永18年)生。良恵の死後を継ぐ。1487年(長享1年)別受を授ける。1496年(明応5年)1月22日死去。86歳。 |
55 | 源祐 | ?-1506 | 1496-1506 | 無量寿福寺から晋山。菩提庵(能満院)に住す。1496年(明応5年)良海の死後、唐招提寺長老を継承。1487年(長享1年)唐招提寺で別受を授ける。1506年(永正3年)10月11日死去。 |
56 | 舜盛 | 1446-1545 | 1507-1545 | 1446年(文安3年)生。1487年(長享1年)良海から別受。某年(1507年(永正4年)か)唐招提寺長老。1507年(永正4年)秋、唱導。このとき62歳。1545年(天文14年)3月27日死去。 |
57 | 象耳泉奘 | 1518-1588 | ?-1588 | 駿河今川家の出身。今川義元の兄。遍照光寺から晋山。1518年(永正15年)生。華蔵山で剃髪。1539年(天文8年)通受。西大寺高範から唐招提寺で具足戒を受ける。某年、泉涌寺長老。筒井順慶の菩提寺の伝香寺を創建。1579年(天正7年)唐招提寺長老。1588年(天正16年)、正親町天皇に菩薩戒を授戒。1588年(天正16年)5月18日、泉涌寺で死去。71歳。墓所は泉涌寺。号は寛順。 |
58 | 光忍凝海 | 1522-1599 | 1580-1599 | 関東の出身。1522年(大永2年)生。鎌倉東勝寺に住す。1580年(天正8年)西大寺で講じる。1588年(天正16年)象耳泉奘が死去してその跡を継ぐ。また西大寺に住すとも。1599年(慶長4年)8月2日死去。78歳。 |
59 | 玉英照珍 | 1555-1628 | 1605-1628 | 字は賓囿。号は玉英。光照とも。河内国出身。1555年(弘治1年)生。俗姓は津田。象耳泉奘に師事。1572年(元亀3年)通受。1579年(天正7年)唐招提寺で別受。徳川家康に召されて宗要を問われる。1593年(文禄2年)勅で泉涌寺長老。1605年(慶長10年)8月6日、唐招提寺長老。1606年(慶長11年)10月28日、唐招提寺の戒壇で別受を授ける。伝香寺、法金剛院、善法律寺、金剛寺、寿徳院などを兼務。1615年(元和1年)11月6日、善法寺で先住堯清33回忌を行う。1617年(元和3年)8月、後陽成天皇が崩御し、勅により同車する。1620年(元和6年)10月18日、象耳泉奘33回忌を営む。1628年(寛永5年)12月6日死去。74歳。墓所は金剛寺か。 |
60 | 光宣照薫 | 1606-1676 | 不詳 | 阿波国の出身。1606年(慶長11年)生。俗姓は大津。伝香寺に入り、照珍に師事。通受、別受を経て、伝香寺住職となり山城寿徳院を兼務。1676年(延宝4年)1月6日死去。71歳。墓所は西方院。芝岳とも。 |
61 | 智照賢照 | 1617-1678 | 1675-1678 | 大和国八田郷の出身。俗姓は安井。1617年(元和3年)生。幼くして唐招提寺に入り、行賢に師事し、出家。慈戒、通受、四分律戒を受ける。生駒竹林寺を復興。1675年(延宝3年)9月18日、唐招提寺長老。1678年(延宝6年)5月5日死去。62歳。墓所は竹林寺。 |
62 | 即航義海 | 1626-1684 | 1678-1684 | 播磨国龍野の出身。1626年(寛永3年)生。唐招提寺に入り、能満院祐海に師事。1644年(正保1年)出家。1645年(正保2年)通受。1657年(明暦3年)別受。1678年(延宝6年)9月18日、唐招提寺長老。この時53歳。延宝年間、唐古養福寺を修復。1684年(貞享1年)10月14日、能満院で死去。59歳。長伝清算。 |
63 | 円巌玉周 | 生没年不詳 | 1686-1698 | 泉涌寺長老。京都出身。俗姓は速水。幼くして法金剛院で観圭に師事。慈戒、通受を経て1672年(寛文12年)別受戒。雲龍院如周から両部の伝法。観圭の後、法金剛院に住す。某年、勅により泉涌寺長老となり、紫衣を賜る。1686年(貞享3年)1月、唐招提寺長老。1692年(元禄5年)東大寺の大会に出仕。1698年(元禄11年)9月11日、戒壇を作り供養。同年冬に隠居して法金剛院に隠居。退室とも。円融とも。 |
64 | 南渓実海 | 生没年不詳 | 1699-1699 | 山城国木津の出身。幼年で唐招提寺で出家。通別戒を受ける。1699年(元禄12年)4月10日、唐招提寺長老。同月、中祖450年忌。同年9月に辞任。 |
65 | 智堂照峰 | 1642- | 1700- | 1642年(寛永19年)生。1700年(元禄13年)9月12日、唐招提寺長老。玉竿、玉算とも。[1] |
66 | 寛嶺照見 | 1665-1728 | 自坊は教学院。1665年(寛文5年)生。智堂照峰の弟子。教学院を経て竹林寺に隠居。のち唐招提寺長老。1728年(享保13年)11月4日死去。64歳。 | |
67 | 照山恵晃 | 1656-1737 | 浜岡家出身。1656年(明暦2年)生。円巌玉周に師事。泉涌寺長老。法金剛院に住す。顕密のほか、倶舎、唯識、悉曇、因明に通ず。1737年(元文2年)6月8日死去。82歳。著書『枳橘易土集』。 | |
68 | 泰円随応 | 1668-1738 | 自坊は徳園院。1668年(寛文8年)生。覚峰の弟子。1738年(元文3年)7月29日死去。71歳。 | |
69 | 秀峰元庭 | 1681-1739 | 自坊は円光院。大坂出身。1681年(天和1年)生。智了義顕の弟子。1739年(元文4年)冬、病床にありながら唐招提寺長老。同年12月19日死去。59歳。観月元庭。 | |
70 | 良天英谷 | 1683-1744 | 自坊は蔵松院。1683年(天和3年)生。1744年(延享1年)9月27日死去。62歳。 | |
71 | 大千照洲 | 1685-1755 | 1685年(貞享2年)生。円巌玉周に師事。法金剛院長老、泉涌寺長老。1755年(宝暦5年)6月29日、法金剛院で死去。71歳。 | |
72 | 孤洲元廓 | 1686-1758 | 自坊は法華院。京都出身。俗姓は岡村。江戸で育つ。智了義顕の弟子。1758年(宝暦8年)5月1日、徳園院で死去。73歳。墓所は西方院。観澄元廓。 | |
73 | 法林照充 | 1703-1765 | 大和国八田の出身。1703年(元禄16年)生。1765年(明和2年)8月11日死去。63歳。 | |
74 | 玉豊 | (陽山玉豊?) | ||
75 | 宝静誉淳 | 1765-1844 | 飛鳥井家の出身。飛鳥井雅重の子。1765年(明和2年)生。寺門派の天台僧として出家するが、讒訴に会い破門となる。その後、慈雲に師事。唐招提寺に入り、焼失した五重塔の残材で鑑真像を多数造立。関係寺院に与えた(高山寺、法金剛院に現存)。壬生寺、法金剛院に住す。1844年(弘化1年)死去。「古瓦譜」を作成。 | |
76 | 北川本常 | 1810-1882 | 1810年(文化7年)生。1882年(明治15年)死去。明治以後、興福寺を管理。廃寺になった大和・竹林寺東正面の石段を興福寺南円堂前に移設。 | |
77 | 道静 | 豊安の弟子とは別人。 | ||
78 | 常覚 |
歴代住職(近代)
- 79代までは『望月仏教大辞典』に基づく
- 遠藤證圓『鑑真和上 私の如是我聞』など参照。
世数 | 僧名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
79 | 大森覚明 | 1855-1914 | 1896-1912 | 律宗初代管長。自坊は五条金剛寺。1855年(安政2年)生。金剛寺住職(当時は御室派、現在は高野山真言宗)を経て、1896年(明治29年)から1912年(大正1年)まで唐招提寺住職。1900年(明治33年)8月10日、真言宗からの独立に際して律宗管長就任を内務省が認可[2]。1914年(大正3年)2月22日死去、60歳[3]。『唐招提寺霊像並宝物略目録』(1890)を編纂。 |
80 | 北川智海 | 1864-1946 | 1915-1946 | 自坊は壬生寺。1864年(元治1年)生。律宗独立に奔走。1912年(大正1年)6月10日、律宗管長就任を内務省が認可[4]。1915年(大正4年)6月、長老就任(管長就任と長老就任が異なるか)。1946年(昭和21年)3月28日死去。『円覚十万上人年譜考』を編纂。(徳田明本『唐招提寺』)(「海」は「毎」の下に「水」) |
81 | 森本孝順 | 1902-1995 | 1946-1995 | 昭和の中興。奈良県磯城郡多村出身。1902年(明治35年)生。1913年(大正2年)、壬生寺に入寺。1915年(大正4年)唐招提寺で得度。大谷大学卒。1940年(昭和15年)12月、講御堂寺住職。1944年(昭和19年)7月、唐招提寺蔵松院住職。1946年(昭和21年)6月5日、唐招提寺長老就任。南大門復興、御影堂建立、戒壇宝塔建立などを行う。2014年(平成26年)6月19日死去。2014年(平成26年)、中興堂に御影像を祀る。著書に『古寺巡礼唐招提寺』。追悼文集『香雨帖』。 |
82 | 遠藤証円 | 1938- | 1995-1998 | 神奈川県川崎市出身。1938年(昭和13年)生。1959年(昭和34年)入寺。大谷大学大学院修了。1995年(平成7年)唐招提寺長老・律宗管長に就任。1998年(平成10年)秋辞任。著書に『鑑真和上 私の如是我聞』(2004)。遠藤證圓。 |
83 | 川井戒本 | 1922-2022 | 1998-2000 | 自坊は法金剛院。北川智海の姉の孫。1922年(大正11年)生。1998年(平成10年)から2000年(平成12年)まで唐招提寺長老・律宗管長。2022年(令和4年)8月13日死去。99歳。著書に『法金剛院』(1995)。 |
84 | 益田快範 | 1923-2013 | 2000-2005 | 兵庫県神戸市出身。1923年(大正12年)生。京都専門学校(種智院大学)卒。安養院に入り、1936年(昭和11年)得度。1998年(平成10年)宗務長。2000年(平成12年)6月、唐招提寺長老・律宗管長。2005年(平成17年)6月退任。2013年(平成25年)1月2日死去。 |
85 | 松浦俊海 | 1934- | 2005-2010 | 自坊は壬生寺。京都市出身。1934年(昭和9年)生。龍谷大学卒。ミャンマーで修行。1969年(昭和44年)、壬生寺貫主。2000年(平成12年)宗務長。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)まで唐招提寺長老・律宗管長。 |
86 | 堀木教恩 | ?-2013 | 2010-2011 | 奈良県大和郡山市出身。1948年(昭和23年)、唐招提寺入寺。1957年(昭和32年)、念仏寺住職就任。1998年(平成10年)執事長。2005年(平成17年)宗務長。2010年(平成22年)4月1日、唐招提寺長老・律宗管長に就任。2011年(平成23年)10月、任期途中で体調不良で辞職。2013年(平成25年)12月14日死去。80歳。 |
87 | 石田智円 | 1935- | 2011-2016 | 自坊は唐招提寺西方院。三重県伊賀市出身。1935年(昭和10年)生。1959年(昭和34年)受戒。1976年(昭和51年)、西方院住職。2011年(平成23年)10月17日から2016年(平成28年)まで唐招提寺長老・律宗管長。石田智圓。 |
88 | 西山明彦 | 1951- | 2016-2021 | 自坊は伝香寺。三重県名張市の農家出身。1951年(昭和26年)生。龍谷大学大学院修了。2011年(平成23年)宗務長。2016年(平成28年)4月1日、唐招提寺長老・律宗管長。著書に『唐招提寺』(2010)。 |
89 | 岡本元興 | 1957- | 2021-2026予定 | 自坊は摂津・大覚寺。1957年(昭和32年)生。1980年(昭和55年)大谷大学卒。1983年(昭和58年)受戒。1997年(平成9年)大覚寺住職。2016年(平成28年)宗務長。2021年(令和3年)4月1日から2026年(令和8年)(予定)まで唐招提寺長老・律宗管長。 |